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明日足元がゆらいでも

19年前のニューヨーク。朝、仕事が始まったころ、ワールドトレードセンターにボストン発ロサンゼルス行の飛行機が突っ込んだ。異常事態が始まった。

9年前の2011年。当時、関西の大学に通うために一人暮らしをしていた私を置いて、家族は父の仕事の都合でロサンゼルスにいた。Skypeで、夏休みに家族の元へ行く計画を立てていると父が言った。9月じゃなくて、8月のうちに来なさい。恥ずかしいほど貯金がない学生だった私は、航空券代も親に出してもらうつもりだったので、パトロンに従った。

これで3度目の渡米だった私は、すでに慣れたつもりでいて、足取りは軽かった。成田空港第一ターミナルで刀削麺を食べ、日本土産を買いあさりった。出国の際、違和感があった。いつもこんなに厳しかっただろうか? ただ、気のせいだとも思った。安価かつ高品質な旅を約束してくれるお気に入りのシンガポール航空の飛行機に搭乗した時には、もう違和感は忘れていた。

ああ、違うな。と思ったのは、ロサンゼルス空港に着いてからだった。警備員が多い。犬の数も、ぜんぜん違う。入国審査はこれまで以上に待たされた。自分の番のときは、家族の事情や家族のビザの種類について聞かれた。こんなこと聞かれるなんて初めてだった。

到着ターミナルに父が待っていた。よく来たね、とハグをしてくれた。物々しいね、と聞いた。今年でちょうど10年だから、報復テロを警戒しているんだよ。と父は何でもないふうに答えた。異常事態はこうして生活の中に継続していくんだ、ということを知った。

2011年9月11日。何も起こらなかった。ただ、その日の番組と新聞は覚えている。朝、ニューヨーク時間の8時45分に番組が突然始まる。ナレーションもオープニングもBGMもない。ただ淡々に、リアルタイムで当時の動画がつなぎ合わされている。わけも分からず混乱するだけの映像。そして、11時ごろ、唐突に終わった。日常に異世界が殴り込んでくる感覚があった。近所のスターバックスで3紙、新聞を買った。唐突に現れた暴力の被害者や、翻弄された人々がそこにいた。

2013年2月、私はニューヨークにいた。2週間の短期留学のために。ミュージカルや美術館、素晴らしいレストラン。ありとあらゆるものがひしめく中、私は911 memorialに向かった。そこは、整然とした公園だった。犠牲者の名前が刻まれている。記念館には、遺品や殉職した消防員のヘルメットがあった。ボランティアの人が当時のことを語ってくれた。

調べるうちに、当時の運輸長官を知る。ノーマン・ミネタ。911があったその日、大統領命令で国内を飛んでいる全ての民間機を緊急着陸させるという前代未聞のプロジェクトの責任を負った。カナダや周辺国との交渉の末、2時間半で全ての飛行機が着陸した。いつも渋滞しているようなアメリカの上空が静かになった。多くのジャーナリストや国民が、飛行機登場者に対して人種的プロファイリングをすることを述べたが、彼はそれを頑固拒否した。彼自身、第二次世界大戦中に日系人であるからという理由で、日系人収容所で幼少期を過ごしていた。人種による差別を最も否定する人間の一人だった。

911に対するアメリカの報復を私は決して容認していない。イラク戦争はやるべきではなかった。ジョージ・W・ブッシュを私は支持しない。ただ彼が近年に発売した画集は買った。そこには、戦争に行った兵士たちが描かれていた。口に出されない内省を感じた。

異常事態がさらなる異常事態を引き起こす時、自分の心情や理念、正義に従うことができる人たちがいる。10年の時に何も起きなかったのは、報復テロに備える黒人警官がいたから。多くの遺品や遺体を見つけられたのは、殉職した白人消防員がいたから。人種や宗教を理由に搭乗拒否されないのは、圧力に負けずに意思を貫いた日系運輸長官がいたから。混乱や恐怖で足元がゆらぐなか、自分たちの仕事と正義を貫いた。そこには人種や宗教は関係なくて、ただただ人としての強さがあったから。

毎年、9月11日を迎えるとき、私は自問自答する。明日足元がゆらいだとして、私は自分の信じることをできるだろうか。できる人間でありたい、と思う。


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