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自信がない日に読む話

小学生の頃、同級生の男子たちにこぞって嫌がらせを受けていた。会話をしてくれないとか、廊下であからさまに避けられるとか、私が一度袖を通した給食着はきれないか、とかそういう嫌がらせだ。1人首謀者がいたのだ。小学5年生の野外学習のとき、班長だった私は、掃除の時間に一番のりで集合した特典に、掃除する場所をどこでも選ぶことができた。私は一番楽な廊下を選んだ。他の班の班長だったその首謀者は、一番最後に来たから残り物のトイレ掃除をする羽目になった。きっかけはそんな小さなことだった。いや、もしかしたら他にも理由があったのかもしれない。小学生の頃の記憶なんて曖昧だし、もしかしたら私はその男子にとってもひどいことをしたのかもしれない。私が覚えていないだけで。子供のころなんて、そんなもんだ。画して、私はその男子と、その取り巻きに嫌がらせされるようになった。

年頃の女子グループも面倒なもので、いつも一緒に過ごすグループにはやっぱりリーダー格の女がいたし(今何をしているかはしらない、確か舞台女優を目指してなんやかんやしていたらしいが、メディアで見かけたことは一度もない)、毎日学校に通いながらも、結構しんどいこともたくさんあった。無視されたり、無視しないといけなかったり。本当にバカみたいだけれど、多分多くの人々が通る道なのだ。そして通り過ぎると、くだらない世界だったと気付ける。
とにかくその頃の私は、自分の中に、自分を肯定できる要素がほとんどなく、人の心を動かせるほどの才もなく、見た目にもまるで自信がなかった。自分は「ブス」で「デブ」なんだとずっと思っていた。そのくせ好きな男の子に告白してふられたり、自意識が変な方向へいったりきたりしていたのだ。

高校は女子高に行った。男子がいないから幾分過ごしやすいと思いきや、塾に行けばやっぱり男子がいたし、女子高にもド派手な女たちがいて、その子たちが近所の男子校のやつらと付き合っただのなんだの話を聞いていると、やっぱり私は「ブス」で「デブ」なんだと心底思った。私には誰も言い寄ってきてなどくれない。男子と会話するとき、会話「してくれている」という意識がずっとこびりついていた。
クラスで仲のいいと思っていた友達に、「修学旅行の班は、●●と作るから、ハレは別の班に行ってくれる?」と言われたとき、私の心はギリギリと痛んだ。他にいくところがないことを知っているくせに。結局、班の人数の上限が変更になって、私はその子と、その子の友達と6人の班構成になった。どんな修学旅行だったか、あまり覚えていない。
誰も私を好きになってくれないんだな、と思った。ギリギリ「進学校」と呼ばれる高校で、そこそこの成績ではあったから、なんとか自分を保っていられた。映画や本も好きだったから、1人で映画館に映画を見に行ったりもしていた。活字や音楽は、人の心のよりどころになるのだ。
仲のいい友人も何人かいて、映画に行く前に、二人で近くのうどん屋さんでカレーうどんを食べるのがお決まりだった。喜びや楽しさはあったけれど、やっぱり自分は「ブス」で「デブ」だったし、自分が処女を失うところもなんて絶対に想像できなかった。私はずっと一人なのかもしれない。

初めての彼氏ができたのは大学1年生の夏だった。浪人をしていて、年が3つも上の人だった。かっこいいと思ったのだ。いろいろあって、4年くらい一緒にいたけれど、正直いって何も語りたくはない。申し訳ないが、今になって本当に時間を無駄にしたのだと悲しい気持ちになるのだ。その人は悪くない、ただとことん相性が悪かったのだ。私の時間が奪われたのと同時に、私はその人の時間をも奪っていたのだから。ちなみにその人は、私たちの共通の知人と結婚し、子宝に恵まれている。おめでとう。

大学生になって、私はようやく気付きだした。「世の中には変わった感性の持ち主もいる」ということだ。それはつまり、「私みたいな女でも恋人にしたいと思えるやつがいる」ということである。こんなことを言うと、今の夫に怒られてしまうかもしれないが、当時の私にとってはそれは革命的な気付きだったのだ。何人かの男と遊んだりなんなりすると、少しだけ自分に女としての自信が生まれた。風が吹けば飛んでしまうような自信である。ただ今の私なら断言できる。

「男によって得られる自信など、たかが知れている。本当の自信とは、自分自身の中から生まれるものだ」

ちょっとそれっぽい言葉でごまかしてみたけれど、とにかく自信とは、異性に対してどうこう、というよりも、「対人関係」すべてにおいて有効であるべきと思う。例えば、仕事で本当はちょっと苦手な人と商談しなくてはいけないときとか。今回ばかりは失敗できないプレゼンのときとか。もちろん仕事でなくてもいいのだけれど、とにかくそういう「私は絶対に大丈夫だ」という思いを持てるかどうか。それが「自信があるかどうか」なのだ。

そのためにできることが、私の中ではまずは「外見を取り繕う」ことなのである。第一子を出産し、でっぱったお腹がひっこまない私が言うと、意味がわからないかもしれないが、それはつまり「自分に似合った髪型にして、自分に似合った化粧をして、自分に似合った色と形の服を着る」ということである。これは技術とかセンスとかの話ではなく、「私って最高!」と自分が思える選択を、自分でできているか、が重要なのだ。案外世の中に「私って最高!!!」と思えている人間はそう多くない。多分、無意識にできることではないのだ。「なりたい自分を明確にイメージして、そのイメージに近づくために自分の人生を前に進める」それは、やろうと思った人間にしかできないのである。

さて、話があっちやこっちに行ってしまったが、私は最近やっと、自分に似合う髪型をしたり、化粧の仕方を覚えてデパコスを買ったり、自分に似合う色の服を買ってみたりしている。靴がボロボロになってきたら、きちんと新しいものを買うとか、日焼け止めをしっかり塗るとか、本当にそういう小さなこと。私もなりたい自分を言語化して、そこに向かって積み重ねていきたいな、と最近明確に意識出来るようになった。自信がなくて、自分を卑下してばかりだった頃に比べると、世界は幾分、明るく生きやすい場所になったのだ。

自信を持とう、自分の人生なんだから。
今からだって、私たちは何者にだってなれるはずだから。

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