屍鬼Ⅱ

 小野不由美『屍鬼』 は、人間を吸血し絶命させ生き延び続ける異能者-屍鬼(しき)をめぐる物語である。
 この作品には、様々な人物達の様々な生き方、価値観が顕著に描出され群像劇の様相を呈しているが、とりわけ、少女沙子(すなこ)の生き様と、彼女と触れ合う一人の若く聡明な僧(室井静信)の交流の描写は見事と言うほか無い。そして静信の旧友であり、長年にわたり信頼関係を築いてきた尾崎俊夫の、静信との決定的◯◯を生じることとなる価値観、倫理観は作品の白眉の一つであろう。 
 二人の価値観は作品の中心軸となっている。その軸は「生きるということ」を私達に否応なく突き付ける。「生」、そして「死」。人間存在の根源的な問題を私達が自らの問題として引き受けるにあたり、この作品は冠絶とさえ言える。


・屍鬼と人間の関係
 
 屍鬼とは、わかりやすく言えば吸血鬼のような存在であり、作中では人間を狩る存在として登場する。
 異常に連続する村人の死が屍鬼の仕業であると気づいた人間達は、村と自分の生命を守る為に屍鬼を殲滅しようと決意する。しかし、それは全ての人間による総意とはならなかった。
 屍鬼は、屍鬼により吸血され絶命した人間が再び起き上がった存在(村には「起き上がり」の伝承がある。)である。それは、異形の者とはいえ人間の似姿、換言すれば黄泉がえりであり、またそれは思考の類似性をも齎す。人間とほぼ変わらない、しかも元々は自分達の家族、友人、知人であったりする屍鬼を殺すことなどとても出来るものではない、そえ考える人々の存在が、彼等をして屍鬼殲滅への憐憫、躊躇いを生じさせる。

・少女沙子
 
 前述したように、沙子は静信と深い関係をもつ少女である。彼女について思いを馳せることは、必然的に「生死」について思いを馳せることと同義である。
 彼女は生きることに必死であった。自らが生きるため、彼女は、"そうしないと自分が空腹で死んでしまうから仕方がない"、自らにそう言い聞かせることで己を納得させる。しかし同時に、彼女はそんな自身の存在に苦しむ。懊悩する。呻吟する。煩悶する。生きるために"そうする"ことは、人間が生存のために他の生命体を蹂躙、つまり"そうする"ことと原初的に同じ営為であるのだ、そう言い聞かせては言い聞かせ、しかるに、彼女は自らの"罪深き"存在に悩み悲しむ。

・尾崎と静信-二人の考え-

 この作品には、自意識、それは実存をめぐる二人の人物がいる。
 一人は尾崎敏夫という医者。彼は代々村の医師として住人の生命を守ってきたことを誇る尾崎家の嫡子。代々村の医師として住人の生命を守ってきたと自負する尾崎家の矜持を受け継ぐ人物たる尾崎俊夫は、屍鬼がたとえ人間と思考も感情も類似した生命体であろうと、村民の命を脅かす限り徹底的な殺戮をもって対抗することを誓う強靱な意志を抱懐している。
 彼は「村を守る」という崇高な使命の為ならば、手段を選ばず、憐憫の情など一切もたず、ただただ己の目的に向かって邁進する。何故ならば、そうしなければ自分たちが営々暮らしてきた誇りある村が滅びてしまうと確信しているからだ。
 人間を吸血せざるを得ない屍鬼という存在者が、人間の"異物"が、人間と共存することは不可能であり、不可能である限りにおいて生存の為に戦うことは正義であると彼は考える。彼にとって屍鬼とは村人達の命を脅かす敵以外の何物でもなかった。
 室井静信は、屍鬼は自らの在りように従って生きているに過ぎない存在と考える。そうして、人間を捕食し生命を維持していかなければならない屍鬼の"悲しい宿命"にシンパシーを覚えていく。
 生存の為に他の命を狩る行為に生物の本能を認めつつも、静信は人間による屍鬼の殺戮を認めることはできない。そこには、人が他の生命を殺め自らの糧とすることに"あまり苦悩を覚えたりはしない"からであると結論する。
 反対に、人間を殺めることでしか己の生を存続させることが出来ず、そしてその宿業に悲哀を覚えてしまう異形の者達に哀切を感じる静信の精神には彼等への惻隠の情とともに、"奇妙な同族性"を強くする。
 そんな静信には屍鬼を殺害することなどは決して出来ない選択であった。それは己の倫理と反目するものであった。同時に、屍鬼の尊厳を認めながら具体的な解決法を提示することが出来ない自分をふがいなく感じていく。そうして、殺戮に関わることなく、"ただ生きていくこと"を模索するようになる。

 

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