アリョーシャとムイシュキン-子供心

コーリャ(カラマーゾフ及び白痴)とアリョーシャ、ムイシュキンの触れ合いはとても美しく神聖なんだ。

 『カラマーゾフの兄弟』中のイリューシャとコーリャの関係、これはまったくもって対等な関係であります。少年同士のこの上なく熱い友情と無垢な情熱の物語です。また、ソーニャとラスコーリニコフの関係、これは愛、運命共同体です。それらはコーリャ‐アリョーシャ(ムイシュキン)関係とは異なった様相のものです。

 アリョーシャとムイシュキンは、どちらも誰からも愛される極めて特殊な人物なんです。その意味でどちらもコーリャから慕われるのは必然的なことだといえます。
 そして、僕はコーリャがアリョーシャを求めるときの関係性が一等好きなのです。その理由はおそらくコーリャがまだ可愛らしい、いくぶんひねくれめいてはいるけれども純粋で、とにかく可愛らしい子供の性質を十分に備えた少年であるところに帰結します。
 年齢的に実際の子供であるところのコーリャが、これまた「精神的に子供」、これは高尚な意味で述べているのですが、精神的な無垢性を保持するアリョーシャに好感を抱くとき、そこには極めて重大な意義が現れているのです。「重大な意義」とはやや誇張した表現かもしれませんが、世間的に見た場合はそうであろうというわけでありまして、僕からみれば勿論誇張でもないわけです。それほどまでに、子供と子供心をもった成人との精神の交感は僕の全存在に影響を与えるものなのです。

 「子供心をもった成人」というのは両義的な存在です。感性に訴えかけるものを純粋に愛する心と、無邪気さゆえの過ち。ムイシュキンもはじめその処世術のなさから、つまり彼の高潔なる子供心から、現実的大人であるところのガーニャにひどく罵倒されたりもしました。ちなみに、ガーニャは「この白痴(<注>彼は馬鹿という意味で言った)めが!!」と連続的に2回いってムイシュキンをさえ不快にさせました。この場面では実際ムイシュキンは無邪気すぎたのです。
 しかし、そのガーニャもやがては彼を好いていくようになるのですがこれは『白痴』における世界の話です。それはそれとして、アリョーシャに関しては、ほぼまったく人から嫌悪されないのは特筆すべきものです。

 現代日本社会において、僕はアリョーシャを、ムイシュキンを見出す。ドストエフスキーは、西欧化の波に飲まれる19世紀ロシア社会においてペテルブルグにムイシュキンのような「子供」が実現するならば、それは「白痴」とならざるを得ないと極めて示唆的なテーマでもって彼を生み出しましたが、現代日本社会にその舞台を移しましても、やはり僕の眼に映る人達も苦しみに心痛める現実を甘受しているようにみえるのです。僕のこんな勝手な見方はその人達にとってはなはだ失礼に当たるかもしれません。でも僕は今そう感じてしまいます。
 そして、その人達はコーリャにとってのアリョーシャやムイシュキンのように美しく、素敵にみえるのです。アリョーシャがあのイリューシャの葬儀の後、石のうえで高らかに言っていたように、子供時代の毎日よりも素晴らしく、そして美しいものがはたして在るのかな。僕らはいつまでもあの朝の光を、きらきらと清澄な水のような子供時代の思い出を両手に抱え続けていたいものだね。朝の太陽を受けたネヴァ川はとても美しいようだ。

社会のなかにあっても美しさは秘められている。かくれてはいてもどこかにきっとあるんだ。

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