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不可能性を徹底し死を与え弔うことで自己解体されていく(ブランショ『明かしえぬ共同体』を読んでみた雑感)

[Works1.1]不可能性を徹底し死を与え弔うことで自己解体されていく (ブランショ『明かしえぬ共同体』の雑感)


○この本との出会い


地形の記事を書くために谷根千の散歩をしていたとき、ある古本屋さんにたまたま立ち寄った。そのとき手にとったのが本書である。いますぐは絶対読まないだろうなと思いつつも、積読してでもいつか消化したいと思って買ったら、すっかり沼にハマってしまった。そして読書会のテーマにしたのだった。確かに面白いし心惹かれるところ多いのだけど、意味が分からない箇所が多すぎたのも事実だった。「そうか、この本って要するにブランショ×バタイユのBL本ってことか!」という言葉を聞いて、とりあえずそういうことにしておこうと思った。


それからまたしばらく経って、色々と悩んでいる時期に改めてこの本を手に取った。すると、難しいと思っていた箇所が手に取るように理解できるようになっていた。それに伴って絶版になっているデュラスの『死の病』も入手して合わせて読むことにした。解釈に困るところは未だ多くあるけれど、改めて感想を書き直すことにした。


そしてちょうど先日、ナンシーの新著の訳が『否認された共同体』として出版された。「1980年代、バタイユに触発されてナンシーは『無為の共同体』を刊行し、ブランショは『明かしえぬ共同体』でナンシーに応答した。30年後、ナンシーはバタイユを再び取り上げつつ、亡きブランショへ本書で問いかける。」という触れ込みだ。ブランショの問いかけは今なお引き継がれている。


○全ては終わってから自覚される


まず、「裏切られた概念というものは存在しない」という断言に魅せられた。心当たる節があったからだ。浅い解釈であれば、成立しえない共同体の理想は、「裏切られた概念」と捉えてしまいがちなのだけど、その実は「放棄」という行為が大きく関わってきている。


例を挙げるのであれば「普通の幸せ」って言葉が分かりやすいように思う。これは、それ自体を放棄することによって初めて得られる瞬間の美学とでもいえる。まず、「普通の幸せ」という期待を捨てることが幸せを得るために必要だといえば納得していただけると思う。そして、「普通の幸せ」は全く存在しないわけではないのだが、断続的に一瞬だけそこに生じるものだということも直感的に分かる。あるいは、それを強く感じさせる場面があるのだとすれば、失われた瞬間にその存在に初めて気づくという状態である。シンプルに考えれば、J-POPの歌詞にありがちな「失ってから初めて君の大切さを知った」というような話ではあるのだと思う。ただ、失うことは最初から運命づけられおり、むしろ相手という存在を失うことで愛が生じるのだ、という深い考察がここにはある。これを裏切られた概念ではなく、「それ自体を放棄することによって初めて成立する概念」とブランショは表現している。むしろ積極的に放棄すべきであると断言すらしているように自分には聞こえている。


果たして、そこまで先鋭的な思考になってしまうまで考えたことがあったろうか?世俗的な場面では「普通の幸せなんてあるわけないじゃん」、「普通の幸せが欲しかった」、「俺は愛していた」ともなんとでも言えるのだけど…。人文的な知識もなく、バタイユを全く知らない自分からすると、究極の放棄ともいえるアセファルなどはあまりに現実離れした御伽話にしか聞こえてこないのは事実だし、「死によって規定づけられている共同体」という考え方自体が極端なのではないかという純粋な感想を捨てきれない。しかし、拒絶するほどでもなく、頭では論理的な繋がりを持って理解することができた。そういう捉え方も筋が通っているしあり得るなあと。


○共産主義とコミュニケーション


共産主義(communism)、共同体(communaute)、コミュニケーション(communication)、聖体拝領(communion)は言葉のスペルは近い。そこに着目したブランショは前半の冒頭部で、ここで語る内容はこれら言語の欠陥に関することであると述べている。それぞれの言葉の本来的な意味は歴史的な経緯の中で政治的に奪われていったためなのだという。また、後半の冒頭部も68年の5月革命を語るところからスタートしている。「それ自体の不可能性にいつも何らかのかたちで縛られているこの可能性とはいったい何なのか。」「いかに私たちの心を惹こうとも、それを再現することが不可能だということに目をふさぐわけにはいかない。」とあるように共産主義の成立が現実的に難しかったのと同じくして共同体の様態もそれに近しい概念なのである。


○「死の病い」と政治を同時に語るのはなぜか


ブランショが恋人たちの共同体に政治性を見出すのはなぜだろうか。その答えの一端は、「不可能性という可能性によって自己解体し新しい肉体に到達することが社会的事象を解体し創発する民衆の運動に対応している」、ということに見出される。個人にとって他者と共同体は必要な存在であり、自己解体によって、それらへの関わり方に対して新たな認識を与える。それが政治的な問題としてしか扱い得ないことの根拠である。

「民衆とは社会的事象の解体であるとともに。それらの事象を法が囲い込むことのできない思考性(主権性)-あくまで法の基礎でありながら法を締め出すものである-において社会的事象を再創出しようとする頑なな執着ともいうべきものである。」とブランショが述べているように立法の根拠は街頭における民衆の現前にある。そして、「死の病い」に冒された男も女の喪失により「それに到達する機能もないままにこの新しい肉体に到達する」ことになる。共同体の縛りから逃れたその身体は新たな未知なる他者に開かれ自己を新たな場所へと連れ出す。その不可能性の徹底が新たな予期せぬ可能性の下地になり、未知なる世界を切り開くのである。


全ての人間が平等な社会という素朴な共産主義の要請を夢見ながら、失敗し続けながら、民衆により解体されながら、別の制度を成立させていくことに、あるいはかつて経験した他者との追憶に憧憬を見出しながら、また別の他者との反復のうちに新たな形態の関係性が自身の想定を超えて構築されることに、まだ我々は希望の光を見ても良いのだ。「裏切られた概念ではなく、それ自体を放棄することによってでしか成立しない」というのは、運命付けられた敗北により放棄せざるをえないその概念は我々に無限に反省させることを要請しているということなのかもしれない。エドガール・モランの「ある別の社会、ある別の人間存在の可能性を私は今も信じている」という言葉はそのようなことを意味しているのではないか。


「不充足の意識は存在者が自分自身を疑問に付することから生じる」「存在者が求めているのは承認されることではなく、異議提起されることである。」とあるように人間は本質的に他者を必要としている。そこに自己認識を得るという以上の要求がないのであれば、「不断の自己解体を通じてのみ、おのれを構成してゆく」ことはないだろう。そして、「私の考えは、私ひとりで考えたものではない」のだとしても、対象の喪失により思考は経験の残骸から新たなエクリチュールを生み出すことになる。破壊は創造の第一歩であるのは間違いない。

○他者の死によって初めて成立する共同性


共同体は持続して成立し続けるものではないという前提がある。確かに、ほんの一瞬だけしか存在しないのが常ではないだろうか。そこはきっと誰しもが悔しく感じる思い出を持っているはず。どこまでも深かったはずの交流の末に、もう一生これから接点を持てなくなってしまったあの人との、かつてあったはずの共同体…。そしてその後の不在になった共同体に対する虚しい反復だけが残り香としてあり続ける。


ブランショは死について新しい見方を提示した人物でもあるらしい。自分の死は自分自身の所有になり得るのだろうか?という疑問を提示している。これについてはまた別の機会に詳しく見ていくとして…。同じ死という現象であるにも関わらず、去る者と惜しむ者の間で経験する内容が決定的に異なる。そのような意味で、死は同じ現象に対する経験の差異を際立たせる決定的な最期である。決して交わることがないのだということだけを究極なまでに際立たせる経験である。そして、自分の死は誰かにとっての個別の経験でもある。しかし、同じ現象を共有しているという繋がりだけは強くそこに存在している。


物理的な死でも、ケンカ別れという意味での死であっても、疎遠になるという結末だったとしても、共同体にとっては運命づけられた死であることには変わらない。共同体が浮かび上がってくると同時に、いずれ死にゆく人間という存在どうしの、別れが確約された状況も埋め込まれていく。逆説的ではあるが、その別れの絶対的な存在感によって、共同体の輪郭は更に明確になっていく。その意味で死に基礎付けられていると言える。別れが存在しなければそもそも出会いも交流もあり得ないのである。しかしそれでいて、崩壊するときは何ひとつ存在しなかったのだという印象さえ残し思い出の彼方に消えてゆく。


○キルケゴール「死に至る病」とデュラス「死の病」


キルケゴールによれば「死に至る病」は絶望であり、精神としての矛盾の統合を担う自己がバランスを失うこととして定義されている。この病には①本人はケロッとしているが絶望に気づいてない、人間の精神構造についての意識が全くない。②絶望して自己自身であろうとせず抜け出したいと思っている③絶望して自己自身であろうと捻くれる、の3段階があると論じられている。


「死の病い」というタイトルはキルケゴールを意識しているのではないかとブランショは指摘している。そして、「愛とは決して確かなものではない上に、愛の要請は愛への執着が愛することの不可能性という形態を取るに至るような円環として課されることもある。愛することの不可能性、あるいは愛の秘訣を失ってもなお、いかなる生ける情熱をもってしても近づきようのない孤立した存在者たちに向かって差し伸べたいと望む人々の不確かなそれと感じられることもない痛み」としてブランショは解釈をしている。そういった定義からすれば、絶望の3段階の最初のステップに該当するのではないかと想像できる。


本人は絶望していることに自覚的ではないが、そうであるが故に「心理的な働きによってもたらされる精神バランスの崩れとして解釈すべき状況を、あたかも外部からやってくる状況だと勘違いして絶望から抜け出せなくなる」という状況を排除できない。現在は絶望の最中にいるわけではないが、将来的に絶望する可能性が高いという意味で絶望における最初のステップである。それに対応するように、「将来的に解散が運命付けられている共同体や他者との関係性に対して、それを予期しながらも自覚しえず全力でコミットし続ける」こと、あるいは「他者との絶対的な断絶を自覚できず、未知のままの相手を受け入れることができず、どこまでも知ろうとしてもがき続けること」として死の病というタイトルが語られている。この小説の中に登場する女性はことあるごとに死の病を宣告するが、主人公はそれに気づくことができない。そして、ときどき自己自身から抜け出そうとして涙を流し絶望する。しかし、涙を流しているときでさえ、なぜなのか自分でも意識することができない。


○不可能性の徹底


本書のテーマは共同体についての考察ではあるのだけど、やっぱり不可能性も大きなテーマとなっている。ここでもキルケゴールと少しだけ対比させてみたい。キルケゴールは、自己を自己自身と他者との関係性を積極的に措定する人間としての精神の働きとして理解していた。可能性と不可能性の統合として、永遠と有限の統合としての自己でもある。そこで、信じ切ること、可能性だけが救いであるとまで断言している。


その一方で、ブランショはどこまでも徹底して不可能性に裏打ちされた理解をしている。一人で死ぬことの不可能性(未完了性)、愛の不可能性、共同体の不可能性といったところ。これらは、可能性(を信じること)を放棄することによってはじめて成立する不可能性であり、不可能な状況で他者がいて瞬間だけ成立する可能性であり、人が持っていたものを失うことによってではなく、初めから持たなかったものを失うことによって立ち現れる概念である。そして、コミュニケーションを主体(知ろうとする自己)と客体(知られる対象である他者)の関係性が消滅する交流の瞬間を共同体の中で一瞬だけ現れる恍惚として捉えている。


言葉の上ではまるで正反対な戦略を提示した両者だが、しかし、どういうわけだかあまり違和感なく両方とも受け入れられるのである。それは、キルケゴールの質的弁証法の考え方があるからだと思われる。有限で不可能な存在としての挫折と神との絶対的な断絶を乗り越えるのが、どこまでも可能性をただ信じ切る、信仰という行為だったわけだ。どこまでも不可能に思われても、ただ信じるその態度を持ち続けることで自己のバランスを保てる。しかし間違いなくそれは人間の有限性と不可能性が出発点なのである。


キルケゴールはレギーネへの愛の憧憬を抱きながら倫理と絶対的他者に導かれたように、相対的な他者を捨てた孤独のうちに神の信仰で救われるキリスト者としての徹底した態度が見られる。一方でブランショは、神への信仰という処方箋が使えないし、共同体によって救われようと思うと一歩間違えるとファシズムになるから、不可能性を徹底するしかないという発想である。蛇足だが、ヘーゲルから始まった近代に対して両者とも批判的な立場をとっていることも念頭に置いておいた方が良いかもしれない。


ブランショの時代には神が既に死んでいる。バタイユもアセファルなどを通して神なき宗教共同体を模索していたが挫折してしまった。無限の可能性の源としての絶対的他者としての神とそれに対する可能性を信じ切る信仰という態度が解決策として持ちえなかったとき、もはや不可能性(可能性の放棄)を徹底するという苦肉の策に出る他なかったのかもしれない。




○持続ではなく反復と縛り付け


人間関係の形成は、ほぼ全てプロジェクトに基づくという事実を前提として、不意に立ち現れる共同性により、その輪郭を明らかにするといえないだろうか。プロジェクトがプロジェクトである限りは突発的なものでありひとまずは単体でどこかで区切りとして終了するものであることは間違いないのだけれど、それでも続いていく関係性があるとしたら何だろうか。それにしても、持続への道筋というより、その関係が人間をどう縛り付けているのか、その縛り付けこそが共同性が存在した証拠であるのだろうと考えてみた方が良いのかもしれない。他人と活動するということは自分自身をいやがおうにも変えてしまう縛り付けの可能性に身を投じるということなのだと最近は思うようになった。


あの面白いお店に行こう、これこれの体験をしてみよう、あの山に登ろう、散歩しよう、読書会で本をしっかり読み切ろう、と複数人で試みるプロジェクトを立てることがある。しかし、それが終わったら、ひとまず関係は終わる。まあ、ごくたまに思い出して連絡を取ったり会うとか、その程度である。頑張って新しい計画を立てれば、気が向いたときに乗ってくれるかもしれないけれども。3年後には卒業し離れ離れになってしまうことが分かりきっているのに、なぜ学校では他人と親睦を深めたり、一致団結を図ったりする必要性があるのだろう。自発的にではなく当たり前のように強制される行事も、やってみれば熱中するといったこともあるだろうけど、それになんの意味があるのか。そこにかける期待は何だろう。大人になると大変だとか、いまのうちしか青春ができないとか色んな想いがあるのかもしれない。全体への奉仕などは要求されておらずとも、未だ経験し得ない未知への可能性に対する自身のエネルギーの純粋な投資、幼心に抱く学校という場所の原風景という想定により突き動かされている。


縛り付けがそうである理由は反復しようとするからである。社会人になると学生時代に形成された世界観や「自分はこう生きてきたし」という呪い「既にこうである」という前提で判断を下すしかなくなる。生育歴と行動パターンと価値観が自分の行動を良くも悪くも限定してしまう。同窓会で同じ出身校の友人を見ていても、結局は同じような文化の中で生きてきたのだなと感じさせるようなことは少なくない。最初に一瞬だけ存在した共同性を反復しようとするあまり、それに縛られて何かを指向してしまうことを避けられない。人間関係は持続しないのが常だとしても、共同性の残り香に強く縛られるのなら、自分自身を抜け出してしまうような共同性に身を投じた経験がそこにあったということなのだろう。同じ状況を分かち合っていて、同じ方向を向いていたとしても感じ方はひと次第だから、それを一体感と呼んで良いのかが不明だけども…。


キルケゴールは、「反復と追憶とは同一の運動である、ただ方向が反対だというだけの違いである。つまり、追憶されるものはかつてあったものであり、それが後方に向かって反復されるのだが、それとは反対に、ほんとうの反復は前方に向かって追憶されるのである。だから反復は、それができるなら、ひとを幸福にするが、追憶はひとを不幸にする」と述べている。ここでの反復は、通常とは異なり、同一のもの繰り返しではなく、新たなものの創造、新たな飛躍、さらに言えば、可能なものが現実的なものになるということである。その意味で「反復」は継続ではなく、むしろ断絶とも言える。






○死を与えること


根本的に死によってでしか共同体も愛も立ち現れないのではないか?というのがブランショの結論じみた断言を含む問いかけとなっている。解散を運命付けられているからこそ、いまこの瞬間の対話に没頭することもあるだろう。もちろん自ら積極的に共同体を終わらせる必要などない。でも、死を与えた方が中にいる人々のためになる状況も、何らかの意図があって解散することもあるだろう。誰かから捨てられたという思いを強く抱くような悲しい経験をこれ以上はするべきではないと、閉じこもるために次々と自分から縁を切っていく、つまり周囲に死を与えていく行動も想定できる。


「現実の死であるか想像上の死であるかは問題ではない。死は共同体の運命に書き込まれた、常に不確かな週末を、一種はぐらかすかのようにして永遠に確立するのである。」とあるように、実際に死んでなくても、相手に連絡が取れなくなればある意味で死んだことと同じではないだろうか。「死の病い」の男にとって女は死んでしまったことになる。というか、最初から存在していなかったかのような印象すら与えるほどの消え方をしてしまう。「死の病い」の女は「あなたは愛することができないで泣いているのだと思っているけれど、本当は死を課すことができないで泣いているのだ」と男を断罪している。最終的に女は死を課すことで、この共同体を消滅させることによって愛を成就させてしまう。そんな失って気づく愛や共同性だってある。


トリスタンとイゾルデという中世の宮廷詩人が語り伝えた物語を戯曲化したワーグナーは「”憧れるものを一度手に入れたとしても、それは再び新たな憧れを呼び起こす””愛の憧憬や欲求がとどまるところを知らず、死によってしか解決しない“」という言葉を残しているようだし、死によって2人の恋愛が初めて成就した物語になっている。


『死を与える』という著作でジャック・デリダはキルケゴール『おそれとおののき』の読替えを試みている。主題となっている旧約聖書アブラハム物語は「愛する息子イサクを供物として捧げよとの神の声により殺そうとするが、いざその段になって神から留められ、代わりに羊を捧げる」という逸話である。原典に当たっていないためよく分かっていないが特定の宗教の正当性の根拠として持ち出すための所詮エピソードを超えており様々な読解ができるようだ。これは特殊な状況としてでしか想定し得ないものなのだろうか?デリダはイサク奉献で語られている神の理不尽な要求を「ごくありふれたことでもあるのではないか。責任の概念を少しでも吟味してみれば必ず確認されるようなことでもあるのではないか。」と解釈しているようだ。神という絶対的な他者を選ぶのか、最愛の息子を選ぶのかという究極の選択が、日常の何気ない生活の中にも紛れているのであり、他者に対するその責任を自覚し積極的に引き受けるべきなのだという趣旨のことが論じられている。デリダは、「私が他者の呼びかけや要求や責務、さらには愛に応えるためには、他の他者を、他の他者たちを犠牲にしなければならない」ことを指摘している。自分の職業や市民としての活動を通じて、ひとりの他者に責任ある義務を果たそうと思えば、この他者とは異なる他の他者、無数の他者に対する責任を裏切ることになる。そこには最愛の他者も含まれる以上、イサクに刀を振り上げるかのごとく最愛の人を犠牲にしつつあることになる。「夜も昼も、あらゆる瞬間に、世界のすべてのモリヤ山で、私は刀を振り上げつつある。私が愛する者に、愛すべき者に、他者に、およそ共通の尺度のないような次元で私が絶対的な忠誠を負っているようなひとりの他者に対して私は刀を振り上げつつあるのだ」とデリダは強調している。補足をしておくと、モリヤ山はアブラハムがイサクを捧げようとした場所のことである。



子育てをしながら働いている人を思い浮かべてみるとわかりやすい気がする。どうしても仕事を優先させざるを得ない状況の中で遅い時間に家に帰って、小さい子供と触れ合う時間を犠牲にするタイミングはまさに程度は違えど、イサク奉献と同じようなシチュエーションだと断言しても良い。もうひとつ面白い例がある。宮崎裕助が紹介しているカフカが挙げた喩えである。「召されずにやってくるアブラハムとは!一番よく出来る生徒が学年末に厳かに褒美を与えられることになっている、その期待に満ちた静けさの中に、一番出来の悪い生徒が聞き間違えたために、怪我らしい彼の最後列の席から現れて、全クラスの爆笑を買うようなものです。しかもそれは、ひょっとすると聞き間違えでは全然ないのかもしれない。彼の名前は本当に呼ばれたのであって、一番の子の表彰は、先生の意図によれば同時にビリの子の処罰ということなのです。恐るべきことです。十分に。」というものである。出来の良い生徒への褒め言葉は同時にビリの子の処罰を意味しており、誰かを持ち上げるその瞬間に他の人は毀損されているかもしれないという指摘である。


我々は犠牲にする他者と優先させるべき他者を選ぶ理不尽な選択を常に突きつけられて生きている。だとすれば意識的に自ら死を与えるという責任の引き受けこそ必要なものである。ここで、マイケル・サンデルの白熱教室で引き合いに出されていたトロッコ問題が脳裏をよぎる。いずれにせよ見知らぬ誰かを無意識に殺しているというのに。他者への応答可能性を全ての人間に対して負うわけにもいかず、他者を生かす選択にこそ責任が立ち現れるのだといえる。神を愛するということは被造物の全てを愛するということに該当するのだろうが、キルケゴールの重要視していることは神を通じて全ての人を愛する必要があるということだ。彼にとっての信仰が理性で把握できるような根拠もなく絶対者を信じるという選択そのものを意味していることを踏まえれば、その射程が宗教的なものに留まらないことが分かる。1人の息子を愛することと世界全体を愛することが矛盾してしまう理不尽に晒されたとき、それでも世界を愛せるのか。犠牲が犠牲として成立するためには犠牲になる者がどうでも良い存在ではなく深く愛されている必要がある矛盾を見出すことができる。そのような単独者の苦渋の決断にこそ、デリダがよく引用するキルケゴールの「決断の瞬間はひとつの狂気である」という言葉の真髄がある。決断が決断たり得るには反省や熟議が不可欠なのにも関わらず、その中断においての中でしかなされない行為である。神を通じて全ての被造物を愛すべきなのだとしたら、神なき時代の我々は自分自身が信じる何かに基づいて、全てが良い方向に向かうべく他者に愛を与えなければならない。それには死を与えることが不可欠になるのだろう。そして、それには出来の悪い生徒を断罪することが含まれるのかもしれない。でもこれは愛するが故に適切に行われなければならないのだろう。心から愛すればこその断罪でなければきっと許されないのだろう。「死を与える」は「生を奪う」という表現とは違うニュアンスとなっている。確かに死はイサク、神、アブラハム自身の三者に対してそれぞれ与えられている。息子を殺すアブラハム自身の犠牲が含まれている。「奪う」ではなく「与える」ような意味での決断であることは、自己解体へと向かう行為の根源としてあるからなのだと思われる。


ところで、こんな発言は許されないのかもしれないが、女性は自分自身の認識は緩いのにも関わらず、自信を持って他者を断罪することができる傾向にある気がする。死を与えるのはいつでもその人の女性的なものであり、それが本当に間違っているどうかは関係なく全てはお気持ちの問題なのだ。気持ち悪いと思わせるような地雷を踏んで仕舞えば、それを静かに爆発させて知らぬ間に跡形もなく姿を消してしまう。ブランショのいう「絶対的に女性的なもの」に心当たりがあると思ったのはそういうことだ。「死の病い」の女は、意味深で本質的な断罪をすることがあっても、よく読めば世俗的で短絡的な断罪をしている場面も見受けられる。女性の神性は、その正しさではなく断罪と突然の失踪、その捉えようのなさ故の神秘さに見出すことができる。どこまでも不条理であり、その選択の強さ、判断基準の曖昧さ、論理的に把握できない理解できなさが、男性にとっては神々しさとなる。

○エクリチュールによる追悼


語ることだけがその死を弔うことができるのではないだろうか、この本を読んでいてそう思った。そして、語ることには共同体が縛り付る呪縛の負の側面から逃れ得て自由になれるという側面もある。文字にして分析と反省を自分自身から分離させ浮遊させることで完全な過去のものとして、自身が生まれ変われるかもしれない。繋がりに対する諦めと切断のうちに残ったものだけが自分をまた新たな別の場所に連れて行く可能性になる。そのような意味で、不可能性を徹底することにより新たな可能性が広がるという捉え方もできるだろう思う。自分はこの頃、むしろ積極的に死を課すべきなのではないかという発想に至っている。不可能性を徹底し死を課すことだけが未知の可能性へつながり得る唯一の手段である。少なくとも終わったことは終わったこととして終了させておくべきというより、積極的に葬ることが望ましいというのだけは間違いなさそうだ。そうでもしないと、共同体の引力からは逃れられない。


死を与えられてしまった関係はエクリチュールによって引き継がれるのだとしても、そこで書き言葉の不可能性という壁にぶち当たってしまう。一体どのような語り方だったら追悼が可能になるのだろうか。言葉は誰かに届くアテもなし誤解さえされてしまうだろうにそれでも紡ぐのであれば純粋な放棄である。それは受け取られることで初めて贈与となるのだけれど、それでも読者は自分の読みしかできないという問題がある。「読者とは自己放棄に身を委ね自分自身を失いながらも、同時に、そこに生起し喪失の中で彼の手を逃れてゆくものをよりよく見定めるために、路傍にとどまる同伴者なのだ。」とブランショは言っている。


言葉による追悼では相手の現前を捉えることができない。ブランショがバタイユの死を想起しながら書かれた「友愛」という文章がある。「最も近くにいた人たちは、自分たちの近くであったことを語るだけで、この近さにおいて肯定されていた遠いものは語らないし、遠いものはその人の現前がなくなると同時になくなってしまう。私たちが、私たちの語り-パロールによって、私たちの著述によって、不在になったものを維持しようとするのはむなしい」として「あらゆるものは消え去ってしまうしかなく、そしてこの消え去っていく運動を見守ることにおいてのみ、私たちは[亡き友に]忠実であり続けることができる」のだと断言している。では、なぜ語ることができないのか?それは「私たちの近くにいる人が語るときに語られているものとは、この予測不可能なものである」からである。


友愛とは「従属関係やエピソードのない」「共通の外異性の認識を経てゆく」ものであるから「私たちには友人たちについて語ることが許されず、むしろ彼らにただ話しかけることができる」のである。「一言でいえば、我々は追憶することができる。しかし、思考は知っている、人は追憶などしないものだ、と。すなわち、記憶もなく思想もない思考は、不可視のもの、そこでは一切が再び無関心へと落ち込んでゆくもののなかで、既に戦っている。それこそが思考の深い苦しみだ。思考は忘却のなかで友愛に同伴せねばならぬ」。とあるように、人は追憶することができるけれど、記憶も思想も持ち合わせてはいないような純粋な思考そのものは、忘却されていく記憶の中で、その生々しかった経験の、あくまでも遺産として産まれ出てくるということである。思考の欠片は結果として新たに生起されたものであり、相手を失いながら記憶から消えていく経験がその由来だとしても、そこに絶対的な分断がある。つまり思考は追憶できない。そのもの自体を語ることが不可能でありながら、語らざるを得ない切迫により、全く別の新たなものを生成しながらでしか言語化できないのである。




○いかなる言葉で語るのか


では、どのように語れば良いのだろうか。他者や共同体は直接的に描写することができないのだとしたら、死んだ言葉としてのエクリチュールで何を残せば良いのだろうか。デュラスは小説という形態により自身の経験を遠回りして語っている。しかも同じテーマを何度も似たような物語で繰り返し小説にしているらしい。少なくとも明かし得ないのだとしたら、その秘密を謎のままにして、いかなる共同体が望まれるか提示すれば良いのか。ただひとつ言えるのは「書くことは人間の生を、そして世界を作品へと組織する営みを解体する、あるいは営みとしてのおのれを解体する能動的行為である」ということだけなのだが…。


ブランショによれば「書物のうちに閉じ込める」とそれは死んだエクリチュールなのだという。ある存在の全て表現しようとする言葉や体系化に対して敏感でるように見える。この本の日本語訳には訳者の意向で「ビラ・ステッカー・パンフレット」という無署名のテキストが添付されている。「ビラ、ステッカー、パンフレット、際限のない街頭の言葉たち、それが是非とも必要なのは、効果を考えるからではない。有効か否か、それはその時[瞬間]が決める。それらは全てを語らない。逆に全て[とういうもの]を崩壊させる。それらは全ての外にあるのだ。それらは断片として作用し、断片として反映する。それは跡を残さない—痕跡のない仕業・線。あちこちの壁に書かれた言葉のように、それは危険の中で書かれ、脅かしの下で受け取られるが、それら自身のうちにも危険を抱えており、それを人に私、失い、そして忘れ去る通行人と共に消えてゆく。」とあるように、生々しい言葉というのは匿名性と共に風の中に葬り去られる断片でしかない。


宮台真司と仲正昌樹の対談で似たようなことが議論されていたのを見かけたことがある。当時の芥川賞を取った小説がポスト全共闘世代の人たちに人気なことに対して「それを生き生きしていると感じるのは引退間近のご老体の感覚ではないの?」と述べている。「問題なのはエクリチュールの読み手が、あたかも書き手の経験を追体験できるかのような幻想に陥ってしまうことです。これが、デリダがエクリチュールの問題として指摘していることです。現代人はなぜか主体性の問題に関心を持ちつつ、生き生きとした経験からなる世界を求めている。しかし、生き生きとした経験というものはあくまでも瞬間的なものである。言葉という他人から与えられたものを媒介として、他人にわかるように語って仕舞えばその瞬間に体験そのものは文字によって死んでしまう。」「ドゥルーズの本に『差異と反復』がありますね。この本には、差異というものは、自分で作るものではなく、どこからやってくるものだと書かれています。二回目にやってくる時には不可避的に純粋な「差異」ではなく「反復」になっている。「生き生きとしたもの」を求める人というのは、大抵「反復」してしまう。あるときに、生き生きとした体験があった。それをもう一回やってみようとする。とはいえ、その体験自体はエクリチュール化して死んでいるのですから、生き生きとした感覚を再現できる可能性はない。しかし、再現しようとする本人は、エクリチュール化されたことに気づかないので、生き生き感を再現できていると錯覚する。」我々はそのような勘違いを超えて語らなければならないのである。


ところで、自分の失恋を言語化しようと試みることがあるわけだけど、どうにも途中で書くのをやめてしまう。同人誌を書くとなったとき、ついでに書いてみようかと思ったけれどついに無理だった。単純であるが故によくある話になってしまうし、書き始めて少し経ってから、複雑な心の動きの機微をそのまま読者に伝えることが不可能だと気がついてしまう。相手の詳細も知らない人に、その人とのやり取りをどれだけ表現したところで共感などしてもらえないような気がして、その時の感情を言い表す言葉が全どこにも存在しないような気がしてしまう。伝達可能な形態に集約される言葉では分かってもらえない。かといって詩やその朗読や演劇みたいな表現手法も何か気を衒った感じで違う。その度、思い出の中に仕舞って少しずつ忘れていくしかない運命にあるのだろうと悟らざるを得ない。あるいは文字ではなく、終電後の真夜中、繁華街の端にある小さなカウンターバーのような場所でこぼれ落ちるような、でもある種のネタとして語るようなやり方でしか、あるいは誰かの辛い気持ちに自分も共感するような態度を取るための話題としてしか、きっと話すことができない。その夜のコミュニケーションも、家に帰って昼過ぎまで寝ていれば二日酔いと共にその記憶は消えていく。即時的な他者とのやり取りの中にしか現れない気がしている。共同体の経験を語るのはコミュニケーションが生じている瞬間の他には不可能なのだと思っている。そのあまりある関係の過剰さは名指そうとしたら失われてしまうが故に言語化不可能であり、言語の枠組みを超える過剰さが人をおかしくさせ失敗を運命付けているのだ。


共同体はなぜ語り得ないのかについて、フランシス・マルマンドは「あらゆる意味において口に出せない〔明かしえない〕ものである。それは、過剰のために逸れるように、まず、告白というものから逃れる。共同体が身を守るために、告白に身を委ねるのを拒むからというのではなく、告白が、共同体を消滅させるものだからである。告白は、秘密ではないようなその秘密と、宣言されるべきではないその絆を消してしまう。この絆は、それを妨げるもの、つまり恋人たちの耐えがたい過剰や、死を与えられることにおいてもっとも強烈に明かされる。」と解説している。もし、共同体について何か書いたとして、それで満足してしまうようなことがあれば、それは友愛への裏切りである。


また、主体のあり方も問題だ。それを語ろうとするときには時間的なズレがある。過剰な他者体験に揉まれ差異に晒された自己解体のさなかでいまの自分も過去の自分自身ではなくなっているという主体のずれもある。そして、内部に入り込むと対象として観察できなくなり、逆に対象として見ると内部から閉め出されるため、語るということは原理的に不可能となる。相手が不在となる共同体の内部にいながら、それでも忘却されていく相手への友愛に敬意を払いながら言葉にするのなら遠回りにならざるを得ない。その死から遠ざかる度に友愛は強く明かされる。


○展望を提示できないのはなぜか


制度として持続し得ない、形ならざる、その場限りでの共同性が、理性では把握できない言語化できない創造を育んでいく。ブランショは具体的な手段や目指すべき方向を提示していない。コツのようなものはあるにせよ、他者と関わるときの完全な方法論というものはない。理性から逃れてしまうが故にマルクス的な展望の提示ができない。別の社会形態、共同体の在り方を想定しつつも全て当初の予定からは裏切られた形でしか実現できない。目の前のさまざまな制約を受けながらも超えていくしかないのである。その先に何が現れるのかは誰も分からない。真に創造的なものは、計画することができない。


例えば、なぜ学校において教員が必要なのかの理由の一端がそこにある。学校教育法や学習指導要領では決まり事として守るべき最低限のルールとして定められている事項がある。しかし、制度の解釈と運用は現場に任せられている。その時どきの目の前にいる人間によって変わっていく対応もあるだろうし、その枠組みに則っていながらも、杓子定規的な対応はせず柔軟に教育活動を行なっている。他に変えられない、他の組み合わせでは立ち現れないようなリズム感のようなものが大事であり、それをどう扱うかが問題となる。人工知能にはその機敏な対応はできない。箱物と規則だけでは対応しきれない創造性があり、教員の仕事をマニュアル化することは不可能であるということを意味している。その学校には伝統とされる行事があるかもしれない。しかし、その伝統は演出された伝統であり、確実に少しずつ毎年変わっていくものでもある。我々が伝統だと解釈する伝統であり伝統そのものではない。有為とされる社会的生活の営みの中で無為と共同性を見出すことはできる。「3年後にほぼ全員が卒業することが確定しているにも関わらず、本来の学校の目的である学業以外の生徒の連帯を行事で促すのはなぜか?なぜ共同性を求めるのか?」という問いそのものがその答えとなる。少なくとも不可能ではないとはいえそうだ。どれだけ魂をこめて執筆していようが教科書は死んだエクリチュールにより構成されている。学ぶ者に理解への動機がないからだ。そのコンテンツを蘇らせるのは教員の現前性であり、相手の目を見つめながら飛ばしあうキャッチボールのような生きた言葉で引き出すしかない。目の前の人間が語る言葉の無視し得なさが教室を行き交う。


○SNS時代における共同性


ブロックされることが自分の悩みの種になっている。携帯を持っていなかった時代を思い返せば、「人間関係はなんらかの要因によって常に切れ続けるのが当たり前」だっただろうから、これは現代特有の問題として考えるべきである。相手の意思なのか、それともタイミングや運が悪かったのか不明瞭なまま思い出になって終わる切なさが今はない。ブロックは相手の人生の中でお前は不要であるという宣言となる。再度どこかで繋がれる可能性が失われている。人間関係における可能性の消失、それは他者の死である…。だから極端なこと言えば、自分の手で行えば殺人だ。とはいえ「繋がっているかもしれない」ということには自覚することのできない重みがあり、ある意味で足枷のようなものでものにもなり得る。


頻繁に誰かをブロックすることが友好関係を狭めているのは間違いないのだけど、新しく誰かと出会うのって簡単な時代なので、色んな人に会いまくって感覚の合う人だけを取捨選択しているだけで本人はさほど困っていないはず。しかし一方で恵まれない者には人間関係の幻想に基づく執着がある。この人でないとダメだ、唯一無二の存在である相手を失いたくないという諦めきれない気持ち。どこまでが本当なのか怪しくなってくる。いや、もっと関わるべき人間を積極的に選んでいるのであれば説得力があるが、その場合は1人の人間に囚われないだろう。


人格の唯一性をビッグデータとして統計学的に処理をし、唯一無二の他者性を計算可能なものとしてしまったこの時代に、偶然であるが故の必然性をどこに見出せば良いのだろうか。アンソニー・ギデンスが「純粋な関係性」と呼ぶものに近い関係がSNSにはあるのではないかと思われる。「社会的・経済的生活の外的諸条件に依存せず、そこから浮遊して当事者の自発的な意思によって結ばれて、その関係が満足を与える限り続けられる関係」のことを指している。しかし、それに付随しているであろう「関係解消の不安」と「関係構築のための負担がもたらす不満」という2つの問題が生じる。


問題が起きるのは「近づきすぎたとき」である。仲良くなりすぎ、好きになりすぎ、会いすぎ喋りすぎ…。最大限のリーチがどこまでなのかって条件次第のはずなのに無理やり突破しようとするからおかしなことになってしまう。近づけば近づくほど遠ざかる他者に飛び込んでいく無防備さも肯定されて然るべきではあれど、これは死に向かうことでもあり自傷行為のようなものであるのは間違いない。そうやって自己解体されていく。結果的にそうなってしまうのだ。たまに思い出して連絡とる程度がちょうど良いのかもしれないといつも考える。でも、既にある近さと過剰さがそれをさせてくれない。それでも我々は相手の懐に飛び込み失敗する。絶対に敗北が定められているのが分かっているのにも関わらず。あくまでも個人的な感覚でしかないけれど、せいぜい「過去に通じ合えたという瞬間を共有しているだけの関係が、呼びかけに応じて再度集結する程度の、その呼びかけがかろうじて届く程度のつながりを生成するための手段を技術的な観点から模索する」くらいに留めておきたいものだ。そうでなければ自分は耐えられない。

○参照文献


・モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』(訳は西谷修でちくま学芸文庫より)

・マルグリット・デュラス『死の病い アガタ』(訳は小林康夫と吉田加南子で朝日出版社のポストモダン叢書より)

・明石雅子「マルグリット・デュラスの『死の病』と 『青い眼、黒い髪』における愛と語りについて」

・ブロードウェイ・ブギウギ モーリス・ブランショ「友愛」(https://note.com/b_boogie_woogie/n/ne901471867f3)

・ひろば研究室別室 「ブランショ「友愛」について(あるいはそれをきっかけとして)」

(https://blog.goo.ne.jp/derkleineplatz8595/e/c02b0c1bdd2f95db23476a7587f06927)

・フランシス・マルマンド 「パスワード」 (郷原佳以による訳で『リーニュ』1990年9月号ブランショ特集所収)

・宮台真司 仲正昌樹『日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界』

・ジャック・デリダ『死を与える』(訳は廣瀬浩司と林好雄でちくま学芸文庫より)

・宮崎裕助「決断の瞬間はひとつの狂気である」(『死後の生を与える』岩波書店に掲載されている論文)

・七邊信重「 「純粋な関係性」と「自閉」 」 (ソシオロゴスNo29に掲載の論文)

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