原民喜からみる死と文芸

キリストのように美しく、静謐に満ちた文章を原民喜は綴る。甘美と荘重の夢幻(これは夢幻であるに違いないのだが、形而上の幻であり、その意味で非現実では無いのだ。)は代償としての死が伴う。原民喜は妻の死以降の作品は遺書の如きものであったとのべ、壮烈な最期を迎える。

こうしたパラダイムシフトには病気、死がある。柳田邦男は病気や死により社会から爪弾きを余儀無くされた者達を異邦人とよび、異邦人だけが創造できる芸術的境地があるという。

芸術に殉死する者であれば美的な言葉だが、それを感得せし異邦人達の現実は至極艱難辛苦で酸鼻に耐えぬものである。そして、凡百な私には忍従あたはぬもの。私は平々凡々な生活、ドストエフスキーが晩年に訴えた、大地に根を張った、民草とともに生きる生活を欲している。

こうした念想をこそ、私はこの場所に刻していかなければいけないのではないかと傲岸かもしれぬが、思う。純粋は雑多な思念の世俗のなかにおいては等閑にならざるを得ないが故に。

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