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きっと、全部必要だった

一年前の2022年10月19日、東南アジアでのひとり周遊旅を終えて、日本に帰国した。

カンボジアで2年勤めた会社を辞めたそのままの足で始めた、東南アジア周遊旅(約3ヶ月半)からの帰国だった。

ちょうど今日みたいに気持ちのいい秋晴れの日で、常夏の国にすっかり染まっていた私は、
久しぶりの日本の秋にびびっていたけれど、想像より寒くなくてホッとした。


最寄りの駅を出ると、大きな金木犀の木が、花を満開に咲かせていた。

鼻腔に飛び込んでくる3年ぶりの金木犀の香りに、"ああ、金木犀の咲く時期に戻ってこられてよかった"と思ったのを覚えている。

日本に帰ってきて、季節を五感で感じられることが嬉しかった。


でもその当時は、まさかその一年後もまだ定職につかず、一年後の同じ日に同じ場所(実家)にいるだなんて、予想もしていなかった。

人生なにがあるか本当にわからない。


7年前に一年間留学して以来、一年に2回は海外に行く生活を送っていたから、丸一年も日本に留まるのは本当に久しぶり。

なんだか今の私には日本の居心地が良くて、出ていきたいという気持ちにならなかった。


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当時、今後の人生プランも目標もないままカンボジアでの仕事をやめた。

実家で今後について思案しながらも、ただ過ぎていく日々。そんな中で、いつ頃からだったか忘れたけれど、いつしか自分の中で密かに決め事をしていた。

それは、できる限り毎日、運動として近所の山を登ること。往復約1時間半のコース。

なんともなしに過ぎてしまう日々に、なにか自分の中でこれだけでもやる、って決めて行動することで、少し、自分の気持ちが楽になったんだと思う。


そうしてなんとなく自分の中で決めた決め事だったけれど、帰国後のある時期の私は、雨の日以外、ほぼ毎日のようにそのルートをひたすら歩いた。

この登山道はけっこう急な坂道で、初日は道中に2回は足を止めて息を整え、心臓の鼓動を落ち着かせないと登りきれなかった。

でも登るごとに休憩時間は短くなって、休憩回数も少なくなった。しばらくすると、休憩しなくても、息も乱さずに頂上まで登れるようになっていた。

毎日のように登ると心肺機能が向上するんだね。自分の成長を実感することができた。


どこまでも続くように見える階段(登山ルート)


そして今日、久しぶりにそのお散歩ルートを歩いた。もう半年以上歩いていなかったと思う。

登山道を登りながら、途中で心臓がのどから出そうなくらいバクバクして、2回休憩しないと登頂できなかった。

当たり前だけど、体力は元の状態に戻っていた。

元に戻ってしまった弱くなった自分の体力を感じながら、
私は帰国してからのこの一年で、いったいなにか得たものがあるだろうか?
と考えた。 


この1年間、定住しない生活を続けていた。日本全国を移動しながら、そのときどきの自分が面白そうだな、やってみたいなと思うことを試しにやってみる生活。

今まで何かしらの目的や目標があって、それありきで行動することしかしたことのない私にとって、初めての試み。

こうして点々と移動しながら生きていると、似たような生き方をしている人たちに会うようになる。
大体みんな私よりも若い、20代前半の子たち。

今、私が28歳でやっていることを、数年早くやっている子たち。

私と同年代くらいの人たちは、もうすでに自分のやりたいことがわかっている人が多いように、私の目には映った。


それくらいの歳のとき、私は何をしていたのか、と振り返る。

その頃の私は、もう興味を失った分野で、今自分がやっていることが将来に繋がらないとわかっていながら、やりたくもない研究をするために大学院でひたすら研究室に通っていたな。

周りには私と似たようなマインドの人もいないと思い込んでいて、誰とも仲良くなる気にもなれないままに。

就職してからも、このままでいいんだろうかという疑問を抱えながらも、なんとなくの2年間を過ごしてしまっていた。


私はいったいこれまで何をしてきたんだろう。

目の前にいる子達がキラキラして見えて、眩しくて羨ましい。

今、私と同じような生活をしているけど、まだ私の今の年齢になるまでに、数年の猶予がある。
20代の数年は大きい。


私のあの時間は、全部無駄なものだったんだろうか。なぜ私は、もう少し早くここに来ることができなかったのか…。

そう思ってしまう自分がいた。


だけど、違う。そうじゃない。

私には私にしかできない方法で、ここにたどり着いたんだ。

今の私になる前に、私なりの経験を積んできた。大学院時代だって、自分なりにできることをやったじゃないか。


私にはきっと、今ここにくるまでに、これら全部のプロセスが必要だったんだ。

周りと比べてしまうと、すごくすごく遠回りをしてきていると感じてしまうけれど。

それでもこれが私の軌跡なんだ。


トビタテに応募した。留学した。留学中に世界一周した。ひとり海外で旅をした。大学を首席で卒業した。ケニアでビジネスを作る短期プログラムに参加した。日本で短期のインターン活動をした。海外インターンも2回経験した。自分で足を運んで、色んな人に話を聞きにいった。修論を完成させて、修士号を得た。日本で就活した。カンボジアで働き出した。


全部私が20代前半でやってきたこと。

今の私がやっていることには一見関係なさそうに見えるこれらの経験が、今の私を作っているんだ。


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これだけの経験をしていれば、さぞかし色んな気づきを得て、それらの経験と気づきを活かして今を生きているんだろう、と周りから思われるかもしれない。


だけど私は、自分の中の点(経験)を繋げて線にする(次に生かす)のがどうやらすごく下手くそみたいだ。

そして経験から気づきを得るのも、同じくらい不得手なようだ、ということに最近気がついた。


だから、一見いろいろしているようにみえるけど(そして実際いろいろとやっているとは思うけど)、私は未だにどう生きたらいいかわからなくて、下手くそで不器用な生き方しかできない。


私がやってきたこと、経験してきたことだけを見て私に興味をもってくれた人たちは、実際私と会って話すと、たぶんがっかりすると思う。

私に興味をもってくれた人たちは、私がこれらの経験からなにを学んだかを知りたいのに、それを私がちゃんと言語化できる形で実感できていないから。


それくらい、私は今までの経験を今に活かすことができていないように感じるし、
そこからの気づきも、なにか私の人生を大きく揺るがすようなものではなかったと感じる。


これだけの経験をしても変わらない、確固たる自分があることは逆にすごいことなのかもしれない。

私は、自分を変えたい、変わりたい、とずっと思っている人間だから、嬉しいことではないのだけれど。


それでも私はきっと、少しずつ変化している。

今までみたいに、自分のやりたいことが変わっても、その時自分がやっていることが、過去の経験からは一見関係のなさそうなことだったとしても、過去に自分がやってきたことは決して無駄なんかではなくて。


今の私は気づきを得るのが苦手だから、きっと周りよりもたくさんの経験をしないと、気づきを得られない。

なにかひとつの気づきを得るために、人の十倍くらい色々と経験しないといけないのかもしれない。でもそれは全部、私には必要な経験なんだ。


過去の自分の経験からの決断の連続。それが今の私を作っていると考えると、無駄なことはたぶんなかった。

ダラダラとSNSやYouTubeを見漁って、一切生産性のなかったあの時間も、その時の自分にはきっと必要な時間だったから、それも無駄なことではないんだよ、きっと。


これからも自分と周りと比べて焦ることもあるだろう。
今までいったい自分はなにをやっていたんだ?と自分を責めることもあるだろう。
気づきを得られなかった過去の自分にがっかりすることもあるだろう。

それでもきっと、過去の私の経験が、今そのときの私の味方をしてくれるはず。


そんなことを思いながら歩いたこのお散歩ルート。


だからこの一年で経験したことも、今の時点ではどう今や未来に繋がっているのかわからなくても、私にとって必要なことだったんだと思う。

何はともあれ、またここに戻ってこられて、気持ちのいい気候の中、山頂の神社にお参りすることができたことを、嬉しく思った。


山頂にある神社


そして今、帰国当初を再現するかのように、なんのプランもない状態に再び立っている私。

でも、一年前の自分とはまた見えている世界が違うはず。


さぁ、これから私はなにを選択し、どう生きるのだろう。

私にもわからない。

ただ、前向きな気持ちになれる未来に向けて、進んでいきたいな。


2023.10.20
はる

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