見出し画像

ワインディングダンス Ⅲ

 陽炎のゆれる夏がやっと終わり秋風が吹き始めていた。
 水蒸気をたっぷり含んだぼんやりとした夏の風景は、澄み切った秋の輪郭線に変わっている。
 久しぶりに天気のいい休日だ。
 秋名峠に一人で来るのは二ヶ月ぶりだった。

 付き合う相手がいない時には、一人で走りに来るのに特に何の感情も持たなかったが、いざ恋人が出来てしまうと、澄んだ秋の空気が妙に寂しく感じる。
 
 しかし最近は薫とタンデムばかりで、思い切り走ることが出来ずにやや欲求不満だったのも事実だ。

 今日は誰か来てるだろうか。

 峠で走っていると、自然に同じ走り屋の仲間が出来てくる。
 特に仲の良いのが三人ほど。
 彼ら三人はよくつるんで走っていた。
 天気のいい休日だ。多分今日も来ているだろう。

 両側から木々が茂る森の中のワインディングロード。
 路面は所々アスファルトが荒れているところもあるが、いつも来るところなので無意識にいい路面を選んで走っている。

 TL1000SのVツインエンジンは、極低速で気難しいところもあるが、回して行けば怖いくらいのパワーを後輪一本にかけて路面を蹴っ飛ばしていく。
 四気筒のように滑らかな回転ではなく、馬が地面を蹴飛ばすような加速感が俺は気に入っている。
 コーナーで一気に向き変えをして深いバンク角を目いっぱい使って加速しながら立ち上がる。遠心力で身体がシートに押し付けられる。
 開いた内側の膝下、ほんの数センチのところを、うねるように路面が過ぎ去っていく。
 時折、路面の隆起が微かに膝カップでガードされた皮パンツを擦る。
 そうして何度か四輪に追いつき、追い越すことを繰り返す。
 
 ワインディングロードでバイクに追いつかれた四輪には三種類の行動パターンがあった。
 第一にあっさり道を譲るパターン。第二に無視して走行を続けるパターン。
 そして第三に加速して振り切ろうとするパターンだ。
 第一のパターンは中年から上の男性ドライバーに多く、第二のパターンはバックミラーなんか、はなから見ていない中年女性ドライバーに多い。
 第三は当然だが若い血気盛んな男のドライバーがほとんどだった。
 ただ、血気盛んなのは結構だが、たまにワインディングを走る程度のドライバーは、当然常連のバイクを振り切る事なんか出来るわけがない。
 四輪と二輪の性能差ではなく、技術の差で。
 
 そんな時はこっちも少し困ってしまう。
 下手にがんばられて事故を起こさせると、こっちに責任転嫁される恐れがあるからだ。
 あまり長く自分の前で危うい走りをされるのはまずいから、少し強引でも一気に抜いて引き離すのがこの場合は最善の策だろう。

 その第三のパターンが目の前に現れた。
 日産シルビアターボ、250馬力のハイパワースポーツカーだ。
 俺のバイクのヘッドライトを認めると、とたんにアクセルを踏み込んだのがわかった。
 改造マフラーの極低音が俺の腹に響いてくる。

 性能的にはいい車なのだが、しかしテクニックが追いつかないようだ。
 パワーバンドをきちんと使ってないし、タイトコーナーの立ち上がりでリヤタイヤがパワースライドしたとたん、びっくりしてアクセルを抜くからギクシャクした走りになっている。
 こういう場合は少し強引にでも前に出たほうが、と思っても道幅が狭い区間だから簡単には前に出れない。

 遅い四輪のペースで走ってると、後ろから一台のバイクが迫ってきた。
 青白カラーのGSX-R750だ。
 前のシルビアと間隔を空けて走っている俺の前に割り込んできた。
 そして瞬時に前のシルビアをパスしていった。

 カーブミラーで確認したとは言っても、ブラインドコーナーで反対車線に入っての追い越しはあまり感心しないな。
 少し長い直線で、俺もシルビアを一気にパスしてGSX-R750を追う。

 思ったとおりGSX‐Rのライダーは峰岸広美だった。
 女だてらという言葉は差別用語だろうが、あえてそう言いたくなるくらい、軽量750とはいえ135馬力もあるハイパワーのモンスターを、自由自在に操っている。
 コーナーでフルに倒しこんだバイクの内側の膝を、かすかに路面に擦りつけながら鮮やかに左コーナーを立ち上がっていく。
 あいつ、また腕を上げやがった。どこで特訓してきたのやら……。
 夏用メッシュジャケットではやや涼しい程度だった下界から、少し肌寒いくらいの風に変わる頃、峠の小さな公園が見えてきた。

「やっぱり振り切れないなあ。サーキットでかなり特訓してきたのに」
 悔しげな広美がヘルメットを取ると、長い髪が風にあおられてふわりと舞った。

「でもついてくのがやっとだったぜ。随分速くなったよ」
 俺もヘルメットを取って、ベンチに座った。
 そこには先着部隊の大木和馬と、早坂徹も来ていた。

「今日はあのかわいい娘が見当たらないな、もうふられたのかい」
 早坂がマイルドセブンの煙を吐きながら言った。
「それで元気が無かったのかな。いつもならスパッと抜いてくもんね」
 広美は自動販売機で買って来たホットコーヒーのニップルを引き開ける。
「あいつは試験なんだよ。おかげで久しぶりに攻めに来れたわけ」
 俺はそう言って腕時計を見た。
 まだ八時過ぎだ。すがすがしい秋の好天の一日は始まったばかりだ。

「俺はもう一本行くけど、ゲバラさん一緒にどう?」
 和馬がカワサキZX-9Rのエンジンをスタートさせた。
「いいけど、俺の目の前で寝っころがるのだけは勘弁な」
 俺も再びTLのエンジンに火を入れた。
「あたし達は少し休憩してるから気をつけてね」
 広美はベンチに寝っころがって、左手だけを振って言った。


 あの二人はひょっとしてできてるのだろうか。
 そういう問題に疎い事には自他ともに認める俺だが、あの二人を見ているとなんとなくそう思えてくる。
 いつも二人で居るようだし……。別にいいけどな。

 公園の駐車場を出ると、道はすぐに二手に分かれる。
 左の方は狭いタイトなワインディングロードで、右の方が少し広めのハイスピードコースだ。
 ふもとに降りる道はそのハイスピードコースの途中にある。
 両方の道は先のほうで合流してるから、約20分で一周して帰ってくることが出来る。
 いつもなら狭い方の道は使わずに、ハイスピードコースを交差する国道まで走り、また引き返してくるのだが、和馬は左手で合図をすると、狭い左側のコースへウインカーを出した。

 まあいいだろう。こっちのコースのほうがスピードが出ないから後追いするのには楽だ。
 こんなタイトなコースは大型のバイクではパワーをもてあますし、切り返しが重くて速く走るのには不利だ。
 やや下りでもあるし、250CCのスポーツバイクの方が速く走れるくらいだった。
 和馬はそんな難しいコースを、強引にバイクを寝かせながら軽やかに走る。
 ついていくのは難しくは無いが、立ち上がりでは一瞬離されてしまう。
 その分をコーナーの突っ込みで取り戻す事になる。
 そう言えば先日和馬はタイヤがもう擦り切れてきたと言っていた。
 新品に換えたのだろうか。
 深々とバンクさせるその走りには危うげな感じは微塵も無かった。

 国道に合流し、しばらく行ったところで再び右折してハイスピードのワインディングに入る。
 入り口から少し行ったところで二台のバイクが止まっていた。
 いつでもスタートできるようにライダーは跨っている。
 このコースに入っていくバイクか速そうな四輪を待っているのだ。

 二台の横を通り過ぎると、予期した通り後ろのほうでエンジンをスタートする音が聞こえた。
 車種は確か広美のGSX-Rと色違いの同タイプ、それともう1台ははっきり確認できなかった。
 和馬のペースで後ろを走る俺に、しばらくすると二台のバイクが追いついてきた。
 すぐに戦闘体制にはいることも無く、間隔を開けてついてくる。
 こちらの腕を値踏みしているのだろう。
 和馬も後ろの二台に気付いたようだ。
 アクセルを開けるタイミングがやや早くなり、コーナーへの突っ込みも厳しくなってくる。
 若干登りのコースだからパワーのあるバイクが有利だ。

 和馬のペースもそんなに遅いわけじゃないが、後ろの二台は余裕でついてくる。
 初めて見る彼らは相当腕が立ちそうだ。
 後ろのバイクのエンジン音が、さらに甲高くなってきた。
 いよいよ勝負に来るつもりらしい。

 右のコーナーで一台目が俺の前に割り込んできた。
 GSX-Rの方だ。
 良く見ると、750じゃなくて最近出たばかりの1000だった。
 160馬力のパワーと750並の軽い車体で、サーキットで生まれたワインディングの王者だ。
 さらにそいつは、次のコーナーで和馬も抜いてぶっちぎり体制に入った。
 和馬が必死に喰らいつくが、いかんせん立ち上がり加速が違いすぎる。
 諦めた和馬が、俺に先に行くように合図をしてきた。

 俺は後ろの一台を引き連れたまま、和馬の前に出る。
 後ろのバイクは俺のTLと同じくVツインのようだ。
 見るとドカッティ916、イタリアの高級品だった。
 性能的にはそれほどかわらないが、向こうがやや上というところか。

 とりあえず後ろのドカッティは考えない事にして、前を行くGSX-R1000を追い詰める。
 それまでは七千回転弱しか回していなかったが、此処からは本気走りだ。
 回転計の針は嬉しそうに躍り上がり、レッドゾーンの直前の一万回転を刻む。
 実際バイク自体の性能で言えば、GSX-R1000にはかなわないだろう。
 だが、問題はライダーの腕だ。
 そしてどれだけこのコースに慣れているかも重要だ。
 走りなれていないコースを限界走行する事は無謀を通り越して自殺行為である。
 前を行く彼も、腕はなかなかの物だが、やはりコースを知り尽くした俺達とは安全マージンの取り方が違ってくる。
 俺達より少しだが安全の度合いを大きく取る必要があるのだ。
 コーナーの突っ込みでも限界より低いスピードで入り、先を見通してからパワーを掛ける走りになっている。
 感情に任せて無茶をしないところは、むしろ感心するくらいだ。
 下手なやつほど後ろにつかれると実力以上の無謀な走りになってくるものだから。
 バックミラーで見てみると、後ろのドカッティとは少し差が開いたようだった。
 和馬はコーナー一つ以上開いてしまったのだろう姿は見えない。
 まあ転倒してるという事も無いだろう。
 
 さあどうするか。突っ込みで無理をしない彼の前に出ることはそれほど難しくは無いが、前に出ても振り切る自信はない。
 ハイスピードコースの此処で振り切るには、TLのパワーではちょっと無理がある。
 結局俺は彼の前に出る事はしなかった。
 後ろでつかず離れず、華やかな走りをする彼とダンスを踊りつづけた。

 公園の駐車場に入る。
 GSX - R1000の男は、ヘルメットをとっても傍に止めた俺と目をあわせようとはしなかった。
 ご機嫌斜めのようだ。
 長髪を後ろで束ねた、まだ若い男だった。
 やせてて、背はあまり高くない。
 まだ子供っぽい雰囲気が残っていた。
 グレイとイエローのツートーンカラーの皮つなぎを着ている。

 TLと同じⅤツインだが、イタリアンレッドが似合うイタリア製のドカッティ916がするりとやって来て俺の横に止まった。
 その後でしばらくしてやっと和馬が到着した。

「やあ。こんにちは。オタクのTL速いね。ここの常連さんかな」
 ドカッティの男が白いシンプルなヘルメットを取ると、話し掛けてきた。
 こちらは俺と同じくらいの年齢で、背の高い男だった。

「下原さんはここでは最速なんですよ。ライトチューンのTLだけど、どんなやつが来ても負け無しなんだから」
 俺が答える代わりに、横から和馬が口出ししてきた。

「俺達は主に県北の背振山周辺で走ってる者なんだ。俺は斎藤。そっちは笠井、よろしく」
 斎藤と名乗る男が右手を突き出してきた。
 俺は一瞬握手と気付かなかった。
 それでもすぐに気を取り直して彼の右手を軽く握った。
 気障なやつだな。
 笠井という男は相変わらずこっちは見ずに横を向いたままだ。

「こいつの事は気にしないでくれよ。あんたのTLを振り切れなかったんでいじけてるだけだから」
 斎藤の言葉にほんの少し顔を赤くして、笠井が振り向いた。

「もう一度走ればぶっちぎりさ。初めてのコースで無理するやつはただの馬鹿だ」
 やはり性格はまだ子供っぽいところがあるな。
 でも走りは落ち着いたいい走りだった。
 挑戦されたらもう一度走ってもいいかな。
 俺のやる気を見透かしたのか、斎藤がなだめるように言い出した。

「まあまあ、笠井、つっぱるなよ。俺達は別に他流試合を申し込みに来たわけじゃないんだから。実は話せば長くなるんだけど、俺たちのホームコースに速い四輪が一台入り込んできてね、俺達は全滅。この笠井が何とか対等に勝負してたんだけど、クラッシュして敗北。それ以来その車は来なくなった。先日やっと笠井のバイクも新調したしここらでリベンジしたくて探し回ってるってわけなんだ」
 
 徹と広美は少し離れた場所で興味深げにこちらを伺っている。
 速い四輪という言葉で、ブルーインプの姿が俺の脳裏に浮かんできた。
 和馬も同じ思いだったんだろう。
 
「それ、多分青いインプレッサWRXの事じゃないのかな」
 和馬がそう言うと、斎藤の顔が嬉しそうにほころんだ。
「そうそう。やっぱりここにも現れてるんだ。最後に見たのはいつかな」
 
 話しこんでいる和馬達にちょっと手を振って、俺は徹達の休んでるベンチの方に歩いていった。
 彼らのリベンジには興味無い。
 そんなに熱くなっては楽しくないだろうに。
 わざわざ他の峠まで探しに来るなんて。

「いま広美と話してたんだけど、今度みんなで飲み会やらないか。ワインディングチーム・ゲバラの誕生を祝って」
 徹の話はそれほど唐突とは言えなかった。
 今度一度みんなで飲みたいな、なんて話はほとんど会う度に言い合っていたのだから。
 でもそれは決して実現しない夢のような話だった。
 みんな仕事などに忙しかったし……。

 それに、バイクを降りた俺達には話をするような共通点があるとは思えなかったし……。
 薫の出現が、その夢のような話を現実にする後押しをしたのは確実だ。

「いいけど。チーム・ゲバラって名前を止めるのならな」
 徹の座ったベンチの横に腰を下ろす。
「やっと本当にみんなで一緒に飲めるね。いつになるのか当ても無く待ってた甲斐があったわ。詳しい日程はあとでね。薫ちゃんの都合も聞かないと、だしね。それじゃ、あたしはもう一本行ってくるわ」
 フルフェイスヘルメットをかぶる為に広美が髪を後ろで結びながら言った。
 ヘルメットかぶる度に髪の面倒も見ないといけないんだから女性は大変だ。
「気をつけていってきな」
 徹が声をかける。
 俺もひとつ手を振って送り出してやった。

 次の週の金曜日、居酒屋に集まった彼らの顔はいつも峠で見るのとは随分違って見えた。
 俺も彼らには同じように見えてるのだろうが……。
 徹は背広姿。広美はタイトなOLスーツ、和馬と俺はジーンズ履きのラフなスタイルだ。
 そして薫はミニスカートからの伸びやかな足を惜しげもなく披露していた。

「薫ちゃん、結構飲みそうだね。わりと強いほうじゃない?」
 全員分のビールを注文したあと、徹が上目使いで言った。

「えへへ。わかりますか。わりとビールは好きなんです」
 薫も嬉しそうにしている。今日は言葉使いが普通だ。
 二人でいるときの、あの変な大阪弁は出てこなかった。

「それでは、長年彼女がいなくて寂しい思いをされてきたゲバラさんにはじめての彼女ができた事を祝しまして乾杯と行きます。乾杯」
 徹の音頭でささやかな宴会が始まった。
 ちょっと塩味がきつい枝豆は、みんなのビールをあっという間に空にして、次々に新しいジョッキが運ばれてくる原動力となった。
 多分そのつもりで、料理は全部少しだけでも塩味がきつくなってるのだろう。

「でも下原さんが今までもてなかったのはちょっと納得いかないなあ。病院の事務職なら若い看護師とか、知り合う機会多いでしょうに。和馬ならわかるけど……」
 そう言う広美もやや酔いが回ったのだろうか目元が少し赤くなってきていた。
「ひでえなあ。広美さん。俺わりともてるんだぜ」
 和馬は、から揚げを噛み千切りながらそう言った。
「まあ、誰でもいいってのなら彼女作るのなんか簡単な事かもしれないけど、やっぱり俺は面食いだからね。広美くらいの美人か、薫くらいにかわいくないと食指が動かないんだ」
 そんな話をしてる横では、徹が薫に話し掛けていた。

「ねえ、薫ちゃん。何でまたゲバラなんかを好きになったのかな。後学のために聞かせて欲しいんだけど」
「なんでかな。バイクが格好よかったからかなあ」
 薫の返事にむっときた俺は一言いってやろうとしたが、広美達との話で忙しく聞き流すしかなかった。
「バイクかあ。そうだね。TLは格好いいものね。でも俺のCBRの方がもっと格好いいよ」
 なんてやつだ。徹の奴、人の彼女に手を出したら承知しないからな。
 バイクでは遅いくせに女には手の早い奴なんだな。

「でも、あたしあのバイクが好きなんです。オレンジ色はちょっと趣味じゃないなあ」
 そうそう、それでいいんだ。
 適当にあしらわれている徹の悔しそうな顔を見ると酒の酔いも手伝ってすごく愉快になった。

「そう言えば、こないだのドカッティの連中はブルーインプと会えたのかな。和馬何か知らないか」
 徹が話題を変えた。
「いやあ、詳しい事は聞いてないんですけどね、先週走りに言った時、知り合いがGSX―R1000の割れたカウルの破片を見付けたっていってたんですよ。あいつのかどうか知りませんけど……」
 和馬がタバコを出して火をつける。
「あいつのじゃない事、もしあいつのであってもたいした怪我でない事を祈って乾杯」
 和馬が自分で締めくくった。
「どうでもいいけどタバコは止めてよ。煙たいわ」
 広美が抗議する。
「居酒屋ですよ、ここは。まわりでも皆吸ってるじゃないですか」
 和馬は不満そうだ。
 まあそうだろうけど、俺も広美に同感の一票を入れる。
 徹も胸ポケットのラークに手を伸ばしたが、その手をテーブルに戻して指でこつこつ叩いた。

「ようし。それじゃあみんなたくさん食べたところで、カラオケに行こうぜ」
 普段の俺らしくも無くリーダーシップを発揮して、みんなに一次会の終了を宣言した。
 カラオケボックスに場所を移すと、皆レパートリーの中から何曲かずつ披露した。
 俺は最近お得意の浜田省吾を二曲歌い、薫は俺の知らない最近の歌手の歌を、身振り手ぶり合わせながら歌った。
 トイレに席を立ったとき、用を済ませて戻ろうとしていた俺を、トイレの入り口で待っていた広美が呼び止めた。
 かなり酔ってるみたいだ。壁に寄りかかってこっちを見ている。

「大丈夫かい?」
 側による俺に広美は抱きついてきた。
「おい、しっかりしろよ」
 いったいどうしたんだろう。それほど飲んでるようには見えなかったけど。
「薫ちゃんかわいいね。良かったわね。いい娘が見つかって」
 広美はそう言って俺の胸に頬を擦り付ける。
「……好きだったんだから。あたしだって」
 あっけに取られている俺に、広美は小さく言って離れた。
 そのままふらつく足取りで女性用トイレに消えていった。

 喧騒渦巻くボックスに戻った後は、その事はしだいに気にならなくなり、忘れていった。俺も酔っていたし、周囲の雰囲気は最高だったし、細かい事を考える場面じゃなかったから。
 もし、薫に出会う前に広美に告白されていたら、多分すんなり付き合う事になっただろう。
 今まで特別な感情は持っていなかったが、顔も身体も偏差値70は行くかというくらいに素敵な女性だ。
 どうせ俺なんか見向きもされないと思って、今までわざと無視していたかもしれない。
 自分自身の感情を……。
 でも今は薫がいる。俺には薫がいるんだ。
 俺は浜田省吾の曲を熱唱しながら自分の中でそう踏ん切りをつけた。

 二次会をお開きにしたのは十一時を少し回った頃だった。
 未成年じゃないとはいえ薫はまだ学生だ。
 十二時までには帰らせないといけないだろう。
 繁華街の近くのバス停まで五人で歩いた。
「広美さん大丈夫かな。一人で帰れるのかな、タクシーの中で寝ちゃいそうだけど」
 手を貸そうとした徹を断って、一人で歩く広美を見ながら、和馬が言う。

「方向が同じだから俺が送ってくよ。大丈夫、部屋には上がらないから」
 徹と広美が同じ方向。
 俺と和馬と薫は共に逆方向だった。
 
 バス停でタクシーに乗り込む広美は、最後に俺を見て少し笑ったように見えた。
 すぐに見えなくなったから本当に笑ったのか、泣き顔だったのか、はっきりしないが、俺はどっちでもいいと思う事にした。
「じゃあ、俺、ラーメンでも食べて帰りますから」
 和馬は俺達に気を利かせて、足早にいなくなった。

「もっと遊んでいたかったのに、終わりはあっけないもんやな」
 今日初めて薫の変な大阪弁が出た。
「おまえが学生じゃなかったら朝までだって付き合うけどな。いくら明日休みと言っても午前様はまずいだろ」
 酔客を乗せたタクシーがひっきりなしに通る大通り。
 その歩道橋を二人で上った。
 飲み屋街では金曜の十一時過ぎなんかまだ早い時間帯だ。
 もう一軒いこうなんて騒ぎながら大勢のグループが階段を下りてくる。
 薫がその人ごみに押されてふらついた。
 そして俺の肩にしがみつく。
 男達が通り過ぎた後、俺は薫の身体をきつく抱きしめた。
 細い腰をぐいっと引き寄せる。
 上を向いて待つ薫の半開きの唇に自分の唇を重ね、人目も気にせずお互いの舌を絡めあった。
 薫の舌はびっくりするくらいに熱かった。

「あたし本当は悪い娘なんよ。午前様になる事なんか全然珍しくないんやから」
 薫の目線の先には華やかなネオンの看板がピンク色の光を放っている。
 俺も限界だ。
 紳士ぶるのもいいかげん飽きた。
 俺は薫の手を取って、ピンク色のかわいい看板がかかっている入り口に向かった。
 
 今からだとお泊り料金になります、という受付の声も意に介さず、それで結構と大急ぎで部屋に向かった。
 二人で服を脱いで、二人でシャワーを浴びた。
 薫の肌は滑らかで心地よかった。喘ぐ声も変な大阪弁だったのは、後になって思えばおかしく思えたが、その時には全く気にならなかった。
 気にしている余裕もなかったという事か。
 薫は初めてじゃなかったが、お互い様だ。別に気にすることではなかった。

「このまま朝がこなければ、地球が滅亡してもええわ」
 軽い毛布に二人で包まって、薫の頭は俺の右腕の上だ。
「俺も同感だ」
 静かな夜だった。不思議と車の通行音も人声も聞こえなかった。
 世界の終わりが来たとしたら、今なら歓迎できるかもしれない。
 薫と二人で終われるのならば……。


 なだらかな斜面の芝生に寝転がった俺の顔に、花びらが落ちてきた。
 ふと右腕を見たが、そこに薫のかわいい寝顔はなかった。      
 黒アリが一匹はっているだけだ。
 春の太陽が淡く周囲を染め上げている。
 薄緑の風景の中を黄色い蝶が二匹絡み合って飛んでいた。
 薫の夢を見るのはもう何度目だろうか。
 いいかげん忘れた方がいいのだろうが……。

 遠くからバイクの排気音が聞こえてきた。四気筒の音だ。
 高音のややきついその音は1000CC以上ではないな。
 750か、600くらいか。

 すぐにスズキGSX―R750の青いカラーリングが左コーナーを抜けて、こちらに向かってきた。パーキングに入るつもりだ。

 俺は起き上がってあぐらをかいた。
 ヘルメットとレーシングスーツのデザインで広美だというのはすぐにわかった。
 
 俺のTLの横につけると、広美はヘルメットを取って俺を見た。
 広美とは一年ぶりだ。
 薫が死んでから俺自身ここにくるのは初めてなのだから。
 あの飲み会以来になるかもしれないな。

 薫の事で慰めの言葉なんかを聞くのは嫌だ。
 薫は死んだけど、俺の心の中でずっと生きているんだから。
 俺はそう思いたいんだから。

 そんな俺の気持ちが通じたのかどうか、知る由もないが、広美は一言こう言った。

「Shall We Dance?」
 広美が笑いかける。俺を救ってくれる笑顔だった。
「いいとも!」
 俺も笑顔で答えた。

 そして、ワインカラーのヘルメットを取り上げ、それに積もったピンクの花びらを左手で振り払った。


      ワインディングダンスⅢ おわり


      ワインディングダンス 完

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?