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Four summer-5-

 テレビ局の中は、知らない大人たちがたくさん歩いていた。僕は首から提げている入館証をすれ違う大人たちにアピールしながら、ズンズンと早足で歩く静香の後を付いて行く。テレビ局の中はどこも同じように見えて、一人で玄関に戻ることはできそうにない。
 静香は周りを見ることなく、真っ直ぐに進んでいく。これまで何度かテレビ局に入ったことがあるのだろうか? と考えていたら、目の前を歩いていた静香が急に立ち止まり、僕は静香にぶつからないように横に倒れた。
「こっちであってる?」
 見上げた先には睨みつけながら後ろを振り返る静香がいた。
「あなたが勝手に進むから、私もどこにいるか分からないわ」
「お母さんはテレビ局に来たことあるんでしょ」
「何年前の話をしているの」
 静香のお母さんは少しだけ眉間にしわを寄せながら言った。
「潮、お台場まで連れてきてあげたんだから、オーディション会場がどこか聞いてきて」
 静香の視線が僕の顔に降り注ぐ。
 僕は立ち上がって、優しそうな大人を探した。
 静香のお母さんは「私が聞いてくるから大丈夫よ」と言ってくれたけど、お台場までの電車代分くらいの役には立ちたい。
 廊下にいる何人かの大人たちを見比べた。お父さんよりも年上の人、お母さんと同じくらいの年の人、電話しながら歩いている人、腕時計を確認しながら足早に歩いている人。みんな忙しそうで、僕の話を聞いてくれそうなそうな人ばかりだ……
「早くしなさいとオーディション始まっちゃう」
 静香は腕組みをしながら僕の顔を睨みつけている。
 僕は遠くまで見渡すためその場で飛び跳ね、着地と同時に走り出した。
「すみません、ファッションショーのオーディション会場ですか?」
 雨模様の空を眩しそうに眺めていた女の人は、何度か周りを見渡した後、自分の顔を指しながら、
「私?」
 と、女の人は驚いたような嬉しそうな顔で言った。
「私はオーディション会場じゃないわよ」
「あっ、僕もオーディション会場じゃないです」
 女の人はその場で膝をついて、マンガみたいに腹を抱えて笑い始めた。
「すみません。こちらに行きたいのですが」
 静香のお母さんが話しかけると、女の人は涙を拭きながら立ち上がり、静香のお母さんが持っている紙を覗き込みながら、丁寧に説明してくれた。
 やっぱり大笑いされる時に良い思い出はない。
「なんであの人に話しかけたの?」
 いつの間にか隣いた静香は言った。
「話しかけても大丈夫そうな感じだったから」
「うえまりさんに似てたからじゃないの?」
 静香はそう言うと、前を歩いているお母さんの隣に小走りに駆けていった行った。
 僕は違うよと言おうと思ったけれど言えなかった。なんであの人に話しかけたのか、自分でもよく分からなかったから。静香に言われるまでうえまりさんを思い出さなかったし、オーディション会場を聞く人を探していた時は一生懸命だった。あの人を見つけた瞬間、この人なら僕の話を聞いてくれると思った。雨模様の空を眩しそうに眺めている横顔。なんだか懐かしい表情だった。
 心臓がドクンと大きく動き、後ろを振り返った。道を教えてくれた女の人の姿はなかった。僕から遠ざかった日々は、どれほど心の中にあり続けたとしても、もう一度現実になることはない。静香と静香のお母さんの後について行きながら、僕は前に向かって歩いていく。腹を抱えて大笑いする女の人に、もう一度会える時が来るのか分からない。今の僕に出来ることは前を歩く二人についていくことだけだった。
 オーディションの控え室にはどうやら時間内に着くことができたみたいだ。
 静香は控え室のドアの前で立ち止まり、大きく息を吸い込んでしばらく目を閉じた後、
「私はマジカルプリンセス」
 と呟き、控え室のドアを開けた。
 控え室に入ってすぐに、静香のお母さんの言った通りにお台場観光に行かなかったことを後悔した。
 控え室に入った僕を、同い年くらいの七組の女の子とお母さんが一斉に見てきた。小三の時に学校の女子トイレに間違って入ってしまった時と同じ視線だった。
 控え室には長テーブルが八脚あり、二脚ずつ迎え合わせになっていて、テーブルごとに椅子が二脚ずつ置かれていた。僕はみんなの邪魔をしないように隅っこにいたかったけど、残念ながら真ん中のテーブルしか空いていなかった。
 静香は僕を振り返ることなく、空いている席に向かう。僕はできるだけ足音を立てないように、呼吸をしないように静香と静香のお母さんの後をついていった。
 静香は席に座ると、もう一度「私はマジカルプリンセス」と呟いた。
 みんなの視線から逃れるためには、静香の後ろに隠れて床に座るしかない。
「潮ちゃん、どうぞ」
 静香のお母さんは空いている席を優しく勧めてくれた。
 僕はできるだけ音を立てずに椅子に座った。隣に座っている静香は壁に掛けてある時計を睨み続けている。
 時間は九時五十分だった。
 オーディションが何時から始まるかも聞いていないけど、たぶん十時から始まると思う。いや、始まって欲しい。もし、オーディションが十一時からだったら、控え室の緊張した雰囲気に耐えられそうもない。
 控え室は十七人もいるとは思えないほどの静けさだ。僕はオーディションを受けたことがないから、みんながどういう気持ちでいるのか分からない。ただ、静香が「私はマジカルプリンセス」を二回も呟いたので、とても緊張しているのは分かる。静香にとって「私はマジカルプリンセス」は勇気を出すための魔法の言葉なのだから。

 保育園に通っていた時、静香は「マジカルプリンセス」というアニメが大好きで、僕はそのアニメに出てくる「サクラダナイト」という役を毎日のようにやらされていた。マジプリごっこは静香と僕以外だれも参加しなかった。静香以外の女の子は、他の流行っていたアニメの遊びをしていたし、そもそもだれもマジプリを知らなかった。僕たちが生まれる前に作られたアニメなのだから、誰も知らないのは仕方ない。放送当時は人気があったと静香が力説していたので、きっとそうなのだろう。
 なぜ静香がマジプリが大好きなのかというと、静香のお父さんが作ったアニメだからだ。といっても、静香からお父さんの話を聞いたわけではなく、僕のお母さんが静香のお父さんのことを話しているの聞いた。
「アニメ制作って忙しいのかしら、だって静香のおとうさんって―」
 保育園の運動会や小学校の入学式にも、静香のお父さんは来ていなかったからアニメ制作は忙しいんだと思う。静香のお母さんが元々芸能人だったと聞いたことがあるから、静香が芸能人を目指しているのも、両親が関係しているのだと密かに思っている。
 控え室のドアが開き、みんなが一斉に顔を上げた。
「これからオーディションを始めます。名前を呼ばれた方は私について来てください」
 控え室は身動きが取れないほどの緊張感に包まれる。
「……………三田静香さん」
 静香の名前が呼ばれたのに驚き、僕は思わず立ち上がってしまった。
 控室に座っている女の子とお母さんは驚きの表情で、僕と静香の顔を交互に見ている。隣で立ち上がった静香の顔を見れない。
 静香は僕に話しかけることなく、席を後にして控え室の入口に向かった。
「潮ちゃん、ごめんなさいね」
 顔を上げると、静香が座っていた席に静香のお母さんが座っていた。
「昨日、静香から潮ちゃんも一緒に行くことになったと聞いていたんだけど、まさか、潮ちゃんに何も話していなかったなんて思ってもみなかったの。静香は緊張しやすい子でしょ。だから、潮ちゃんがついて来てくれて心強かったと思う。あの子に付き合ってくれてありがとう」
 静香のお母さんは小声でそう言うと、頭を下げてくれた。
 その言葉は素直に嬉しい。ただ、静香が本当にこの場にいて欲しかったのは僕じゃない。
「今年も熱海に行くの?」
 静香のお母さんはそう言うと、僕の顔から視線をそらした。
「たぶん、来週から行くと思う」
 静香のお母さんは、何度か僕の顔を見て、何度も視線をそらした。
 この時期になると、僕たち家族をよく知る人たちは同じような視線で僕を見る。みんな優しいから、僕を励ます言葉を考えてくれているのは分かる。その言葉を誰も探せないでいる。たぶん、みんな僕の気持ちが分からないんだと思う。それは、誰も経験したことがないのだから。
 背中が暑くなり、部屋の中が急に明るくなった。振り返って窓の外を見ると、雨は止んでいて雲間から光が射し込んでいる。夏の太陽は僕を励ましてくれているのだろうか。それとも、悲しみを忘れさせないため、あの日のように僕を照らしているのだろうか。光が射し込む空に向かって、思い切り手を伸ばしたい。僕の手を掴んでくれる誰かがいることを期待して。

 時計は十時十五分を指している。オーディションを受けたことがないので、どのくらいで終わるかは分からない。静香のお母さんはスマホを見ている。控え室にいる女の子のほとんどは鏡で自分の顔を見ている。女の子のお母さんたちは静香のお母さんと同じようにスマホを見ている人がほとんどだった。電車に乗っている時も、ほとんどの大人たちはスマホを見ていた。お父さんやお母さんも家でスマホを見ている時が多い。同じ部屋でスマホを見ている人と一緒にいる時、本当に一緒にいると言えるのか分からなくなる。スマホを見ているお母さんに話しかけても、お母さんはスマホを見ながら話をするので、僕ではなくてスマホに話しているみたいだ。
「何をいじけてるんだ、田舎の少年」
 うえまりさんは大学生なのに、スマホじゃなくてガラケーを使っている。ガラケーを見たことがなかったので、コタツの上に置かれていたガラケーを指差して「大学生もおもちゃで遊ぶんですね」と言ったら、「これは携帯電話だ」と怒られて、ガラケーの形態模写をやらされた。うえまりさんはスマホを持っていないからか、僕たちと遊んでくれる時に携帯電話を見ることはない。
 勢いよく開いたドアから静香が勢いよく入って来た。僕は思わず頭を抱えて机に伏せた。真っ赤な顔の眉間には一生消えないんじゃないかと思えるほど深いシワが寄っていた。鏡を見ている女の子もスマホを見ていたお母さんたちも静香を見つめている。
 静香は僕と静香のお母さんの間に立ち止まり、テーブルの上にあるカバンを手にすると、何も言わずに控え室を出て行った。

最後までお読みいただきありがとうございます それだけでとても嬉しいです ただ読んでくれただけで イヤ本当に読んでくれただけで十分です 本当に嘘じゃないよ