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産まれたときにお尻の穴がなかった次女が3歳になった

産まれたときに、お尻の穴がなかった次女が、今日で3歳になった。

お尻の穴がない「鎖肛」と呼ばれる先天性の病気とともに産まれた彼女。生後すぐに全身麻酔をともなう手術を経て、その後、一カ月間のNICU生活を送った。

今日にいたるまでに経験した手術は合計、4回。それらを無事に乗り越えて、今、自分のお尻の穴を使い、ウンチを出すことができている次女である。

2021年7月6日、まもなく七夕という夜。分娩台の上、たったいま2,100gの小さな女の子を産み終えた私に、小児科の先生は神妙な、どこか気遣うような面持ちでこう言ったのだ。

「お母さん、娘さんにはお尻の穴がありませんでした。」と。

「え、じゃぁどこにあるんでしょうかね??」

斜め上から飛び込んでくるかのような、変化球並みの事実に、文字通り、「ぽかん」とするしかなかった私。

あぁあの日から3年が経つのか。

いろいろな出来事があって、いろいろな感情を経験していたはずなのだけど、人間って不思議かな、そのほとんどを、どんどん忘れていっている。

出産当夜

次女のお産は破水から始まった。朝方、かつてない感覚に「おぉっ!!きたきたぁ」と驚きつつ、ここは経産婦。冷静に病院に電話をし、家族の運転で一路、病院へ向かった。

すぐに検査をしてもらい、服を着替えて。「破水してるし、(陣痛の)進み、早いかもねぇ」と言われたけれど、結局、次女はその日の夜までお腹でねばった。

ドコドコドコドコ……モニターから聞こえてくる力強い心拍音をBGMに、しだいに強くなる陣痛と向き合いながら私は妊娠期間を振り返っていた。

次女がお腹にいる間は、特に大きなトラブルはなかった。つわりこそあれど、毎回の検診のたびに大きくなっていく我が子に安心させてもらっていた。

「出産は何が起こるか分からない」とはいえ、何事もなく生まれてくることを信じてうたがっていなかったのだ。

それが、である。

まさかまさかの、お尻の穴がなかったんだからねぇ。出産とはやはり、「何が起こるか分からない」ものだ。

お願い、早く時間が過ぎてほしい。

「鎖肛」――。本来の位置に、肛門が形成されなかった病気。妊娠のごく初期に起こる何らかのトラブルが原因で生じるものらしく、遺伝性はないが、はっきりとした原因もわかっていない。

産まれてくる赤ちゃんの、およそ5,000人に1人くらいの割合で、少しばかり男の子に多いものという。

お尻の穴がないのだから、飲んだり食べたりができない。だって出口がないんだから、排せつ物がお腹にたまって大変なことになる。

鎖肛の赤ちゃんはしたがって、生後なるべくすぐの段階で人工肛門をつくる手術を受ける。何はともあれ、ウンチの出口を作ってあげないと、おっぱいすら飲めないのだ。

次女ももれなくこの手術の対象となり、七夕の日に、下腹に梅干しみたいな人工肛門を造設した。

産後ひと月ふた月は心と身体が不安定で、とにもかくにもしんどい時期。一方で、愛しい存在を胸に過ごす日々はきっと幸せな時間なのだろう。

そのはずなのに、私は次女を産んでしばらく、「とにかく早く時間が過ぎてほしい」と願っていた。早く今日が終わってほしい、何事もなく、早く。

本来の位置にお尻の穴をつくって、いまある人工肛門を閉じてしまえば、鎖肛はその時点で「根治」となる。

とはいえ、その後も排便フォローは続く。根治と言えど、完全に、いわゆる「普通の」子どもたちと同じようにウンチはできないのが次女である。

便秘、もしくはもれちゃったりすることだってあるんだって。長期的に。

それに、次女には鎖肛以外にも、身体的な特徴があることが、少しずつわかってきた。おしっこが逆流しがちとか、背骨が曲がってるとかね。

そういう子どもを育てたことがないから、この子がどういう風に大きくなっていくかわからない。わからないことがいろいろあって、怖かった。また何かみつかったらどうしようと思うと、ささいなことが不安となった。

だから、早く時間が過ぎてほしかった。数年先にタイムスリップして、私たちの様子を見て安心したかった。

わからぬ未来を案ずるよりも

不安な時期は、今思えば1歳までだったかなぁと思う。私の不安や恐れをよそに、次女は元気に育っていったから。

元・低体重児ってネタちゃう?というくらい、みるみる大きくなっていく次女。気づけば体重のみならず、背だってずいぶん伸びた。

笑った、這った、立った、歩いた。しゃべって、怒って、今やもう3歳だ。

「母よ案ずるなかれ。私は大きくなるから」と、まるで彼女は私に言うかのよう。

ちなみに、彼女は今も定期的に通院をしている。数年後には大きな手術をひとつ、控えてもいる。

身体にメスをいれる行為はやはり怖いと思ってしまうし、次女を手術室に送る前の日は眠れず朝を迎える。

でもきっと大丈夫だと思う。元気に戻ってきて、また大きくなっていく。

子どもを育てるというのは、その子の生きる力を無条件に信じぬくということなのかもしれない。

あれやこれやと心配したくなるけれど、親ってのは多分、産まれた時から、独立している命を、ただ応援するだけでいいのだろう。まぁそれが難しいのだけれど。

産まれてくれて、大きくなってくれて、ありがとう!
母は君らの生きる力を、信じて応援するだけなのである。これからもずっと。

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