アンチプラトニックラブ

好きだという言葉はあまりに便利なので
僕らはしばしば好意の全てを十把一絡げにして
好きだよ、なんて
パッケージだけはやけに凝ったバレンタインチョコレートみたいな言葉を投げあっては
封を破り捨てた中身がどれほど甘いのかについて
真剣な顔をして吟味している。

投げた身からすると、手を離れた言葉と
自分を突き動かす熱量があまりにも乖離していて
本当はそんなもんじゃないんだ、とまた
すぐに別の言葉を探しているのだけれど
どうせそれに見合ったものなんて見つからないので
仕方なく補い合うように僕らはキスをする。
(無論、それで事足りないのならSEXするしかあるまいよ)

人間は時に粘膜接触を過信する。
愛があるからキスをするのではなく
愛のために
それを守るように僕らはキスをするのだ。

ここで思い出して欲しいのだけれど
そもそも十把一絡げの(つまり玉石混交の)
真実も偽りも嘘も見栄も体裁も
ごった煮にされたような感情の終着地点が
今ここに(つまりホテルのベットの上とか、海の見えるレストランとか)あると言うことは
幸福も後悔も恨みも嫉妬も
それは言葉としてでは無く
あくまでも粘膜の記憶として
残酷にも、多分一生忘れることは無いのであって
そしてそれを

運命でした
とか
奇跡だった
とか
赤い糸で結ばれた
とか

とにかく都合の良い言葉にすり替えていなければいけない程には
僕らは愛に懐疑的なままだ。

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