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好きなことに理由なんてない

友人と久しぶりにゆっくりと会う時間があった。
彼女は、ここのところ老齢のワンちゃんの看病をしていて、自分の時間をあまり取ることが出来なかったため、ゆっくりと時間を取る事が難しかった。

最愛のワンちゃんが天国に召された事を彼女から聞き、彼女が彼と重ねた年月を想い、かけがえのない時間をともに過ごした友がいない喪失感を思うと言葉が出なかった。

いつも彼は彼女を支えていた。彼女の傍にいることで、全力で彼女を支え続けていた。どんな時も。

その歴史を知っている故に、通り一遍の慰めの言葉をかけるのも、何だかためらわれて、その彼のご冥福を祈り、静かに乾杯した。

彼は彼女に散歩に連れて行ってもらい、ごはんを与えてもらい、沢山のものを与えてもらいながら、彼女に沢山のものを与えていた。それは何か役に立つという次元を超えたところで。

どうしてこんなにシンプルな法則を、身近な関係性では自明の事実を、資本主義は評価する方法を持たないのだろう。まるで人間本来の性質は認めないかのように。

彼女は控えめに言った。

「今まで自分のために時間を過ごす事を全然してこなかったから、これからどうしようかと思って。私、何したいんだろう?とそんなところから始めないと自分の事が良く分からなくなってて。」

ゆっくりでいいんじゃないかな、ゆっくり思い出していけば。きっと、何かやりたいことが出てきて、そんな事をしているうちに、自分の事、思い出していくんじゃないかな。

「そうだよね。」

と言って、彼女はとても控えめな微笑みを私に向けた。
昔から変わらない美しい口元にほっと心が和んだ。

数日後、「やることリスト」が彼女から送られてきた。
何だか気合の入ったリストを見つつ、一緒に出来るものがあれば、一緒に楽しめたらいいなと思った。

自分の好きに理由なんてない。

どうして好きなの?と聞かれても、説明のしようがないし、この絶対的に好きだと思う気持ちを明確に表せる言葉を私は知らない。

しかし、世の中の多くは、何かをするための理由や根拠を求める。

ただ好きだからと答えれば、ナゼ好きなのかを知りたがる。

そんなの直感だし、感覚だし、フィーリングなのだから、言葉で説明できないし、自分と他者は異なる感性を持ち合わせているのだから、そこに共感を見つけることはさらに難しい。

共感、大事だったけど、自分が好きだと思うことに他者の共感を求めなくなったのは、時代の流れなのだろうか、それとも歳を重ねたからなのだろうか。

ひとつ言えることは、そうやって好きをひとつひとつ見つけていくことは、自分自身を知っていくことと同義だったという事だけだ。

本当は、そんなに複雑に沢山のものを求めているワケではなく、シンプルに自分の心地よい選択をする事が自分自身なのだと知っていく道でしかなかった。

だからこそ、彼女と何か共有できる時間が持てたら、とても幸せなひと時になるだろう。
互いの好きがリンクする場所になるから。

きっと何倍も幸せな時間になるのだろう。

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