高慢と畏怖

 憂悶は、私が神という存在ないしは神の観念を畏怖していることと無関係でない。この想念が獅子身中の虫のように私を偽善の祭壇に祭り上げる。
これまで神というものについて思い巡らしてきた。その神は汎神論的それではない。またヴォルテールやルソー、そしてイヴァンの如き、神という存在と神の作ったこの世界を認めるが、神の合理的自然法則による自然宗教でもなかった。
私にとっての認知の端緒は、「人格と意思をもちながら万物を実際に統べる人のような存在」。神を意思と人格を有したものとしてイメージしてきた私は、神が罪深い存在である私に制裁をくわえるのではないかと考えた。そしてこんな風に神を捉えることがとても愚かしく冒涜であることだとも自覚した。これはエゴイズムであるから。私が罪に値する行為をすれば、神を信じたいと思うか否かに関わらず、神によって断罪されるべきなのだろう。そしてそれを甘受しなければならないだろう。また、ヨブに試練を課し、イサクを贄にしたような厳格なる父のごときにばかり特化して把握していることもまた神への謀反であるのかもしれない。
神を恐れてしまう。愛し敬うことよりも。ニーチェのように豪胆に宣言することもできないでいる。私にとってイヴァンやラスコーリニコフやスタヴローギンやヴェルシーロフやキリーロフやそしてワルコフスキーは、彼ら抵抗と否定の反逆者達はある意味に於いて英雄である。それは、彼らは「思想」をもっていたから。その思想には倫理規範も無く、無神論的涜神であるかもしれない。強欲と淫蕩と名声の権化であるかもしれない。だが、そんなことはどうでもいいことなんだ。己の生き方、信念に従って自らの行路を切り開いていったという点に私は羨望と称賛を感じる。
私はまだ何者にもなれていないんだ。

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