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病的に

コンスタントに参加しているとは言い難いサークルの合宿に行ってきた。

虎に翼 8月22日(木) の回を見た。

大学生になって、5か月弱が経った。

やっと、分かったことがある。
私の知る限り、人間は、真摯に、生きている。
それは努力をしているということであり、自分の好き嫌いにまっすぐであったり、浮かんだ考えに素直であることだ。自分の中に大切にしていることがあり、それを守るよう頑張っており、そして自分以外の誰かをまっすぐ大切に想うことだ。(それは友達や先輩後輩や恋人、家族だったりする)
そうして自分というものの芯を持っており、自分がひとりの他の誰でもない人としての自信がある。
それがどんなに眩しいことか。

そして、自分の舐め切った態度の輪郭を露わにし、痛ましいか。

彼らの放つ光が、私の目にはあまりに眩しいことは変わらないし、それを忘れそうになったころにまた誰かの光が差して目は痛む。

私は自分に自信がない。自分の話を人にするのが好きなのにいざした時、自分の話ばっかりしてしまったことに嫌悪する。かといって、コミュニケーションの節々でいつもなんて言えばいいのか全然分からない。言えないとかじゃなく浮かびもしない時、浮かんでもそれがしょうもなくて口にできない時。ただ笑ってへらへらして、その場に、ただいる。物理的にいるだけ。

全身全霊をやめろ。
それの意味が本当にわかっているのか?
何もしたくなくて、考えることも途中で簡単に放棄して、人に認められたいし自分という人格に向けてくれる愛が欲しいのに人のことを真っ直ぐ見て考えて慮り愛を向けることをしていない。そしていつも自分への不信感や寂しさを抱える。
頑張りすぎは良くない。
この言葉を良いように受け止めてしまっているのは、そんな自分を、そんな生き方が苦しいことをとうに分かっている自分を、良いように誤魔化したいだけではないのか?

あれもこれも手を出すということは、あれもこれも手に入らないということと同義で、何となくほしいかもなと思ったことに足は突っ込むけれど実際コミットは出来ない。何処にもいない。何もしない。誰とも深くかかわらない。私は誰ものことをよく知らないし、誰もが私を私が語るストーリー以上のことは知らない。そして、私の口から出る言葉は往々にして自分がどう見られたいかや自分の憧れが滲んでいる、あるいは誰かに否定してもらいたい前提で弱音や自分の否定を言う。
馬鹿げている。こうしてまた、手に入るかもしれなかったものを捨ててしまった。

自分の人生に、自分という存在に、もっと真っ直ぐ向き合う。
せめて、苦しい時は逃げずに苦しむ。
決めたことはやる。
人がこうだからこうという他人主体の決め方をやめる。
他人にどう思われるかが必ず動く前によぎるのをやめる。

過去に執着をしていることに気付いた。何を考えていて何をして、どう感じてどう変わっていったか、というよりシンプルに自分の精神状態の浮き沈みを、異常なほどの頻度で振り返り、記憶にとどめようとする。
物事のすべてを寂しいか寂しさを紛らわすかでしか考えていない。
何となく、狂おしく、忘れてはならぬ気がして、そこに理由がないと今の自分すら立っていないような気がしている。
私は過去に縋ることを容易にできる。でも、それでいいのだろうか。

惹かれてきた人々には、頭の中に社会のシステム、データ、実験、事例がある。それらを彼らは日々更新する。
ユーモラスで、感覚的のようで時に詩的ですらあるが、根拠がある。力のある言葉。
そのうち一人は、「誰でもやったらこれくらいできるはずなのに誰もやらない、それを私がやっただけ」といったような発言をしたらしい。

感性でとらえることが大事な気がしていた。電車の外の景色をぼんやり見たり、知らない町で散歩をして思うがままに歩いて買物して立ち止って写真を撮ったり、気になった映画や本や美術に触れてそこから非言語的な感動を享受しようとしたり。
気付いたら、それだけだった。その結果、途方もなく情報処理力や分析・思考力、言語化能力が低下していた。こんなに他人の話や論理って、聞き返して結局詳細な説明をさせてしまうくらいには、吞み込むまで時間と労力が必要だっけ。こんなに友達同士の何気ないコミュニケーションって、自分の発言が分らず思いつかず何も言えないもんだっけ。脳が退化したような気がした。小中高とあんなに嫌いだった、時間割通りに拘束されて決められたことについて考える日課がなくなって、格段に勉強量が減って、(この半年は人生で一番勉強していないという感覚と共に過ごしていた)物事を考えることがおぼつかなくなってしまった。なんて悲しい人間。

自分の性格もある。人と関わりたくはあるから集まりとかには行くし得体のしれない団体を覗きに行く。そういうところ行動力あって凄いよね、ってせめてもの慰めを誰かはするけれど、実際のところはここではないどこかへの逃避でしかなく、というか逃避の手段として今はそれすら億劫。何より、顔は出すけどいざ行っても何をしゃべっていいか分からずだんまりへらへら笑いのみ。タチ悪くて気が滅入る。
一度、表情筋が疲れて気が抜けてたから大人数の会話での誰かのボケに笑わなかったことがある。その時、ほら○○(私)が笑ってないじゃん、って声が聞こえてきた。笑った。私はここではただ笑うだけの人なんだと改めて分かって、笑った。
こうなってしまえばもうどうしようもない。何度かボケてみてそれがウケても、数時間後にはそのボケが私以外の誰かがしたことになっている。あるいはあれ言ってたの誰だっけ、って声が聞こえてくる。私というこの人格そのものは、もういない。

病的なまでの喜びを、知りたい。

とはいえ何となくで生きてきた。何となくここまできて、実際は何もやってないなかで何かをしたという形式をちょこちょこ作ってきた。

感覚でやってきた段階は終わり、これからは論理的かつがむしゃらに

やる理由を探す前に、やれ


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