見出し画像

夕陽を追いかけて

 お父さん、僕は今まで幸福でした。そしてこれからも幸せに生きていきます。
 それだけを書いた真っ白な便箋を、棺の中に横たわる父の白い着物の胸元に忍ばせた。
 正座をして線香に火を灯す。一本の白い煙が、僕と父との超えられない壁を示すようにまっすぐ上がっていった。
 父は僕を許さなかった。 死ぬまで、僕を拒否していた。

 僕の背中側から聞こえる言葉の中には僕をあからさまに非難する声もあったが、それらを無視して僕は手を合わせた。
 横須賀の店に父が現れてから、ちょうど一年が経っていた。
 あの頃も随分老けていたように感じたが、すでに死の病の前兆が身体を蝕んでいたという事なのだろうか。

「公彦、ちょっと手伝ってくれる?」
 目ににじむ涙を感じながら振り向くと、青白い顔をした母が無表情に立っていた。
 僕は小声で返事をして立ち上がった。
 黒い薄手のスカートの裾がふわりと揺れて、まき起こった風が滑らかだった線香の煙をばらばらに乱した。
 母も僕を恨んでいるのだろう。
父を死に追いやったのは僕だと思ってるかもしれない。

 これ持っていって、と母は僕にイカの輪切りのから揚げがいくつかのった盆を差し出した。
 黒い漆塗りの盆に五つの皿がのせられている。
 それを母から受け取ると、親戚や父の知人達の待つ酒席に運んで、挨拶をしながら適当に並べた。
「やあ、公彦君か。話には聞いていたが随分美人になったな。おじさんは、君の生き方には賛成もしないが反対もせんぞ。まあ、誰でも好きなように生きる権利があるからな」
 母の弟に当たる雄介おじさんが、僕の手を引いて隣に座らせようとした。
 他人の好奇の目には慣れていても、親戚や知人達の前ではあまり目立ちたくなかった。
 でもむげに拒否するわけにもいかない。仕方なく紺色の分厚い座布団に正座した。
「ええ? この娘、公彦君なの? じゃあ清二さんの一人息子の……」
 始めてみる顔のおばさんだ。たぶん遠い親戚なんだろう。驚きの表情を隠そうともしない。
 白髪を染めてから日がたつのだろう。額の生え際が白くなりかけていた。頬が少したるんでいる。
 40代くらいの女だ。
「聞いてなかったのかい。高校卒業して女になったんだよ。清二さんも最初ずいぶん悩んでいたが最後は吹っ切れたようにしていたよ。公彦の幸せが一番だって言ってさ」
 聞かれたくない言葉が部屋の中に大音量で広がる。
 偏見を受けるのには慣れているが父の亡骸の横では言ってほしくない。

「でも、本当に女らしいわね。全然男に見えないわよ」
  二人の会話で他の関係の無い他人の視線が集まってくるのがわかった。
「何せ年季が入ってるからな。利佳子姉さんに聞いた話じゃ、高校を卒業する頃にはこの道に入ってたそうだから」
 短く刈った頭をなでながら、雄介おじさんは酒で赤くなった顔をにやけさせる。
 席を立つタイミングをはかって立ちあがろうとしたが、やはり無理やり手を引かれてまた座らされた。
「まあ、飲みなよ。久しぶりに会ったんじゃないか。ゆっくり話そう」
「そうよ、あなた今どこで働いてるの? 何か困った事でもあるんじゃないの」
 女もそう言いながら僕の隣に席を移してきた。
 雄介おじさんと女にはさまれる形になってしまった。
「いえ、別に困ってなんかいませんから」
 答えながらも進められた日本酒を一口飲み込んだ。
 喉から大手メーカーのまずい酒が滑り落ちていく。
 胃の中にろうそくの火みたいな小さな火が燃え出した。
「でも、何でまた、女になろうと思ったの?」
 これまでに何度も聞かれてきた不躾な質問がまたここでも繰り返される。
 殺意に似た感情をもって女の胸元に視線を移す。
 金色の細いネックレスが紺のワンピースの襟元から覗いていた。
「理由なんかありません。おばさんが自分を女だと思ってるのと同じことだと思います」
「そんな事はないわよ。物事には道理とか理由というのがはっきりあるんだから。男に生まれたのが自然の摂理なら、それを外れるにはそれなりの道理がないとね」
 しつこい女だ。
 どうして他人の事なのに放っておいてくれないのだろう。
 あなたに何か迷惑かけましたか、と怒鳴ってやりたかった。
 しかし、この程度で切れていてはニューハーフはやってられない。
「普通思春期に何かあるのよね。こんな風になる子って」
 女は僕を素通りして雄介おじさんと話し始めた。
 僕はまずい日本酒をもう一口飲むと、女の言葉に反発を覚えながらも、あの夏休みの夕暮れ時のことを思い出してしまった。

 熊野岳山頂の展望台は、夏には格好のアベックの愛の巣になるらしい。
 辰夫が仕入れてきた情報は、男と女の性愛というのに段々と敏感なる中学二年の頃の僕にとってもすごく興味深いものだった。
 熊野岳の登山口は家から歩いて三十分くらいのところにある。
 そしてそこから展望台まで、約一時間。
車道が通っているから車に乗ったアベックは歩いて上る必要はないが、車を持たない僕らは、その土曜日の午後スポーツドリンクの五百CCペットボトルを一つ持って頂上を目指していた。
「でも、展望台って言うたら隠れて覗くとは無理があるんじゃなかや」
 質問する僕の顎から、汗のしずくが一滴落ちていった。
「大丈夫って、あそこには木箱のついたごみ箱のあるやろ、あれの中身ば出してから中に隠れるとやっか」
 なるほど、そう言えばあそこには確かに空き缶なんかを入れるごみ箱が設置されていた。
 その大きさは、僕と辰夫の二人が隠れるのには充分な大きさだった。
 五時過ぎとは言っても真夏の事だ。
 まだ西の空が赤くなるにはたっぷり時間があった。
 登山道の石段の上には、今を盛りと木の葉が茂っていて直射日光が弱められるのはいいが、風の無いその日は熱気がこもって蒸し風呂のようだった。
 卑猥な期待に胸を膨らませた二人が足のだるさを訴え合う頃になって、ようやく頂上の芝生広場に出ることができた。
 その小高い丘の上に、展望所がコンクリート剥き出しの骨組みで組んである。
 デザイン的には味も素っ気もないものだった。
「まさか、もう来とるという事はないよな」
 辰夫が独り言を言って先に歩き出した。
 芝生広場の下手にある駐車場を見ても一台も車は止まっていない。
 僕がそれを言うと、なかなかやるやっかと辰夫は嬉しそうに笑った。
 展望台に上ると、思った通りそこには誰もいない。
 隅にある木製のごみ箱カバーを二人で持ち上げて、中の金網でできた空き缶入れを取り出した。
 そして、ほとんどごみの入っていない金網を展望台の下に下ろした。
 かなり重たい物だったから二人とも汗だくな上にさらに汗をかき、筋肉痛にまでなった。
「まだ来そうになかな」
 辰夫が展望台から駐車場を見下ろして言う。
 僕は海側を眺めてゆっくりと赤味を増していく太陽を見つめていた。
 夕陽を見るとなぜだか悲しくなる。それが人の死を連想させるからだろうか。
 笑われるかもしれないと思いながら辰夫に聞いてみたら、辰夫は駐車場側から僕の横に来てうんとうなずいた。
「太陽は地球の生き物にとって絶対的なもんやけんな。おい達は次に朝が来るとしっとるけん平気で見守ってられるけど、それば知らん生き物にとっては死ぬのと同じくらいの事やろうね」
 いつに無くまじめな答えに、こっちが面食らってしまった。
「おお、お客様がおつきになったごたっぞ」
 駐車場から車のエンジン音が聞こえてきたとたん、辰夫は相好を崩して前もって移動してあったごみ箱に入る準備を始めた。
 ああ、夕陽がきれいね、という女の声が聞こえる。
 しばらくして展望台の階段を上がる足音も聞こえてきた。
 僕らがごみ箱の中に隠れるて見ていると、若いカップルが上がってきた。
 大学生くらいの年頃の二人だった。赤い光に照らされた女は目を潤ませて夕陽と男の顔を交互に見ていた。 男は何もしゃべらない。
 ただ彼女の肩を強く抱いているだけだった。
 男の顔が女の顔にかぶさっていく。女も抵抗することなくそれを受け入れている。
 初めて生で見る本物のキスシーンだ。僕の身体は熱くなり喉が乾いてたまらなくなった。
 ペットボトルの蓋を開けて中身を一口流し込む。
 その音が妙に大きく思えて、カップルに聞こえないか冷や冷やしてしまった。
 横では辰夫も節穴からの光景に興奮してるようだった。
同じようにペットボトルを傾けている。
 ラブシーンはさらに進んで、男の手が女の胸をまさぐりだした。
 ティーシャツの下から腕を入れてもんでいるのがわかった。
 女の声が苦しげに聞こえた。止めて、なんて言ってるが少しもいやそうじゃない。
 二人が急ぐ理由は僕にもわかった。のんびりしていたら次のカップルがくるかもしれないからだ。
  二人に許された時間がどれくらいなのかは誰にもわからないのだ。
 男の手が女のスカートを持ち上げる。
夕陽に赤く染まった白い下着が眼に痛かった。
 太陽は海に沈み始めている。
二人の背景の東の空が青から紫色にゆっくり変わっていく。
 男の手が女の股に入ってゆるゆる動き出す頃、暗さに我慢できなくなったセンサーが作動して、展望台の床に散りばめられたライトを点灯させた。
 太陽電池で蓄えられた電気が二人の人影を下側からあぶりだす。
 愛してる、とか好きだとか、そんな言葉は全然無かった。僕の頭の中の想像とは随分違っていた。
 ただ二人は喘ぎ声と荒い息だけを発散しながら動物のように腰を振り回していた。
 ちょっとショックだった。
 人間の生々しい生態を初めて見た気がした。
 最後は女が柵に手をついて腰を突き出し、その裸の尻を男が抱いて後ろから挿入した。
 鼻水が出てきたと思って指で拭きながらすすり上げる。鉄の味がして、鼻水ではなく鼻血だとわかった。
 辰夫を見るとにやけた顔でこっちを向いていた。
 ごみ箱の中は暗くは無かったのだ。
 この床板の無い箱の下側にもライトがあって、中を照らしていたのだから。
 辰夫の手が伸びて僕の股間に触ってきた。

「なんばするとね」
 小さな声で非難するけど辰夫の手は止まらない。
 僕のすっかり固くなった物をジャージの上から擦り上げる。
 思わず声が出そうなくらいに気持ちよかった。
「こっちも、あいばすうで」
 意味もわからず首を振るだけの僕のジャージを辰夫は脱がせにかかる。
 ひどく抵抗する事はできなかった。
 そんな事をしたらすぐにがたがた音がしてカップルに見つかってしまう。
 辰夫の真意はわからなかったけど、僕はおとなしくされるままになっていた。
 ジャージとパンツを膝まで下げられて、汗をかいて湿った尻が生ぬるい空気の中に露出した。
 辰夫は僕を後ろ向きにさせると、股間に手を入れて僕のものを握ってきた。
 他人に握られるのは初めてだったけど嫌悪感よりも快感のほうが強かった。
 辰夫も後ろでジャージをおろしている。
 振り向くと床のライトに照らされた辰夫の物がすごくでっかく見えた。
 その先端がすでに皮から飛び出て滑らかな丸い頭を見せている。

「公彦の尻、可愛か」
 辰夫は僕の尻をなでまわした後、ポケットから何やら取り出した。
 よく見たら給食のときにパンについてくる小さなビニール入りにマーガリンだった。
 袋を噛み切って中身を左手にひねり出す。
 それを僕の尻の真中に持っていってなすりつけてきた。
「ちょっと、やめろってば、なんば考えとっとね」
 ううん、いい。という声が外から聞こえる。
 外を覗きたい気持ちもあったが、それよりこっちの方が大問題だった。
「ゆっくりするけん痛くないって。騒ぐなよ。外に気づかれたらやばかけんな」
 僕にはやっと辰夫の目的がわかった。最初からこれが目的だったのだ。
 男と女のラブシーンを見に行くというのは僕を誘い出す口実で、僕が抵抗できない状況をじっくり考えて今日という日を設定してきたのだ。
「辰夫は、僕が好きと?」
 いじめっ子からいつも僕を守ってくれていた辰夫のことは僕も嫌いじゃない。
 むしろ好きと言ってもよかった。
もちろん辰夫の思いとは若干違う意味でだけど。
「公彦が可愛ゆうしてたまらん。大好きたい」
 それならいいか、と僕は力を抜いた。辰夫の好きなようにさせてやろう。
 辰夫の先端が僕の尻の当たるとすぐにマーガリンの滑りの良さでぬるりと僕の中に侵入してきた。
 不思議と痛みは感じなかった。
 辰夫がどうしてそんな事をしたいのか、理解できないまま僕は辰夫を受け入れていた。
 後ろから僕に乗っかった辰夫の腰がぎこちなく行き来をして僕の体の中をかき回す。
 つい僕も動いてしまってごみ箱が揺れる。
 外の二人に感づかれたのではと穴から覗いてみたら、そこにはもう二人の姿は無かった。
 う、う、とうなる辰夫に、僕がその事を告げる。
 暑苦しかったごみ箱から這い出た僕らを、夜空に散りばめられた小さな光たちが迎えてくれた。
 見下ろすと、駐車場のワンボックスに二人の人影が乗り込むところだった。
 僕らはそこで、さっきのカップルがやっていたようにしてみた。
 柵に手をついて僕が腰を突き出し、それを辰夫が抱く。
 女になったみたいな気がした。それは少しも嫌な気分ではなかった。
 それよりも心臓がどきどきして、こめかみが痛くなるくらいだった。
 辰夫の動きが段々はやくなる。
 ずんずんと突き上げられる衝撃で、何故か僕の物も痛いくらいに硬くなっていた。
 く、くうと辰夫がうめいて、ガクンと動きが止まった。
お尻の中に生暖かいものが広がるのが感じられた。

 僕はいいかげん席を立ちたかったけど、雄介おじさんは容易に開放してくれそうに無かった。
おまえの父親はおまえの事で随分悩んでいたんだぞ、その通夜なんやけん最後まで付き合うとが当然やろが、と言って何度も僕にまずい酒を飲ませた。
 父が悩んでいたと言われるのは僕にとっても痛いところをつかれる事だから、振り切って二階に上がる事もできなかった。
「ところで……どこまで女になったとか」
 雄介おじさんの目の周りは赤くなっていて、かなり酔いが回っているのがわかった。
「本当ね。胸も結構大きいけどそれ本物? パッド? それともシリコン製かしら」
 中年女の好奇心に満ちた目が僕の身体を舐めるように見る。
 黙っていたら女が僕の胸を無遠慮に揉んできた。
「止めてください」
 僕の怒りの言葉にも女は無頓着だ。
「あら、本物みたいね。女性ホルモン打ってるのね」
「しかし、ホルモン注射しても玉が残っててはあんまり効かないって聞いた事があるけどな、まさか去勢したのか」
 雄介おじさんまで胸を触ろうとしてきたので僕は我慢できなくて立ち上がった。
 このままでは、スカートの中までまさぐられかねないと思った。
 ちょっとトイレに行ってきますと言って席を離れる。
 おじさんが追ってこないか怖かったけど、そこまでの執着心はなかったようだ。
 二階の自室の前で母の声に呼び止められた。
「つらいかもしれないけど、あなた自身が自分で選んだ道だからね。恨むのならその道に引き込んだ誰かか、引き込まれた自分自身を恨みなさい。父さんは貴方の何倍も苦しかったんだから」
 声のした方を見ると、涙をためた母が階段の数段下から見上げていた。
「わかってるよ。でも、僕は自分の幸せを求めただけだから」
 母の顔を見ずにそう言って僕は昔の自室に入った。
 僕が高校を卒業してから主人のいなくなった部屋だけど、きれいに掃除されていて昨日まで寝起きしていた部屋のようだ。
 気晴らしに本棚から昔のアルバムを取り出して眺めてみる。
 中学時代の、まだ男だった頃の自分を見ると、胸の奥がちくちくと針で刺されるような感じがした。
 頬がこけていて精悍な顔つきだ。
 眉も太くて我ながらなかなかのイケ面だと思った。
 そのまま男として成長していたら結構もてたんじゃないかな。
 辰夫と並んで写っている写真もあった。背景は白波のたった晴れた日の海で、二人は海パン姿だった。
 そう言えば、この時初めて辰夫の物を口にしたのだった。展望台での事から十日ほどたった頃の事だったと思う。

 海の家も無い、人気の無い砂浜だった。岩場の影で僕らは全裸になり水着に着替えた。
 辰夫の視線を下半身に感じて僕は後ろ向きになる。
「公彦の尻ってかわいかよなあ。男とに腰のくびれとるもんなあ」
「ばか、なんば見よっとね」
 振り向いて辰夫を見ると、股間のものはたくましく勃起して黒々とした陰毛の中から突き出していた。
展望台では暗かったし、木箱の中でもじっくりとは見ていなかったから、この時初めて辰夫のそれを間近に見た。
 あんなものが自分の中に突き入れられていたのかと思うとなんだか胸が苦しくなった。
 辰夫の海水パンツはだぶっとした半ズボンタイプだったが、僕のは学校の授業で使っているものだ。
 僕も辰夫のようなのが欲しかったのだが、親が必要ないといって買ってくれなかったのだ。
 着替えてから岩陰を飛び出すと、熱い砂浜で足の裏を火傷しそうになりながら二十メートルくらい先の波打ち際に走っていく。
 あちちち、と叫びながら僕の後ろを辰夫が追いかけてくる。
 やっと波打ち際にたどり着いて熱くなった足を波で洗ってると、辰夫が後ろからダイビングしてきた。
 そして僕の海水パンツを一気に引き摺り下ろす。
 足首まで下げられて、素っ裸の状態になった僕はあきれて周囲を見回す余裕も無く海に走りこんだ。
胸まで浸かって一安心したとき、僕の足には海水パンツの感触は無くて本当に素っ裸だというのがわかった。
 周囲を見ると、遠くに男女の一団が居たが、僕らの様子には無頓着のようだ。
 辰夫はというと僕の五メートルくらい沖に浮上して、右手で得物を高らかに持ち上げて見せた。
 紺色の僕の海水パンツだ。
「ばか、返してよ」
「俺に追いついたら、返してやっけん」
 辰夫は沖に向かって平泳ぎで進んでいく。
 多分この海水浴場を区切っている網の、浮きのところまで行く気だ。 僕も泳ぎには自信が有った。
 すぐに辰夫を追って沖を目指す。
 黄色い太陽の光が反射してまぶしい水面に、辰夫の上げる水しぶきがきらきらと舞い上がるのを見ながら追った。
 汚れたオレンジ色の浮きの上には板が渡してあって、その場所だけちょっとした筏みたいになっている。
 僕がそこにたどりつくと、既に上に上がっていた辰夫が手を握って僕を引き上げてくれた。
 砂浜からは50メートル近くある。
 周囲には泳いでいる人影も無いから、このままここで裸でいても誰かに見咎められる心配はないようだった。
「ほら、返してよ」
 手を差し出す僕を、辰夫はしっかりと抱きしめてきた。
 勃起した辰夫のものが海パン越しに僕の下腹部に当たる。 邪魔になるその海パンを辰夫は急いで脱いだ。
 あらためて抱きつく辰夫に乳首を舐められてずきんと来た。
  驚くくらいに感じてしまった。
 男なのに乳首が気持ち良いなんて不自然だ。
 混乱しているうちに更に辰夫に吸われて、うっとうめき声を上げてしまった。
 心臓が、弾けるように波打つ血流を僕の脳に送り始める。
 何も言わずに辰夫が僕の顔の前に突き出した股間のものを、僕は無心に咥えていた。
 あの日の夜、展望台で女がしていたように僕は辰夫が気持ちよくなるように、それだけを考えて辰夫の熱い棒に舌を絡めた。

「いつまでそこに居る気? 帰るお客様に御挨拶しなさい」
 しゃがんでアルバムを眺めていた僕を、部屋のドアのところに立った母が見下ろしていた。
 恥ずかしい思い出に浸っていた事がばれたかのように頬をほてらせて、僕は立ち上がる。
 階段を下りて行くと、トイレから出てきた雄介おじさんが僕を見上げていた。
 雄介おじさんの手が急に伸びてきて僕のスカートをめくり上げる。
 突然の事に僕はどう反応していいかわからなかった。周囲には人はいない。
 結局僕は止めてくださいの一言も言えずに横を逃げるように通り過ぎた。
「色っぽい下着だな。本物の女みたいだ」
 少しろれつの回らなくなったおじさんの声に、ピシリという音が重なった。
 振り向くと、母がおじさんと対峙しているのが見える。
 頬を抑えて唖然としてるおじさん。そして、飲みすぎよという母の声が聞こえた。

 翌日の火葬場に、辰夫が現れた。
 白いレンガを積み上げたような建物の中庭で、父の骨を拾って骨壷に入れている時だった。
 僕と母と雄介おじさんの三人で無言の作業を続けているとき、駐車場の方から歩いて来る辰夫を最初に見止めたのは母だった。
 陰気だった顔つきが少し明るくなった。
「あら、辰夫君じゃないの。わざわざ来てくれたの」
 辰夫はよく僕の家に出入りしていたから、母も辰夫のことはよく知っているのだ。
 もちろん僕と辰夫の関係が、少し異常な友人関係だった事までは知らないが。
「すいません。昨夜行こうと思ってたんですけど、ちょっと仕事が終わらなくて……」
 深々と辰夫は礼をした。そして骨を拾う箸を持って、灰の中から白いかけらを用心深く掬い上げて、光沢のある緑色の骨壷に丁寧に落とし込む作業に加わった。
 辰夫は父を不幸にした張本人と考えても不思議ではないのだけれど、その時の僕にはそんな考えは浮かばなかった。   
 辰夫はただのきっかけに過ぎなかったのだ。
 もともと僕の中に有った素質を、ほんの少し早く開花させたに過ぎない。
 悪いのはやはり僕自身だ。
 あらかた作業が終わってふと眼を上げると、辰夫が僕を見つめていた。
 何か言われるかと思ったけど、辰夫は無言だ。
 かえって気まずかった。
 骨壷を持って帰る段になって、辰夫が母に言うのが聞こえた。
「公彦を借りてもいいですか?」
 母は僕を見て、じゃあ送ってもらったら? 私達は先に帰ってるから。との言葉を残して、葬儀屋が用意した真っ黒い車に雄介おじさんと二人で乗り込んでいった。

「久しぶりだな」
 はじめて辰夫が僕に向けて言葉を放った。高校を卒業してからずっと会っていなかった。
「こんな風になった僕を見るのは初めてなんだよね辰夫は。驚いた?」
 辰夫の車に向かいながら駐車場を歩いているとき、風が吹いて髪が乱れた。
「ああ、きれいになったな。驚いた」
 何の気負いも無い辰夫の言葉はむしろ僕をがっかりさせた。
 自分の所為で一人の少年をこの道に追い込んだという自責の念なんかが少しはあるかと思っていたのに。
「辰夫は、彼女できたの?」
 いるのが当然の年頃だけどあえて聞いてみた。
「いや。いないよ。あんまり興味湧かなくてさ。仕事も忙しいし、まあ乗れよ」
 辰夫の車はマツダの赤いロードスターだった。二人乗りのオープンカーだ。
「しゃれたのに乗ってるんだね」
 助手席に乗りながら、さてどこに連れて行かれるんだろうと思った。
 場所は一箇所しか思い浮かばなかったけど。
 山手のワインディングロードに辰夫は車を向ける。
 タイヤが軽く泣く位のスピードで、ロードスターは軽快にコーナーを切り返して登っていく。
 ハンドルをもった辰夫の左手が離れてカーオーディオのスイッチを入れると、走行音に負けない程度の音量で澄んだギターの前奏が流れ始めた。
「この曲知ってるか?」
 かすれた男の声が憂いを含んだメロディーにあわせて歌いだす。
「スティングだね。フラジャイル。僕も好きな歌だ」
「鉄の刃で傷ついた俺の体から流れ出た血は夕陽に乾いていく。その血は翌日の雨に流されて跡も残らないが、俺の心に深くついた傷は消え去ることはない。そんな意味なんだよな」
 辰夫の真意がわからなかったから、僕はふーんと気のない返事で答えた。
 行く先は僕の考えていた通りのようだ。
 所々に、植えてあるのか自生しているかわからないが桜の樹があって、早咲きのものはすでに五分咲きの状態だった。
 日当たりの加減で変わってくるのだろう。
 あの展望台の周囲にもたくさんの桜が植えてあったはずだ。
 辰夫と二人でゴミ箱に隠れたときは夏だったから、桜の樹なんて意識もしなかったが、今頃はピンク色の粒粒をいくらかつけている頃だろう。
 急に対向車がはみ出てきたりして、危ないシーンもあったが、辰夫のドライビングは確かだった。
 余裕を充分にとって飛ばしているのがわかる。
 時刻は三時を少し回っていた。夕暮れまではまだ二時間は有る。
 あの日の夕暮れを再現しようとしているのだろうか。父の骨を拾ってきたばかりだというのに。

 父が横須賀の店に来た時のことを突然思い出した。
 僕がその店で働き始めて二年目のことだった。
二十歳の誕生日を、一人ワインで祝った翌日の事だ。
 僕をひいきにしてくれる常連客の黒人兵ボブの相手をしているときだった。
 米軍の横須賀基地に在籍しているボブは週に一回は店に来て僕を指名してくれる。
 それまでママが気を使ってくれていたのかもしれないけど、黒人の相手をするのは彼が初めてだった。
 体臭がきついとか、あれがでかすぎだとかで敬遠する若手が多かったから、もっぱら黒人はベテランが相手をしていたのだ。
 僕もそろそろベテランの仲間入りか。
 ママに紹介されたとき、僕は嫌な気分になるどころか誇らしくさえ思った。
 それに、付き合ってみると黒人は、というかボブはとても優しくていい男だった。
 初めてそれを後ろに迎え入れたときはさすがにびびったけど、いったん慣れてしまえば後はどうにかなった。
 優しいけどごつい体つきのボブにビールを継ぎ足しているとき、いきなり声をかけられたのだ。
 公彦、帰るぞ、と聞こえた。
 公彦という名前は二年間呼ばれる事の無かった名だから、一瞬自分の事だとは思わなかった。
 客同士の話かと思ったが、振り向いたところにはずぶぬれの黒いコートを着た父が立っていたのだ。
 女の格好をして化粧まできちんとしている僕を良く見分けられたなとか、考える余裕も無かった。
唖然としていると、腕を捕まれて強い力で引っ張られた。
 店のママ達が何事かと注目する中、僕は父に引かれるまま店の出口まで来た。
 ママ達にはなんとなく事情がわかったのだろう。
手を出してこない。
 しかし日本語の通じないボブには全く違った風に映ったに違いない。
 店の外に出ようとしていた僕らに割って入って、父を突き飛ばしたのだ。
 乱暴するなと英語で叫んでいた。
 父がそれでも僕を連れて行こうとすると、ボブは父の顔面にでっかいこぶしを叩き込んだ。
 土砂降りの雨の路上に父が倒れる。
 気絶したかと思った父が地面を這って来て僕の足首をつかんだ。
 またボブが叫んで父を踏みつけようとした時、やっと僕は声を出す事ができた。
「ストップ! イッツマイファーザー」
 ボブの足が宙で止まる。不思議な表情で僕を見つめる彼にはお構いなく、父の傍に駆け寄った。
 父はここで気を失ってしまって全く動かなくなってしまった。
 結局、店のビル内に有る僕の部屋までボブに運んでもらった。
「ごめん、知らなかったんだよ」
つたない日本語でそれだけ言うと、ボブはしょんぼりしたまま帰っていった。

 芝生広場の駐車場に辰夫は車を入れた。
 一息ついた後、缶コーヒー買って来ると言うと、彼は車を降りて自動販売機に向かっていった。
 駐車場の周囲に植えてある桜の木は、咲いていたりまだ蕾だったりでまばらだった。
 車の日除け裏にあるミラーで化粧を確かめていると、辰夫が200ml入りの缶コーヒーを二本もって戻ってきた。
「本当に女になったごたるな。あいも切ってしもうたとか?」
 さっきまで標準語を話していた辰夫が、使い慣れた言葉で聞いてきた。
「うん。玉だけは取ったよ。女性ホルモンだけじゃ無理があるから」
 辰夫から缶コーヒーを受け取る。
「そうか。もう後戻りできんとか」
 ニップルを引いてコーヒーを一口飲んだ。ブラックコーヒーの味が苦く舌に残った。
 返事をしないで黙っていると、辰夫が大声で言った。
「おいはわいには謝らんぞ。親父さんには謝ったけどな」
 辰夫が父に謝った? 急な話で意味がわからなかった。
「親父さんが入院したときにな。見舞いに行って、公彦がオカマになるきっかけを作ったのは自分だって言って土下座した」
 初耳だった。母も知ってるんだろうか。でもさっきの対応では全くそんな感じではなかった。
 幼馴染の辰夫に、親愛の情をあふれんばかりに浮かべていた。
「そのときは、母さんは居なかったんだ」
「ああ。二人きりやった。親父さんは落ち窪んだ目でおいば見て頷いた。子供のときにはよくある事だって。気にするなって言うてくれた」
「諦めてたんだろう?」
 多分自分の死が近いこともわかってたんじゃないだろうか。
「ちょっと違うかな。諦めたというよりは、公彦のことを理解……でもないか許容というのかな、そんな感じやった。でもそれは許すけど公彦に知らせるのは止めてくれって言われた」
許容か。
でも、僕をゆるしてくれたわけでは無いはずだ。
それなら自分の事を知らせるななどと言わないだろうから。
父は、我が子が同性愛者の女装者だという自分の人生を受け入れただけなのだ。

 最後の一口を飲み干した辰夫は、ステレオのスイッチを操作してロックのリズムを消した。
  別の曲に変えたようだった。今度はジャズでも流すのかと思っていたら、以外にもクラシックのピアノ曲が流れ出した。
 ショパンの別れの曲だった。辰夫は目を瞑ってその曲に聞き入っている。
 何に別れを告げているのだろう。
 普通に考えれば僕の父に、という所だろうけど、そうは思えなかった。
 
 曲が終わると、二人分の空き缶を捨てに行くために辰夫は車を降りた。
 僕も車を降りると、辰夫の方向とは逆方向の芝生広場への階段を上り始める。
 ふかふかの芝生の上を歩いていると、小走りの辰夫が追いついてきた。
 夕陽がきれいね、という女の声がどこからともなく聞こえてきたと思ったのは空耳だ。
 目の前の展望台の上には、七年前の僕らがアベックがくるのを今か今かと胸をときめかせて待っている。
そんな気がした。

「桜が、咲いてるな」
 何故か照れくさそうに芝生広場の脇に植えられている樹を見て辰夫が言った。
 見ると、いくつかの樹は満開に近く、薄いピンクの花をたくさん咲かせていた。
 展望台の階段を上る。
 父は僕をすこしは許してくれていたのだろうか。
辰夫のいった許容という言葉を再び考える。それならなぜ僕を呼んでくれなかったのか。
 病気で弱った自分を見せたくなかったのだろうか。
 再び横須賀でのことを僕は思い出した。

 父が僕を訪ねてきた翌日の事だ。殴られた所為ではなく、多分長い間雨の中を立っていた所為だと思うが、父は熱を出して僕のベッドで寝込んでいた。
 体温計の数字は三十八度三分となっていた。
 父の歳でこの熱はかなりまずい。僕は医者を呼ぶか迷いながら、とりあえずおかゆを作って、食後に解熱剤を飲ませる事にしていた。
 そこに訪ねてきたのがボブだった。
 彼は見舞い客に付き物のフルーツの入ったバスケットを持って、狭いドアから身を縮めるようにして中を窺っていた。
「お父さんの、お加減は、どうですか?」
 素人役者が台本でも読むような言葉使いで、腰を屈めた彼は僕を上目遣いに覗き込む。
 部屋に招き入れると、ベッドに寝込んでいる父を見つけたボブが大げさにオーマイゴッドと叫んだ。
 違うよ、風邪引いてるんだと僕が説明すると、ボブはバスケットをテーブルの上において、父のベッドに歩み寄った。
 額に手を当てたり、父の目を開かせて覗き込んだりしている。まるで医者のような振る舞いだった。
 すぐに医者に見せたほうがいい。ボブが英語で言う。
 ボブが言うには肺炎を起こしている可能性が高いという事だった。
 それならのんびりおかゆをこしらえている場合じゃない。
 僕が携帯電話を取り出して119にかけようとしていたら、ボブは父に話し掛けていた。
「しっかりしてください。すぐに救急車を呼びます。気を確かに持ってください」
 まるで死にかけているみたいだとおかしかったけど、そのときは本当に危なかったのだという事が病院についてみてわかった。
 肺炎から敗血症を起こす一歩手前だったのだ。

 病院のベッドは清潔な匂いをさせていたけど、四人部屋の他の患者からは病の鬱屈したような匂いが漂っていた。
 挨拶をしても返事をもらえたのは一人だけだった。
 女の格好をした僕を変な目で見る人はいなかったけど、ボブは見ないように目をそらしているようだ。
 ボブは気にしないようにしているが、その黒い肌の下では複雑な感情がどろどろと流れているように思えた。
 父に刺された点滴の液は、ゆっくりした時を刻むかのようにしずくを滴らせている。
「ボブ、ありがとう。もう行ってくれていいよ。後は見ているから」
 そう言う僕の小さな声に、父が反応した。
 微かに身じろぎをして目を開けた。
 父の目は最初焦点を結んでいなかったけど、すぐに僕と、その横に立つ大きな黒い山を見定めた。
「ボブって言うのか。あんた。公彦が世話になっているようだな」
 別に日本語が苦手なボブに気を使ってというわけではないだろうが、父の言葉は時間をかけてじわじわと出てきた。
「昨夜はすいませんでした。勘違いしてしまって」
 ボブが何度も頭を下げながら父に謝っている。
「おまえの恋人か?」
 ボブにではなく僕に父は聞いてきた。
 僕は黙って頷いた。
 ふと父が笑った。他にどうしようもないと思ったのかもしれない。泣く事も怒る事も場違いだ。
そんな諦めの笑いに見えた。
 点滴の黄色い雫はゆっくりと時を刻んでいた。

 展望台の様子は七年前とほとんど変わっていなかった。なんと僕らが動かした木箱のゴミ箱の位置もそのままに見えた。
 あの中で僕らは息を潜めて覗いていたのだ、この場所で愛し合う男女の営みを……。
 僕は西向きの柵に手をかけて眼下の海を眺めてみた。
 まだ太陽は高い位置にあり、空も海も青かった。
風が僕のスカートの裾を舞い上がらせる。
 それを抑えながら乱れた髪のまま振り向くと、思いつめた表情の辰夫が立っていた。
 辰夫の手の中で何かが光った。
 辰夫がそれを差し出すまでそれがナイフだとは気づかなかった。

「どうしたのさ。何考えているの」
 辰夫はこめかみに汗をかきながらそのナイフを僕の方に向けてきた。
「服を脱いで裸になれよ」
 信じられない言葉が辰夫の口から聞こえてきた。
「店では大勢の男相手に尻ば出しとるとやろうが」
 僕が黙っていると辰夫が叫んだ。
「俺はおまえが好きやったんや。一番好きやったんだよ。それなのにおまえは俺の前からおらんごとなった」
「僕の居場所はわかっていたはずだろう。訪ねて来ればよかったんじゃないか」
 どうしてこんな事になったのか、さっぱりわからない。さっきまでは全く普通に話していた辰夫なのに。
「冗談じゃなか。娼婦になったおまえなんか見たくもなかばい。俺だけのものになって欲しかったとに」
 ナイフを構えた辰夫がじりじり寄ってくる。
 彼の目の中に狂気を感じた僕は言う通りにする事にした。
 コートとワンピースを脱いで、ブラジャーを外した。風が冷たくて一瞬震えが来たが寒さを感じたのはその一瞬だけだった。
「小さかけどちゃんと胸の有るとやな、早う下も脱いで素っ裸に慣れ」
 何が彼を駆り立てているのか、まだわからないからなるべく刺激しないようにゆっくりショーツを下げて、左足、そして右足を抜いた。
「きれいかな。娼婦になっても、公彦はきれいか。その台に手ばついて尻ば向けろ」
 七年前僕らが覗いたカップルの恰好だった。
 手を台において体を預けると、辰夫のほうに腰を向けた。
 さらに向こうを向けと言われて、僕は海の方を向かされた。
 辰夫が近づいてくるのが感じられる。
 そのまま後ろから刺されるのではと思って冷や汗が出てきた。脇の下がべとべとだった。
 お尻に息を感じたあと、すぐに肛門に濡れた感触があった。
 辰夫の舌の感触だった。このままここでするつもりなのかと思っていたら、彼はすぐに離れていった。

「悪かったな。脅かして。でも、もう一回だけ公彦のすべてば見たかった」
 振り向くと辰夫は自分の喉にナイフを突きつけて後ずさっていた。
「やめろ。どうしてそんなことしないといけないんだよ」
「公彦は自分の幸せのために、おじさんやおばさんの気持ちも考えんで玉抜きまでしたとやろうが。俺も公彦の気持ちば考えんで自分の幸せのために、自殺してもよかはずや」
「どうしてそれが辰夫の幸せなんだよ。わけわかんないよ」
「さっきも言うたやろ。俺は公彦が一番好きだったって。公彦が自分のものにならんのなら死んだ方がましだってこったい」
「むちゃくちゃだ。お願いだから止めてくれよ」
 今にも喉をつきそうな辰夫の手が微かに震えている。
 飛び掛ってナイフを奪われる事を警戒したのか、辰夫が一歩二歩と退いていく。
 僕はその場に膝と手をついて頭を下げた。
「頼むから、思いとどまって。辰夫の気持ちに気づかなかったのは謝るから」
 そのとき、頭の上から辰夫の笑い声が降ってきた。

「自分勝手に幸せを追い求める事の無茶苦茶さが、やっとわかったや」
 さっきまでの辰夫と違って急に冷静な声になっていた。
「巻き込まれてみらんばわからんやろう」
 芝居だったのか。それにしてはハードな芝居だ。
「なんだよ。僕に反省しろって言いたかったわけ? 服まで脱がせて」
 急に寒くなったから手近に合ったコートを拾って裸のまま肩にかけた。
「まあな。それに公彦の裸も見たかったしな。玉抜きした部分もよう見せてもろうた」
 こらえきれない笑いが辰夫の口からこぼれていた。
 急に憎たらしくなったけど、辰夫の言いたい事は身にしみてわかっている。

 服を着ていると後ろから辰夫に思い切り抱きしめられた。
 耳元で辰夫の声がする。
「本当言うと、ここで公彦ば殺して自殺するつもりやった。でも、そいも自分勝手やもんな」
 目の前の海が少しだけ赤くなっていた。
 夕陽と呼んでも良いくらいに太陽が傾きつつある。
「いくら追いかけても、太陽は沈んでしまうからね。人間はいつか必ず死ぬんだし。辰夫がそのつもりなら、ここで辰夫に刺されるのも悪くなかったかもしれない」
「おいおい、冗談やって言うとるやろ。人ば殺人犯にするなよな」
 夕焼けで赤くなった顔の辰夫に僕は口付けをした。
 すぐに辰夫も舌を吸ってくる。
 沈みつつある夕陽に染められながらも、僕の心の中の炎は燃え上がっていくようだった。
 ボブと父の顔が頭を掠めていったけど、燃え上がる炎の前ではそれは枯葉のようにあっという間に灰になって消えてしまう。
 キスをしながらふと眼を開くと、例のゴミ箱が目に止まった。

 そして、その中から覗く誰かの視線と一瞬目があった気がして、僕は軽い眩暈を感じるのだった。


夕陽を追いかけて おわり


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?