傷と被害妄想の狭間で

ようこそいらっしゃいました。臆病者めにございます。
ここでは臆病者めの足らぬおつむの内臓をつらつらどばばと書き殴っております。一人間もどきの一考え方に過ぎないものでございます。ご自身と合わないと感じられたり、不快だと思われたら迷わず踵を返してくださいね。貴方の時間は貴方のものですから。

本日は、「傷と被害妄想」の話。
皆様の中には、誰かの言葉や行動に深く傷ついたり、特定の誰かではなく、「社会」や「空気」、「風潮」に心を抉られたりの経験が、大なり小なりあるのではないでしょうか。臆病者めも、それはもう大なり小なりさまざまな傷が身体の中で蠢いております。心の臓が動くたびに鈍い音を燻らせながら、鈍麻な痛みを臆病者めに与えます。
それには、一晩夢を彷徨えば消えてしまうものも、幾年の夜を超えてもなお、ぎりぎりと心を締め上げるものもございます。その度に、消えぬ傷に涙を流し、消えたい消えたいと喚き、ガンガンとがなる頭を抱えるのです。そして、この傷が、確かにそこに存在する傷が、本当に傷であるのかと、ふと、がなる頭で考えるのでございます。

臆病者めの抱えているものには、たとえば、容姿がございます。醜い、醜いと、声にしてぶつけられたことがございます。実際に臆病者めは、テレビの中にいるような、キラキラと輝く外見を有さずにこの世に生を受けました。しかし、臆病者めは、その、「真実」を表した言葉に取り憑かれ、自らの容姿を見ないように生きてまいりました。
この時に臆病者めの抱えているものは、おそらく紛れもない「傷」なのでしょう。
しかし、臆病者めのやわな心は、醜いという言葉がないときにも、他の不作為によって、「傷」のようなものがついてまわるのです。それは、「他の人だけが容姿を誉められ、自分だけが誉められることはなかった」というときでございます。その分、臆病者めは別の、よい、とされることでお褒めの言葉を頂戴しているのですが、容姿への言及が、臆病者めにだけ、与えられないのです。
このときに感じる、心の中の蠢きは、果たして「傷」なのでしょうか。言葉に鞭打たれたわけでもない。ただただ、己にだけ飴が与えられなかっただけ。このときに、悲しみ、という感情を覚えてしまうことは、これは、「被害妄想」なのでしょうか。他が、臆病者めの容姿が特別劣っていると思っているかなど、その人に聞かなければ分かりませぬ。しかし、かの口裂け女がごとく「ワタシ、キレイ?」と聞くのもまた、場違い甚だしいもので、それを聞けば最後、臆病者めはその世界で今後不快を生み出すエアコンとしてその生を全うする羽目になってしまいます。その人は別に、自らを容姿のスペシャリストと考えているわけでもなく、ただただ心の内の感嘆を表出しただけで、その行いを、仮に善悪で判定をするなら、「善」なのです。その人は、美しいものを見て美しいと言い、美しいと思わなかったものには美しいと言わなかっただけであり、その態度を、臆病者めもそのほか誰も、咎める資格などはないのです。その人は天秤に乗せて一方を引き合いにして他方を褒めたのではなく、一方を引き合いにして他方を貶めたのでもございません。そして、これがもし、ただの一度であれば、臆病者めは己が誉められなかったことなどに気がつかず、あの人は人を褒めることのできる、素敵な人間だと思いながら帰路に着いたのでしょう。このような場面に、何度も何度も遭う内に、うぞと蠢くのです。
「そういえば、褒められたこと、ないな」と。

これを、「傷」と呼ぶことへの抵抗感は何なのでしょうか。己の承認欲求の表情を目にしたくないという自己愛への反発なのでしょうか。臆病者めが引き合いに出したたとえは「容姿」でございますが、他のカテゴリ、頭脳/会話力/人間力……でも、同様に妥当するものでございます。この臆病者めのわだかまりは、決して、ルッキズムへの批判のみの問題では、ないのです。ああ、臆病者めはなぜこんなにも醜いのか。なぜ美しく生まれなかったのか。そもそも美しさとはなんなのか。臆病者めのことを美しいと言う人の目は正常だと信じてよいのか。
鏡の中の承認欲求が渦巻く死んだような目が、臆病者めに雄弁で、しかし何も語りかけてくることはございませんでした。臆病者めは今日も明日も、鏡を避けて、生きてゆく。

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