ドストエフスキー『白痴』

「無条件に美しい人間を創造しようとした」
 上記ドストエフスキーの言葉が有名な『白痴』の主題は、現代ロシア社会に無条件に美しいイエスキリストのような存在が登場したとしたら、(その存在は「白痴」の主人公ムイシュキン公爵。白痴であり「ユローディヴィな存在」。注:『罪と罰』ソーニャの存在はロシアの言葉でいうところのいわゆる「ユローディヴィ」(痴愚者。狂信的、陶酔的、白痴的な神がかり的な存在。ドストエフスキーはこのユローディヴィに対して崇敬の念を抱いては諸作品中に登場させている。)その人物はこの現代ロシアの混迷においては白痴のままで在りつづけるほかない、というものである。
 小説終盤、ロゴージンがナスターシャを刺殺する場面は、落涙する彼の涙をそっと拭うムイシュキンの行為に無垢者、ユローディヴィとしての美を覚える。その後「文字通りの」白痴に戻ってしまうムイシュキン。こうした作品の種々の場面にドストエフスキー作品の奥行きがみえよう。
 この作品も魅力的な登場人物たちの群像劇であるが、今回は「近いうちに絶対的に自分が死ぬ」ということが確信的であることに絶望し、世界をニヒリスティックに眺める聡明な青年イッポリートをここでは紹介したい。
 次に、ハンスホルバイン(子)の『死せるキリスト』をみて「俺はこの絵が大好きなんだ。!」とムイシュキンに語るロゴージン。ロゴージンはニヒリストであり、無神論者である。
 死を宣告された青年イッポリートはこの『死せるキリスト』に現れるまったくの「完全なる死」を前にして、なぜこのような死体の前でイエスの弟子達は彼が復活するなんて信じることができたのだろう、と考えるが、ロゴージンにも同じような問いを喚起させる。

 「ところで、レフ、ニライチ(ムイシュキン)、俺は前からあんたに聞きたいと思っていたんだ。あんた、神様を信じているのかい、信じていないのかい?」
 何歩か歩いてまたロゴージンが言った。
「君はなんて変な聞き方をするんだ。それに…その目つきもだけれど!」
 と公爵は思わず言ってしまった。
「あの絵をさ、見ているのが好きなんだ、俺は」」
ちょっと黙ってから、まるでまた自分の聞いたことを忘れたように、ロゴージンはぶすっとした声で言った。
「あの絵をだって!」
 予期しなかった考えに突き動かされて、公爵は思わず声をあげた。
「あの絵をだって!人によっては、あの絵のせいで、あった信仰も失われかねないというのに!」
(『白痴』第二編四)
(注)実際にドストエフスキーは旅行中に訪れたドレスデンの美術館の中でこの絵を見ておもわず何時間もそこに立ち尽くしてしまったといっている。彼の中でこの絵は圧倒的な存在感を持っており、終生彼を悩ましつづけた信仰と無信仰の問題に何かしら超自然的な負の力を与えたものと思われる。

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