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「20歳の自分に受けさせたい文章講義」で広がる「書く」の可能性

「あぁ~何っていうのかなぁ。見てくれたら、すぐわかるんです。」

これは、小学校6年生のK君が、先日の作文レッスン時に頭を抱えながら話していたことだ。

K君はそのとき、自分の好きなゲームの内容を紹介する文章に取り組んでいた。K君がよく遊ぶというゲームだ。

けれど私はそのゲームのことを全く知らない。だから、そんな私にも伝わるように、ゲームの内容、面白さを説明してね、とお願いしていた。とはいえ、である。

ゲームの内容を言葉だけで説明するのが、いかんせん、難しい。そもそもこのゲームのジャンルが何かってことすら、一言で言おうと思うと、戸惑う。

どこがどうおもしろいのかと言われたらなおさら、うまく言葉にできない。悩んでもがいて苦しんだ末にK君から出てきたのが、冒頭の言葉だった。

「あぁ~何っていうのかなぁ。見てくれたら、すぐわかるんです。」

そう、見たらすぐわかるんだろう。何もまどろっこしく言葉だけで紹介しようとせず、絵を見せ実物に触り、話しながら説明した方が断然、話が早い。

でも、私たちがその時に取り組んでいたのは、他でもない作文だった。言葉だけで、自分の想いや考え、頭の中の概念を伝える練習をしている。

だからこそ、「頑張って、言葉をつかって説明してみよう!」なんて言ってK君を鼓舞していたのだけれど…。

やっぱり、あるものごとを、言葉だけで表現しきるっていうのは、本当に骨の折れる作業なのだよなぁと、K君とのやりとりで改めて感じた。だって、使えるツールが一つしかない。「こ と ば」という、二次元のそれのみ。

20歳の自分に受けさせたい文章講義に見る、「書き言葉」に変換することの難しさ

K君とのいきさつがあったときに読んだ「20歳の自分に受けさせたい文章講義」。

ここには、色もにおいも形もない「言葉」だけを武器として、自分の想い、観たこと、聞いたことを読者に「伝える」ための、そう、言うなれば「言葉で表現し抜く」ための、いくつもの技術、そして考え方が紹介されていた。

本書でも、言葉を話すことと、文章を書くときの違いについて触れられている。表情や声、身振り手振りを用いながら表現できる「話すこと」に比べて、言葉(文字)オンリーで勝負する「書くこと」がいかに別ものであるか、が冒頭でしっかりと語られていた。

そう、目に見えない気持ちを、自分が経験したことがらを、あるいは人が語った何らかの言葉を、「言葉(文字)」という、平面の情報だけで伝えることには、やはりそれ相応のスキルが必要。

できうる限り、書いたものに齟齬がないように、書いた側と受け取った側での共通理解につながるように、人の心に届き、やがてその人たちの行動さえ変えうる力をその言葉に持たせるために、「言葉を使って表現する」ことがいったいどんなことで、そのためにできることにはどんなことがあるのか、多方面から紹介されていた。

「さっそくやってみまっす!!」と思う超実践的なノウハウももちろんあったけれど、「人に伝わる文章」を「書きあげる」ために、どんなマインドや姿勢が大事なのかっていうことも、すごくロジカルに書かれていた。

本書の構成は4つ。

第1講 リズム
第2講 校正
第3講 読者
第4講 編集

例えば、第1講:リズムには、具体的な句読点の打ち方が紹介されていた。点とか丸とか、どうやって打っているかと問われると、けっこう私、なんとなくの感覚でやっていることに気づく。

確かに、多すぎるのもダメ、かといって少なすぎると文章の切れ目がわからなくなり、結果、もういちど読み返さないと意図がつかめない文章にさえなりうる。

だから、なるべく一文はすっと読めるように、句読点を意識して打つ。確かに私も意識しているけど、この「すっと」って何なんやって話。

あんたの「すっと」は、つまるところ、どういうもんなんや、ってことを、私は説明ができなかった。でも、もちろん著者の古賀さんは、ここで明確な基準を示してくださっている。

例えば、第4講:編集。ここでは、いわゆる推敲についてのお話が進んでいくのだけれど、私が考えていた「推敲」と、ここで語られていたそれとでは、そもそも幅も深さも全く違った。

自分の文章を自分で見るってことは、自分の姿を鏡なしでみるのと同じくらい難しいことではないかと思う。

文章におかしなところがないか客観的にみよって言われるし、私も言っているけれど、じゃぁその客観的視点ってどういうふうに持つのさ!ってことを、これまた、あまねく人に届く表現で、示してあった。

本書を読んで感じること。たくさんあるけれど、一番は、いかに、自分がこれまでの経験(といってもさほど積み重なってもないけどさ)と感覚で文章を書き連ねてきたか、という反省。

この点、本書を読み進めるにつれ、じわじわくる。改めて「言葉(文字)」というものの可能性と、扱いにくさも知った。

私は思うに、さらりと書きすぎている。何も考えずにさらりと文章に取り組んでいた。それで怒られることもなかったし、「意味がわからん!」と、提出した原稿をつっかえされるってことも、それほどなかった(たぶん)。よく言えば、まぁそこそこ体裁保てるくらいの書く力は備わっていたのかもしれない。でも悪く言うと、なめとった。「私、書けるから」ってどこかで思ってたんちゃうかしら。わ~もうこれがっかりや。

言葉には色も形もにおいもない。だからこそ、そこに、なるべく自分の本意に近い言葉を与えて可視化する。「わかりやすく」「人に届きやすく」可視化する、その道筋にはたぶん終わりってないのだろうと感じている。

これからは私、何度も自分の文章読もう。何度も振り返ろう。そうして自分の言葉になんども突っ込みを入れ続ける。だってそういう姿勢がないと、せっかく書いた言葉でも、誰にも届かないものになってしまう。本書の最後の言葉を引用したい。

「いい文章」とは、「読者の心を動かし、その行動までも動かすような文章」のことである。(中略)じゃあ、どうすれば読者を動かすことができるのか?まず必要なのは、自分の“思い”を知り、それを「言葉だけ」で正しく伝えることである。自分はなにを伝えたいのか、読者に何を求めているのか、そのためには“思い”をどんな形にして伝えるべきなのか―。

20歳の自分に受けさせたい文章講義

発信する側に立つのなら、ここはずっと取り組んでいくべき(いきたい)ところ、だと感じている。

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