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等身大の生活世界に生きる|宇野俊輔さん

先日、長野県伊那市で農業をされている宇野俊輔さんのところへ行ってきた。今私がインターンしているポケットマルシェの代表である高橋さんが、5年前宇野さんに出会ったときに書いた文章を見せてくださって、それを読んだらどうしても会ってみたくなったからだった。

その文章には、宇野さんがかつて建設コンサルタントとして、ODAなどで途上国の都市計画に携わっていたこと。住民のためというよりは政府や資本家のためのものになっていると感じて辞め、フェアトレードを手がける会社に転職したこと。フィリピンでバナナを日本へ輸出する仕事をする中で、現地住民に銃をとらなくても自分たちの暮らしを守ることができる農業はすごいと言われたこと。自分で自分の食べるものをつくることの価値に気づいて、長野で百姓になり、生産者も消費者もなくみんなで自給するLURAの会というものをやっていることなどが書かれていた。

No.13 宇野俊輔(59)/ 長野県高遠町 / 百姓 /...

Posted by 高橋 博之 on Thursday, November 12, 2015

私が国際協力に興味を持って大学に入って、アジアやアフリカの国に行く中で、ODAとか”途上国”を”先進国化”するような形の開発援助になんとなく違和感を持ったこと、農業は誰にとっても大事なものだと感じたこと、途上国ではなく先進国側のあり方から変わらなくちゃいけないとフェアトレードに興味を持ったこととかと、重なるものがある気がした。これから生きていくうえでのヒントがありそう。そう思って会いに行った。

東京に帰ってきてしばらくぼーっとしてしまうくらいには、すごくすてきな人たちと、すてきな場所で、すてきな時間を過ごしてきた。今言葉にできたことをとりあえず残しておくけど、ほんの一部のような気もする。

関わり合いの均衡

宇野さんの畑は、今まで私が見たことのある農業はほとんど平地でやってたんだなと、わざわざ思い出すくらいには山の中にあった。区画というか、平らになっているところがそもそも小さくて、段々になってて、うねうねしてて。そりゃアメリカの大規模農業とかと同じように考えられるはずもないって思ったし、同じ日本でもだいぶ違う。

獣害が結構あるらしく、田畑の周りは基本的にネットで囲われていた。去年鹿にやられてしまったという麦畑で話を聞きながら、獣が人里や街まで下りてこないのは、こうして里山をまもっている人がいるからなんだろうなと思った。人と獣は、こっちは人の領域、こっちは獣の領域って感じで、境界があって別々に暮らしているわけじゃなくて、人→獣の関わりと人←獣の関わりがつりあって、人⇆獣ってなってるから、結果的にすみわけられている。断絶じゃなくて、関わり合いが均衡してて、保たれている状態なんだと思う。

この日の夜、1時過ぎまで飲みながらお話ししていたけど、次の日の朝、宇野さんは5時半から集落の草刈りに出かけた。外からは見えにくい仕事かもしれないけど、そういう仕事をしてくれる人がいるから、来た時にきれいだなーって思った集落の景色が成り立っている。

私の住んでいるマンションは、いつも管理人のおじさんが廊下とかの掃除をしてくれているから、自分で掃除をしたことはない。私は自分のまわりの環境を自分が関わることで保っているんじゃなくて、関わらずにお金で買ってるんだなと思った。

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みんなで自給することの意味

宇野さんは就農から10年経った2011年から、みんなで自給するLURA(Linkage of Urban and Rural lives by Agriculture)の会というものをやっている。最初はCSA(生産者と消費者がお互いに支え合う農業)ぽいのかなと思ったけど、なんかもはや生産者と消費者って区別は最初からなくて、みんなで大きな市民農園をやっている感じだった。

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おもしろいなあと思ったのは、農作業の話。70年代の産消提携運動とか、CSAも原理主義的なものは、「働かざるもの食うべからず」って感じで、消費者側が農作業に参加することは労働、苦役として捉えてられてきたように思う。でもLURAの会の会員さんは楽しんでて、宇野さん自身も、農作業に出られなかったことを謝る会員に「謝らないで。あなたが自然と関わる機会を失っているだけなんだから」と言うと聞いて、なるほどなぁと。笑

宇野さんが農家になることを決意した2001年は、日本で初めて狂牛病が確認された年だった。狂牛病は、畜産で余った屑肉や骨を砕いて粉末にした肉骨粉を餌として与えたことに原因があるとされている。また、翌年には狂牛病対策の補助金を得るための産地偽装が生じた。それを内部告発した会社は、取引が激減して休業してしまった。

安く、効率的にの果てに、大切なものを見失ってしまっている。正しいことをしたはずなのに、それがかえって仇となる。そんな出来事が悲しくて、宇野さんは競争しない場所をつくりたいと思ったそう。資本主義社会から完全に抜け出すことはできなくても、競争しない、競争に巻き込まれない場をどうつくっていけるか。食べものだったり、人と人との関係だったり、これがあれば生きていけるっていう、ベースとなる部分、安寧の場をつくろう。そうしてたどり着いたのがLURAの会だった。

「お金はいくらあっても邪魔にならないと言うけど、でもその邪魔にならないものを稼ぐためになぜいろんなものを犠牲にするのか」

そう問いかける宇野さんに、ほんとにそうだなあと。邪魔にならないもののために、生きるために絶対的に大切な、自然環境とか他者や自分の心身をすりへらしている、っていうことがたくさんあるように思う。生きることや命のかけがえのなさは、どんなお金でも換算できなくて、だから見えないけど、でもその見えないものが大切なんだと思う。

LURAの会のある会員さんは、「ここでは目に見えないものを感じることが多い。それを感じることの大切さを知った」と話していた。お金じゃなくて、かけがえのなさがど真ん中にある場なんだなと感じた。

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等身大の生活世界

LURAの会のようなモデルで、農家1人が会費だけで(他に販路をもたずに)食べていくには、会員がだいたい150人(世帯)ほどいればよいと宇野さんは考えている。そして、そういう農家が増えれば、自分の食べ物をつくることに関わる人、自分の暮らしを自分でつくる人が増え、選挙や民主主義のあり方も変わってくるのではないかと期待している。

1人の農家あたりの会員を増やすのではなくて、それはあくまで150人でそういう農家を増やしていくのは、宇野さんの「邪魔にならないものを稼ぐために何かを犠牲にすることはしない」考え方ゆえなんだと思う。

経済学者の玉野井芳郎先生が、「人間にはふさわしい規模の生活空間、等身大の生活世界があり、そこではじめて生命が維持更新される」ということをおっしゃっていたけど、宇野さんのそれは150という数字に表れている気がする。

LURAの会の会員は今50人だから、150人はその3倍だ。以前は50人を150人にすることを重視していたけど、今は50人が自分たちの食べものをつくる意識をもつことに軸足を置いているという。

社会を変えようとなにかを広げていこうとする時、「大きく勢いよく」も「深く確実に」もどっちも必要だけど、バランスが崩れると、資本主義社会にのまれて、形骸化してしまうか存在そのものがなくなってしまうように思う。

それはLURAの会も、ポケマルも一緒だし、私自身も、大事にしたいものを大事にしながら、でもちゃんと稼いで生きていかなくちゃいけない。歳が20違う高橋さんの、さらに20違う宇野さんの、そのバランスに悩みながら生きてきた背中を見て、これから先もずっと正解はないんだろうなと思った(笑) だったらその悩むことさえも楽しめるような、そんな生き方をしていけるといいな。

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本文中のすてきな写真は、玉利康延さん撮影。東北食べる通信のデザイナーをされていた方で、このサイトの記事がすごくおもしろくて、よかったらのぞいてみてね👀


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