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歓喜

今まで普通だと思っていたことが普通ではない現在。
普通だと信じていたことができない現実。
楽しいと思えていたことが何もできないと思っている自分。

なんだろうか、これまで経験してきたこと、積み重ねてきたと思っていたことがリセットされている気がする。
それは、すべてコロナの影響という訳じゃない。
スペインに住み始めて、いや住むと決めた時から決まっていたことのように感じる。
これは本当にリアルな現実として私の日常になった。

ただ、男。ただの日本人。
そんなことをいつも思う。
自分が何者でなにができるのか、なにをして行きたいのか。
この1年間、頭のどこかにいつもあった。
いや、正確に言えば、ずっとこれまでもあったと思う。

自己肯定感がもともと低かったのが、更にスペインに住み始めて低くなったんだけど、
それがコロナでもう全部こなごな、粉塵になって微塵もない感じ。
だけど、気持ちは日本に住んでいた頃よりも落ち着いている。
ただ、前はもっと好奇心や意欲が今よりはあった気がする。

停滞している時、閉塞感を感じるときは何かに挑戦していない時だと、
坂爪さんがブログで書いていたが、ほんとうにそうだなと思う。

意欲が沸くのは痛みとセットだ。
その痛みは生きる力になるし、自分を肯定できる。
根底には、もっと失敗したい、しても良いという自分がいる。
その自分にブレーキをかけて、生きる活力を奪うのもほかでもない自分だ。

瞬発力と継続力を掛け合わせて生きていきたい。
自分を肯定していたい。
自分を祝福したい。そして、家族や友人、仲間、全ての人を祝福したい。
これが希望だ。

なにをして良いかわからないことが一番つらい。
なにかしたいけど、なにをして良いかわからない辛さ。
マイナスの状況になると、反動でこうしたいという希望が生まれる。
これまでの自分はそうだった。
ピンチはチャンスという言葉は、きっと、この状況を変えたいという希望だ。
希望は必ずピンチの時に訪れる。もちろん、そうじゃなくても動いていればどんどん希望が湧いてくることもある。
ただ、希望のエネルギーの瞬発力は、好転させたいと願う気持ちから生まれる。

誰かに認められようなんて、もう今は思わない。
いっとき、認められても長くは続かないのだ。
ハードルを下げて生きること。でも夢は大きく描くこと。

諧はいつも、私に「パパは幸せか?パパは満足してる?」って訊いてくる。
彼のその質問のおかげで私は幸せだと感じらられる。
きっと、この質問は人生のテーマになる良い質問だ。
たぶん、彼が成長して物心ついたときには、この質問をしたことさえも忘れてしまうだろうけど。


3月、4月、5月、6月、7月、8月。
2020年のこの半年間は、とても長く、それにとても貴重な時間だったと笑える日がくるのだろう。

最近、友人からメールで送られた「前進あるのみだね」。
私は、前進しているのだろうか。
毎日、昨日より今日が素晴らしかったと言える日々を遅れているのだろうか。

手元にあるのは、自分の身体。そして家族。
毎日、美味しく食べられる食事、そして快適な家。
歩いていける海。晴天。こんなもんだ。

ここから幸せを感じられるのは、スペインにきたおかげかもしれない。


でもね、歓喜はまだなんだわ。
生きる歓喜も、私はずっと求めてきた。

歓喜

歓喜は生きる意味のすべてな気がする。
歓喜したくて生きている。
もちろん、幸せを感じたくて生きているのも真実だ。

ただ、歓喜は違う。
歓喜は生きている実感とも言えるかも知れない。
歓喜を受けるのは、仕事だと今まで思っていたし、今もまだそう思っている。
私は歓喜をどこから感じることができるのだろう。

毎日に歓喜する瞬間はどんなときだろうか。
私は、仕事をしているときのほうが、していない時よりも歓喜していると思う。
仕事は頭を使う分、脳をフル回転できるから、気が紛れるのだ。
仕事は自分だけの世界に入れる手段だ。
そのプロセスが歓喜しているときかもしれない。

もちろん、仕事だけじゃないけど、日々のルーティーンは生きる意味だよ。
日々のルーティーンは目的だもの。

現実に目を向ける気はさらさらないから、いつも空想ばかりして生きよう。
私は、地球人じゃないし。

なんのために生きているのか、忘れているのが今だし、
なんのためにスペインにいるのか(もちろん、息子が理由)
だけじゃなく、歓喜する理由を求めてきたはずなのに、
歓喜していない自分が嫌なんだろうな。

歓喜したいから生きてんだよ。

私にとって、歓喜はアートだったし、これからもアートなんだろうよ。

もう一度、アートを日常に取り戻すことから始めたい

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