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(HSS型)HSP気質な私と母親の関係


はじめに

先週の木曜日にマッサージに行ったら好転反応で一気に頭痛やダルさ、眠気が出てきて、それと同時に生理も終わっているのにも関わらずメンタルダウンしておりました。。マッサージで体内の毒素が排出されると、自分の中に溜っていた感情も出てくると聞いたことあるのですが、まさにそんな感じです。

マッサージの翌日に、ふとした会話の中で『母との関係性』について話題になり、3つ子の魂100までと言いますが、幼少期の母親との関係性が大人になってからも影響してくるよね。という話題になり、そこで私の感情がバー――――っと大粒の涙と共に一気に溢れてしまいました。

実は、我が子を産んで子育てを始めてから、幼少期の記憶がフラッシュバックして、それまで良好に思えていた母との関係性に、疑問や怒りがわいてくるようになったんです。自分なりに、アダルトチルドレンという言葉にたどり着き、インナーチャイルドを癒すというワークに泣きながら取り組み、一度は解決したように思えていたのですが、まだまだ根深く残っていました。

わたしと母の関係

10代、20代を通して周囲から見たら、母娘仲良しで良いわね。と思われるような関係性でしたが、幼少期の私にとっては、今でもトラウマとなっている出来事がいくつかあり、それをずっと心のどこかに封じ込めてきたんだと思います。自分の感情に蓋をして、母とも仲良くやってきましたが、子育てをしていて、こんなに可愛いわが子に、なんでそんなことが出来たのだろう?私は愛されていなかったのかな?と感じるようになりました。

母の結婚当時

基本的には外交的で人前で表現することや、人と関わる楽しいことが大好きな母ですが、結婚と同時に好きなことや社会から離れ、長男の嫁として専業主婦になった母。姑から目の敵にされ、新婚にも関わらず毎朝早朝に素手でタワシをもたされ玄関とトイレを水洗いすることが日課とさせられていました。新婚旅行から帰って来た翌朝も例外はなく起こされたそうです。そんなストレス過多な生活の中、第一子を妊娠していることも気が付かず、1人目の赤ちゃんを出産後まもなく亡くすことに。

そんな悲しい出来事があっても、姑の性格は変わることなく、長男の嫁なんだからという理由で、母を自由にすることはありませんでした。それでも、外交的な母は自分の活躍の場を外に見つけると、どんどん外に出ていくようになり、それを面白く思わない姑は、次男の嫁をかわいがることで、母を除け者にしていきました。それもまた、母をストレスで苦しめました。

幼少期の私

天真爛漫で自分の意見をはっきりという私。母に対しても、反抗的な態度をとることも多かったと思います。今思えば、イヤイヤ期?母からの愛情不足やもっと認めて欲しいという気持ちから、あえて、そういう態度を取っていた可能性もあります。母からは、事あるごとに『お前は可愛げがない』『産まなきゃよかった』という言葉を浴びせられていました。そして、ヒステリーになると、反抗的な態度を取る当時まだ4-5歳の私の首を絞めて、首に紫色の痕が残るほど。。私はいつも泣いていたのを覚えています。

私には3つ上の兄と、3つ下の弟がいますが、兄は友達と外に遊びに行ってしまっていて、わたしと弟が、食卓でギャーギャー騒いだり、母のいう事を聞かないときには、イライラした母から菜箸が飛んできたり、包丁を向けられたこともあります。子供ながらに、とても怖い経験でした。

そして、私が兄弟と喧嘩になった際には、なぜか母は兄と弟を連れて出かけていき、私は父が連れて出かけてくれていました。どんなにひどい仕打ちを受けても、子供はママが良い。と思うもの。当時の幼い私もママが良い~と泣き、父を困らせていたのを覚えています。今思うと、唯一の娘をかわいがる父に対して、母は私に嫉妬していたのかな?とそんな事まで想像してしまいます。。。

このような生活の中で、母と父の喧嘩も絶えなくなり、2階の子供部屋で寝ようとすると、下の階から喧嘩の声が聞こえてきて、すぐに手を挙げる亭主関白な父。母に暴力をしないかと、子供ながらにいつも不安でした。不安や悲しさで枕を涙で濡らして寝ていたことも良くありました。

母の愚痴の聞き役

そして、私が成長する過程で、一人娘だったこともあり母の愚痴の聞き役は、いつも私でした。祖母、祖父、父の悪口をその都度聞かされて、少しでも私が母以外の肩を持つ発言をすると、『お前は血のつながりがあるからいいよね、ママはないんだから』と、お決まりのセリフ。嫌なら別れれば?出ていけば?と娘ながらに提案しても、行くところがない。という答えでいつも会話が終わる。

私は、子供ながらに、結婚は動物が檻に閉じ込められるようなものだし、決して幸せな形ではないと信じていました。そして、何よりも結婚したら、女性は子育てや家事に追われ、人生の中で自分の力で生きていくスキルや力がないと、母のように結婚から逃れたくても、逃れられない結末なんだ。。。という事を、ずっと子供時代から感じてきました。

そんなこともあり、小学校の道徳のテーマには、子供と女性の権利を無意識に選んでいました。

習い事の選択

小学生になると、常に忙しくしていたい私(家に居たくなかったのかもしれません)は、5つの習い事を掛け持ちして月曜日~土曜日までを習い事で埋め尽くしていました。小学校高学年になり、空手を辞めたいと母に相談すると、急に怒り出し、だったら全部やめなさい。と言われ、その理由が、母が空手のコミュニティを気に入っていたからでした。子供よりも自分を優先するなんて、どういうことなんだろう・・・と不思議に思います。

ファッションや歌へのダメ出し

もともとファッションが好きで得意な母。歌も好きで得意な母。その娘である私はとても息苦しい思いをしました。自分が良いと思って洋服を選んでも、大好きな歌で歌手になりたいと言っても『本当にセンスないね』と一蹴され、とても傷ついた記憶があります。自分にとって絶対的な存在の親に、背中を押してもらったり、認めてもらえたら、当時の私はどんな気持ちで毎日を生活していたのかな?と想像します。

今思う事

幼少期のトラウマや辛い気持ちがフラッシュバックしてからは、悲しくなったり、絶対母のようにはならないと誓いつつも、自分が子供に感情的になってしまったときに、深く自己嫌悪になったりと、まだ心の傷は根深く残っています。一方で、当時の母の置かれた状況やメンタル、パートナーである父との関係性をトータルで考えると、仕方がなかったのかな、未熟だったんだろうなと理解しようと努力しています。母親を学ぶ某心理学を少しのぞいてみましたが、そこでは母親はダメな人と全否定するような言い回しをしていて、それをみていて、より気持ちが落ち込みました。

つまり、私は母のことは本当は大好きだし、人として素晴らしいものも持っている。ただ、当時わたしが子供だった頃の母が嫌い。というだけであり、全否定したいわけではないという事です。

悲しいのは、これまでの幼少期の記憶で、きっと楽しい記憶も沢山あるし、むしろそっちの方が多いはずなのにも関わらず、このような傷ついた経験の方が脳に大きく刻まれていることにショックを感じています。

そして、自分が持つHSS型のHSPという繊細な気質を知り、子供ながらに繊細だったからこそ、人一倍、周囲の顔色や心情を敏感に察知し、そこに振り回されたり、疲れていたのかな。とも思います。

終わりに

子供は純粋で無垢で、心からママとパパが大好きで幸せを願っていることを、私は幼少期の経験で身をもって体感しています。こんなに辛い思いや経験をしても、家族の誰にも母のことを言いつけることが出来ませんでした。理由は、それが原因で家族がバラバラになったら嫌だったし、母のヒステリーな報復が怖かったのかもしれません。
子供が自分の気持ちを素直に表現できない環境だったら、子供はひねくれるかもしれないし、反抗するかもしれない、けど、それは承認欲求や愛情不足の裏返しだと思います。
どんな時も抱きしめて、あなたの味方だよ!って言って欲しかったし、あなたならできるよ!と背中を押してほしかった。

こんな経験もあり、私は日本人の愛情表現が嫌いだし、逆に外国のコミュニケーションがいかに愛情たっぷりに子供やパートナーに愛を伝えるかを知り、本当に素晴らしいことだと思っています。

そして、全ての子供にとって、安心安全な環境で意見を発言することや、信頼できる大人の存在、コミュニティが大切だし、ママがHAPPYでニコニコで居てくれることが、子供にとっては1番の幸せだと思っています。

私の幼少期の心の傷は、まだ根深く残っていて、この文章を書いていても、ぽろぽろと涙が溢れてきます。この想いがあるから、余計に『親や学校の先生以外の駆け込み寺』のような存在になりたいのかもしれない。と再認識しました。

最後まで読んでいただき、有難うございました!







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