見出し画像

生きづらさに気付かなかったマイストーリーVOL.3

「もうー!!いいかげんに泣きやんで!!」

ワンオペが続いた
産後2ヶ月のある日の夜

わたしは
泣き止まない長男がいる
バウンサーを力の限りゆさぶった

倒れそうに傾くバウンサー

いつ着替えたかどうかわからない
マタニティパジャマの裾に引っかかり
大事はまぬがれた

3日前に洗ったきりの頭をかきあげながら
わんわんと泣いた

母乳育児推奨 
真っ只中

吸わせれば出るようになる
ミルクをあげることは悪

そんな時代だった

いや そんな風に思い込んでいた

努力して報われないことなんて絶対にない

価値観を揺るがす存在を
かわいいと思うことはできなかった


入職〜結婚・出産

わたしはできる

そう思い込ませ
関西でも名の知れた大きな病院に
エスカレート入職した

当時の就職した病院は
成績上位者から
重症度が高く、忙しい外科系に
配属される仕組みで

晴れて外科に配属された

やっぱり わたしはできる

そんな自惚れを持ち
「がんばります!!」
とやる気満々で看護師の扉を開いた。

だが
すぐにそんな自惚れは
打ち砕かれることになった

なぜならば

ズッコケルくらい

仕事ができなかったのだ。

こんなはずじゃなかった
と何度思ったことか

わたしだけじゃなくて
周りの先輩、上司はみな思っていたと思う

仕事ができなかった
いちばんの理由は

受け持ちの患者さんのことだけ
考えていればいいのに

先輩に好かれたい
仕事ができると思われたい
早く終わらなければ怒られる

そんな気持ちで働いていたから。

受け持ちの患者さんの
処置の時間が迫ってきているのに

早くできる自分になって認められたい!

経験したことのない処置見学に手を挙げる

先輩!わたし頑張ってますよ!
のアピールのために
先輩の受け持ち患者さんのナースコールに
積極的に出る

何もできない1年目のナースが一番やっては
いけないこと

常に前述の気持ちで働いているから

目の前の患者さんとの会話は上の空
常に感じる焦り
雑な行動
(患者さんの湯呑みを
割ってしまったこともあった)

地に足のついていない
1年目のナースは
ミスばかり起こした

看護学校時代の世界観
「周りはみな敵 けれど 役に立つと思ってもらえると味方に翻る」
=「役に立たないわたしは価値がなく、生きる意味がない」
を持ち続けていたから
負のループになってしまっていたと振り返る

けれど

どんな理由があろうと
いのちを預かる現場でミスをすることは
許されることではない

1年目のとき
受け持たせていただいていた患者さん
には申し訳ない気持ちでいっぱいになる

わたしが患者なら
人の顔色ばかりみる
我がままな看護師には
看てほしくない

どれだけの人がフォローしてくれたか
どれだけの人に迷惑をかけたか

叶うなら
時間を戻して
やり直したい


環境が変わった

2年目で新設の病院に異動になったのだ

外科経験者というだけで
「できるナース」
という扱いになったわたしは
(実際はできないナースだが)

周りの人の顔色を見る必要がなくなり
業務に慣れてきたことも相まって

やっと目の前の患者さんに集中することができた

患者さんのことを考え
一緒に笑ったり泣いたりする時間は
尊かった

そして

自分が知識をつけたり
手技の練習をしたりすることで
患者さんをすこし幸せにできることがわかった。

必死に勉強した
必死に練習した
患者さんに痛い思いはさせたくない

自分の足に駆血帯を巻いて家で何度も練習した

やっと看護が大好きになった
天職だと思った

そんな熱いナースだから
患者さんに不利益になることがあれば
ドクターだろうが構わず怒鳴り込んだ

患者さんにのめり込みすぎて
一体化してしまっていたんだとおもう

若かったな
自分に酔ってたな
すこし鼻が長かったな
と思うけれど

患者さんを思う気持ちは嘘ではなかった


そしてそんな熱く
鼻の長いナースは

20歳から付き合っていた夫と
24歳で結婚した

25歳で第1子を産む計画をしていたからだ

若く産み育て40代で仕事に没頭する計算だった

(計画にのってくれた優しすぎる夫には
感謝しかない)

出産まではそれはもう順調だった

初産なのに陣発から3時間
分娩台にのって
2回いきんだら産まれてきてくれた

これから
悪夢のような日々が
待ち受けているなんてことをつゆ知らず

無事に生まれてきてくれたことに
心から安堵した


抱っこでしか寝ない子だった

入院中の母子同室から
一睡もできなくなった

母乳が出ている感覚がせず
ミルクを足したかったけれど
助産師さんに叱られる

同期に頼んで
こっそりミルクを持ってきてもらった
(勤務する病院で出産したので、産科にも同期がいた)

乳首は切れ血がでていた



ここから自分責めの毎日がはじまる

母のすすめで
布オムツを使ったら
ひどいおむつかぶれを起こしてしまった

母に
「また泣いてるやん。足りてないんじゃない?」
と言われるたびに
捻れるような感覚になった

母乳がでないなんて母親失格
わたしができることは何にもない

完全に産後うつだった

母はそんなわたしを励まそうと

「そんなちっちゃなことで
クヨクヨしてたらこれから先持たへんで!」

と叱咤激励した

そうか。もうダメだな
わたしはこの先やっていけない

一生逃げられないんだ…
と思った


そして冒頭へ

虐待
産後うつによる自死

は人ごとではない。

誰もがなりうる

がんばることを価値としている
できない自分を責めてしまう

一見キラキラして
順風満帆にみえるひとほど
リスクがたかい

優しい夫と
少しずつ笑顔をみせてくれる長男のおかげで

わたしはすこしずつ回復した


そうは言っても
育児を楽しむ
まではいかない

毎晩1時間おきに起きる息子
泣き声を聞くだけで
泣きたくなる

外に働きにでている夫が
うらやましくてうらやましくて

わざと汚部屋を作った

帰ってきた夫に
「あなたが仕事に行ってる時
わたしは育児に追われて片付けもできなかった」
とアピールするために

そして
家に閉じこもって
育児している場合じゃない
私には待っている患者さんがいる

とうぬぼれ

生後半年で復帰した

そして
ありがたいことに
2人目
3人目
と恵まれ

「わたしは止まっていない」
「動き続けられている」

を証明するために

育休のたびに
医療系の資格をとりあさった



勢い止まらず
認定看護師になった

教育機関には
看護部長や院長の推薦がなければ入れない

受けさせてもらえることが
誇らしくて
報われた気がした

患者さんへの思いと
そこにぶら下がっている
ブランドバッチを得るために
寝る間を惜しんでがんばった

かわいい盛りの子どもたちを放置して



ゆるがないキャリア志向


認定看護師として
働きはじめると
さらに
ふわふわと
地に足がつかなくなった

まいにち夜遅くに帰宅し
家でも持ち帰り仕事ばかり

一緒に寝たいと言う
子どもの声も聞かず

パソコンに向かい続けた

組織人たるもの と

イエスマンまっしぐらで
まいにち過ごしていた

完全にキャパオーバーだった

「最後まで完璧にやり遂げる」
ための努力は
自分が生き抜く術だった

今となっては
何をそんなに怖がっていたんだろうと
思う

思っているよりも世界は冷たくないし
周りはみんな敵ではないのに

けれど

そのときの私にとっては
「頑張らなければ抹殺される!」
くらいの恐怖感が備わっていた

そんな世界観のフィルターの中にいるから
息切れしていることにも気づかない



ふと言われた何でもない言葉が
棘のように突き刺さる

ジェットコースターのような
浮き沈みのある感情に覆われていた



退職を決意

追われるように
毎日を過ごしていた

とある日


当時大好きだった雑貨に
積もったホコリをみて

イライラが止まらなくなった

そして
溢れたモノたちを
一気にゴミ袋のなかに押し込んだ

ゴミ袋は合計40個

何もなくなった部屋にいると
心が洗われた感覚になった

もしかして

何にもいらないのかもしれない

と思った

子どもたちを放置してまで
何にしがみついていたんだろう

幼いころから抱え続けてきた
ブランドバッチ

これいる?

やっと気づいた

38歳だった

退職から現在まで

晴れて退職をむかえた

退職を決めたときの
まっさらな気持ちから
時が経ち

またわたしの悪いクセが出始めていた

「ビジネスで成功しなければ!」

ビジネススクール
ビジネスセミナー
名刺に書くと箔がつく
資格をとりあさった

そしていざ集客!
では尻込む


そんな尻込む気持ちを
何とかしなければと

心理学を勉強した

自分のこころの仕組みを知ると
生きづらかったことに気づいた


努力することで
やっとこなしてきたわたしは
生きづらいなんて
思ったこともなかった


徹底的にワークを重ねて
凝り固まった世界観が
180度かわった

「周りはみんな敵」
「できる私じゃないと抹殺されてしまう」
そんな世界観で生きてきた私だったが

「周りは暖かい人ばかり。
もしも冷たい人がいても大丈夫」
「できる私じゃなくても
何にもできない私でも大丈夫」

と安心感で包まれるようになった

以前だと棘になった言葉も
今は何にも刺さらない

がんばらなくてもいい
と気づくと
いとも簡単に呼吸ができることがわかった

呼吸さえも満足にできていなかったことにも
気づいていなかったのだ


自分の全てに
OKをしてあげられるようになったら
焦りがすっと消えていった

すると
自然とお客さまがきてくれるようになった

自分を満たせていると
溢れたものを人に与えることができる

いままで自分に当たっていた焦点が
相手に向くようになった

自分がどう思われるか
よりも
目の前にいる人に幸せになってもらうには
どうすればいいか
という思考に変わった

そして
「じんわり幸せ」を叶えるためのメソッド
暮らしケア®️が誕生した

以前のわたしと同じように
生きづらさに気づかず
頑張り続けているあなたへ

ジェットコースターのような
感情に覆われるのではなく

どんな自分でもOKにしてやり
まいにち「じんわり幸せ」
を味わうことができれば

大切なひとをもっと大事にすることができる

そして
一人でも多くの方に連鎖することで

わたし自身が経験した
いじめや
虐待の連鎖
を断ち切ることができるのではないかと思う

大それたことはできないけれど
少しずつ
すこしずつ




最後まで読んでくださった方が
いらっしゃいましたら
感謝してもしきれません^^

幼少期からずっと持ち続けてきた認知の歪みに
40にしてやっと気づけました
そして今のわたしを作ってくれた
過去の自分には感謝しています


このお話しが
息を切らして頑張り続けているあなたの
お役にたてるとうれしいです^^



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?