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初めての遺書

昨日の夜、人生ではじめて遺書を書いた。

というのも、私の友人が、遺書展というものをやっていて。

本当は展示会に行きたかったけれど、物理的な距離の遠さから、今回は行けなかった。

それでも、その展示会に合わせて、私も一度、遺書を書いてみようと思ったのだ。

遺書を書くって、どんな感じなんだろう?
私はいったい何を書くんだろう?
と、純粋に興味もあった。

自分にとって、遺書を書くというのは初めての体験だったから、今回、遺書を書いてみての感想を書こうと思う。



遺書を書くのは今回が人生で初めてだった私だけれど、死にたい、と思ったことは、過去何度もあった。

今思い出せる、一番初めに死にたい、と思ったのは、私が小学生4年生か5年生のころ。

はっきりとした意志を持って、死にたい、と思い始めたのはこの頃だけど、その前からすでに、
ニュースでまだ6歳くらいの子が交通事故でなくなって、周りの大人が、「あんなにいい子だったのに…」的なことをいっているのを聞くと、
「なんで私じゃなかったんだろう(そんなにいい子が死ぬより、私が死んだほうがいいよね)」と思う、みたいなことはあった。

それ以来、死にたい、の思いは私の中のどこかにあり、ふとしたタイミングで強くなったり、あるいは全く思い出すことがない時期もあったりで、日常を過ごしていた。

突然だけれど、
死にたい
という思いは、ある意味で強いエネルギーを持っていると、私は思う。
死への積極的なエネルギーを、感じる。

でも、
生きるのをやめてしまいたい
という思いは、生きるのに消極的で、エネルギーが、ない状態。
もうすべてを諦めて、放りだしたい、やめてしまいたい、そんな感じ。

だから、このふたつの思いは、たとえたどり着く先が同じだったとしても、私の中では感覚として別だと思っている。

ここ半年ほどの私は、
死にたい、という積極的なエネルギーを持った状態と、
生きるのつらい、やめてしまいたい、というエネルギーがない状態と、
そのどちらでもない状態とを、行ったり来たりするような、そんな感じだったように思う。



自分の存在価値がわからない。
私、なんで生きているんだろう。

朝、目が覚めた瞬間から、
自分の生きる意味や価値を考えて、
自分自身と、自分の人生の無意味さ、無価値さを実感して、
涙が溢れてきて、布団をかぶったまま、静かに涙を流す、なんてこともあった。

死にたくなったり、生きるのをやめたくなったりする理由はその時々で違うのだけれど、根本には、自分の存在価値の欠落みたいなものがあるのかも、と、今これを書きながら思った。

そんな感じで、死にたがりで、生きるのをすぐに諦めてしまいたくなるような私だけれど、遺書を書こうと思ったことは、過去に一度もなかったと(私の記憶の限りでは)、思う。

別に、書き残したいことなんて特にないと思っていた。

いや、正確には、自分の頭の中で、
私が死にたかったときに頭に浮かんできた人たちへ向けて、言いたいこと、伝えたいことを伝える手紙を書く、みたいな妄想はしていたかもしれない。
と、これまたこの文を書きながら、定かではない記憶が思い出された。

だけど、あくまでもそれは全部私の頭の中だけで起こっている妄想だから、現実世界で実際にペンをとって紙に書く、ということはしたことがなかった。

スマホのメモに書く、みたいな発想も、なかった。


そんなだから、遺書を初めて書くにあたり、どう書けばいいのかわからなかった。

遺書の書き方やお手本を見てしまったら、それ以外の書き方ができなくなって、型にはまってしまう気がした。

型にはまってしまうのはいやだった私は、それでも、少しだけヒントをもらおうと思い、いったん、遺書とは何か?を調べてみた。

遺書は死ぬ前に書くもの、という認識でしかなく、そもそも遺書がなんなのか、あんまりわかっていなかった。


だけど結局、調べてもよくわからなかった。
いや、そもそも調べるモチベーション自体が、そんなに高くなかった。

だからもう、なんでもいいからとにかく書き始めよう!
と、書き始めた。

でもやっぱり、
遺書がなんなのかもよくわからないまま、
誰に宛てたものなのかもわからず、
何を書けばいいかわからない、
特に書きたいことも浮かばない、
そんな中で、遺書を書く。

あんまり気乗りがしなくなってきて、今無理して書く必要あるかな?とすら思えてきたりして。

そんなだから、集中してノートにひたすら向き合って書く、みたいなことは正直できなかった。

なんだかお腹も空いてきて、バリバリとスナック菓子を頬張りながら書いていた。

このとき食べる手が止まらなくて、2袋分のスナック菓子を消費して、気がついたら、夕ご飯前に700kcal超のカロリーを摂取していた…。恐ろしい。

それでも、私なりにノートを広げて、ペンを持って、
できる限り正直に、今の自分の中にあるものを、ただ出してみる。
そんな感覚でノートに書いていった。


出だしは、何を書けばいいかわからない、という正直な今の自分の思いから始まり、
その後は今まで通りの私って感じで、生きることに後ろ向きで、でもそれってしょうがないよねって感じの言葉が続いていた。
だけど、最後には全然別の角度から遺書を書いていた。

へえ、今の私は、こんなふうに思っているんだね、こんなふうに思えるようになったんだね、
と自分で書いていて、驚くような気持ちも感じつつ、

そうだよね、そうだったんだね、と思う自分もいた。


「どんな人生を生きたいか」
「自分が死ぬときに、どういう状態で在りたいか」
「死んだあとに、どう在りたいか」

そんなことを、遺書の後半にかけて書いていた。

書き始めは、そんなことを書こうだなんて、全く思いもしていなかったのだけれど、自然と流れで書いていたのだ。

遺書に、自分の人生どう生きたいか、自分が死ぬときにどう在りたいか、死んだあとにどう在りたいか、なんて、書いてもあんまり意味がない気もするし、遺書に書く内容ではない気もする。

それでも自然と、自分の最期のときに、私自身がどう在りたいか、を最後に書いて遺書を締めくくっていた。

なんだか、遺書というよりも、「死」を意識しながら書いた、今の自分へのメッセージ、自分自身へ宛てた手紙のような感じになったな、と今振り返ってみて思う。

この遺書を読み返すたびに、今の自分の在り方を省みて、自分の理想とする最期のために、
今の自分の選択は合っているのだろうか?
今の自分の在り方でいいのだろうか?
と、自分自身を見つめ直すことができそうだ。

遺書を書いてみて良かった。
遺書を書かなければ、意識することも、気づくこともなかったであろう、自分の理想とする最期の姿。

それを意識するだけで、これから生きていくうえで、自分の意識も変わってきそうだ。

遺書を書くきっかけをくれた友人には、感謝しかない。
本当に、ありがとう。


最後に、私が書いた遺書の後半部分をそのまま、ここにも書き記して、終わりにしたいと思う。


「私の人生、こんなものだった」ではなく、
「こんなにもたくさん経験できて、人にも恵まれて、幸せだった!」
と言って、死にたい。

自分自身と周りの人を心から愛して、大切にする。

そんな生き方をしたい。

そして、
「あの人は、愛の存在だったね」
「あの人に愛されて、幸せだったな」
と死んだあとに言われるような、人生を送りたい。

そのために私は、まだ死んでなんかいられないじゃないか、と遺書を書きながら思った。

自分がこんな風に考えていたなんて、書いてみるまでわからなかった。

書く機会をもらえて、感謝だ。

私を生かしてくれた全ての人、事象に、心から感謝の気持ちをもって、

「ありがとう。」

そうして感謝の気持ちを全身にめぐらせて、感じて、死んでいきたい。



はる
2024.2.5

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