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【長尺】睡眠導入用朗読台本 【フリー台本】

こんにちは、はれのです。
今回は、
・睡眠導入配信や音声作品用に1h以上の朗読作品セット
を作ってみました。(過去作の詰め合わせではありますが)
女性をテーマにした作品になってます。第二弾として、男性テーマにした話も載せる予定です。
眠れない夜のお供にどうぞ。感想も頂けるとうれしいです。


規約


※改変自由です(公序良俗の範囲内で)
※商用利用の際は一報お願いします。(TwitterID @g_zcl)
⇒この場合の商用利用は、音声作品としての販売にあたります。動画共有サイト(youtube等)への投稿は連絡不要です。ただし連絡頂けると嬉しいです
※自作発言はやめてください(どこかにこちらのnoteへのリンククレジットお願いします)
※動画で投稿された場合、朗読者一覧としてリンクを貼らせていただく事があります

【本音症候群】

本音とは

本音は包み隠さず話すべきだ。

常日頃、真梨子はそう思っていた。

1

困った。
中堅メーカーの営業マンである三村は目の前の状況に困惑していた。
仕事帰りの彼を一軒家の自宅玄関で待ち受けていたのは、妻だった。
花柄のパジャマ姿で三村を迎える真梨子(まりこ)。異常だった。
幼なじみだった三村と真梨子との関係は結婚3年が経過し、落ち着いていた。
恋愛結婚だったが、仕事が忙しくほとんど妻の相手ができていない。
彼女は寝間着のままだらしなく微笑み、ギュッと抱きしめてくる。
妻は言った。
「あっ、まーくんだあ。おかえり!ね、ぎゅってしよ、ぎゅっ」
妻のぬくもりを感じた。そういえば、ひさしく妻を抱いていない。
いつもなら、家人の帰りなんて待たない。
早く帰って顔を合わせても、ふあー、と嫌そうに厄介者を見るように伸びをし、テレビの電源を切る。
二階の寝室に向かう捨てぜりふはいつもこうだ。
「あ、もう帰ってきたの。……もう寝よ」
はあと三村は肩を落とす。

これがいつもの三村家の日常であった。
だからこそ、今日の妻は変だった。
「真梨子、一体どうしたんだ?」
真梨子は顔を上げ、彼を見つめて……にっこり笑った。
「だって、ぎゅってしたかったんだもん。まーくんのギュー欲しーよ」
だもん!?
真梨子は媚びた言葉遣いが嫌いだ。
他にも、抱きしめて欲しいなんて付き合っていた時ですら言ったことない。全体的にツンツンしている。
「まーくん、はやくはやくー。でね、その後」
「なんだよ?」三村は言った。
「まーくんとチューするの。えへー、チューだ。私、まーくんとチューするために生まれてきたの」
おい、正気か。
三村は頭を抱えた。劇的に変わった妻になにか思い当たる節があったか。考えを巡らせる。
そして、一つの特異な感染症を思い出す。
まさか真梨子は『本音症候群』に罹ってしまったんじゃないだろうか。
2人は病院へ行くことにした。

2

A大学病院内、『特殊感染外来科』診察室。
設立当初は真っ白であったろう壁面も、経年劣化によって所々汚らしいオレンジの斑点がちらほらと見えた。
アルコール消毒液の匂いが少々黄ばんだカーテンにまで染み込んでいる。
鉄製の丸椅子には白衣の医師、三村と真梨子が座っていた。真梨子は三村の腕に絡みつく。
まるで初彼氏ができて、恥ずかしい位周囲にアピールする少女のようだった。
医師は淡々と診断結果を伝える。
「これは典型的な言語的非心因性発話衝動症候群ですね。世間ではわかりやすく『本音症候群』と呼ばれている感染症ですね」
「やっぱりそうでしたか。けっこうテレビでも話題になっていて、私も妻の様子からこちらの感染症にかかったと思いまして」
言語的非心因性発話衝動症候群。
別名、『本音症候群』。
今だ感染経路が不明なこの病にかかってしまうと、思った事を口に出してしまう奇怪な病。幸い重篤な障害や命に別状はない。

ただし、今まで話せていなかった本音をしゃべってしまう事で、社会生活で大きな障害となってしまうケースが多い。
 
なにより、治った後で本人にとって、一生消し去りたい黒歴史となる。
妻の診断を受け、三村はホッとした。
「薬出しておきますので、奥さんは安静にしていてください。くれぐれも過度なストレスは与えないように。まあ一週間ほどで快癒するはずです。それと、三村さん」
「はい?」
「この病気、感染力が強いので……気をつけてくださいね」
「わかりました」
こうして、三村と妻の真梨子は薬をもらい、病院を後にした。
「じゃあ、まーくん。約束守ったから、あそこにいこ」
三村は苦笑した。

3

ギギギギ。金属同士の擦れが、ファンシなーメロディと共に2人を空へ運ぶ。
2人は今遊園地内の観覧車に乗っていた。
真梨子がここに行く代わりに病院を我慢すると言ってきかなかった。
「まーくん、病院行ったよね。約束のチューだよ」
そっぽを向く。
この観覧車に乗る前に、周囲からの好奇の視線で三村は耐え難い苦痛を感じていた。
真梨子がキスをねだるなんて、付き合う前も付き合った後からもなかった。
「やだよ」
「うえ……ぐすっ。チュー、まーくんの唇がいいの。柔らかくて、キュンキュンするの。誰も見てないよ」
真梨子はべったり三村にくっつく。

メリーゴーランドに乗ったりもした。
とても恥ずかしいポーズでプリクラをとったり、金に余裕があるのにクレープを半分ずつにして食べあったりも。
三村と真梨子は40と少しの年月を生きている。
十分な大人だ。
その図体の大きな2人が、小学校高学年のはっちゃけた修学旅行のように、恥も外聞も捨て楽しむ様は……残念ながら注目を浴びた。
「あははー、まーくんたのしいよー」真梨子は豚型のマスコットキャラクターに抱きついている。
「あはは」三村は作り笑顔しかできなかった。
これで病気が治るなら仕方ないかと無理矢理納得させた。
しかし、真梨子の病状は治るどころか悪化していった。

4

来院から一週間後。
医者からの病状悪化の診断に、三村は納得いかなかった。
「んー、悪化してるなー。このままだと、2年・3年……もしかしたら一生治らないかもしれません。旦那さん、奥さんに何か大きなストレスを与えてたりしますか?」
「そんなことありません。今だって、会社に無理言って早めに帰ったりしてるんですよ。それに、」
とかねてからの疑問を三村は医師に訴える。
「どうして、妻は……その子供みたいな、幼い振る舞いばかりするんですか?私もこの感染症の書籍等読みましたが、あんな症例書いてませんでした」
ふむふむと、医師はうなづく。なぜかにやりと笑みを浮かべる。
「三村さん、確か問診票に『甘えたことなどない妻の異様な行動』って書いてましたよね」
「ええ」
「なら、簡単ですよ。奥さんはあなたに甘えている、それだけですよ」
三村は当惑した。
「どういう事ですか?」
「わかりませんか……じゃあ、たとえば三村さんが今までやったことのないスポーツをやるとします。もし、三村さんがほとんど運動しない人だとしておきましょう」
「はあ」
「まずは形からということで、三村さんは見よう見まねで、素振りをしたり、サーッ!とか得点する時に叫ぶとかするじゃないですか」
「それは卓球少女しかやりません」
「たとえです。つまり、奥さんも同じ状況なんですよ」
「妻も卓球で世界を狙えるんですか?」
「狙えません」
「はあ」何言ってるんだこいつと、三村は心の中で悪態をつく。
「おほん……、まあね、奥さんも病気を通して、はじめて人に甘えようとしてるわけです。おそらく、人の頼り方というのも不得手な方なんでしょう、あなたの奥さん。それが理由かはわかりませんが、甘え方を知らない人間が脳内でイメージした『甘え方』を必死であなたに行なっているんでしょう」
「そうなんですか。またつまらない冗談でも言うつもりですか」と三村は思ったことを口にした。
「さぁ、実際にそうなのかは私にもわかりません。ただ、もう少し奥さんを見てあげることが完治への一歩だと思いますよ。私の経験上」
別れ際、医師はにんまりと笑った。そして、ボソッとつぶやいた。
「旦那さんのあの感じ……もしかして、発症している?」
結局、三村はアドバイスをすんなりと受け入れられなかった。
あの遊園地の帰りから、彼は我慢に我慢を重ねて、妻の機嫌をとる。ただし、真梨子は夜の夫婦生活については遠慮した。
あまりにも幼い妻の対応に、そういう気など毛程も感じなかったのだ。それ以外はおおむね、妻の言うことは聞いた。
その成果が悪化だったなんて。妻のぎこちない『甘え方』なんて知るか。
三村は苛立ちながら妻と共に病院を後にした。
今思えば、そんな自分の様子に妻はうんざりしていたのかもしれなかった。

5

「はあはあはあ!くそっ、真梨子はどこに行ったんだ!?」
大学病院へ再院して次の日の夜。
白のブルゾンを着た三村は、右手に真梨子の置き手紙を握りしめ、真梨子の行方を追っていた。
『探さないでください。この一週間でまーくんがあたしのこと、嫌いなんだってわかった。だから、まーくんとバイバイしてお家に帰ります。さよなら、まーくん』
居間のテーブルにこの置き手紙が置かれていた。
そばには妻の携帯があった。
三村は葛藤する間もなく、家を飛び出した。こんな危機だからこそ彼には、わかった。
真梨子は自分にとって欠けるなんて考えられないくらい、当たり前で大切な存在だということに。
三村は奔走しつつ、彼女の実家へ連絡をかける。彼女の病気については、事前に話してあった。
しかし、当該人物は家に帰ってないとの事だった。
義両親は嘘をついてる様子でもなかったので、三村は真梨子がいそうな場所に片っ端からまわることにした。
だが、探し回っても一向に彼女の行方はつかめなかった。深夜帯になり、体力も落ちてきた頃、ふとけばけばしいディスカウントショップが三村の目にとまった。
トイレにでも入ろうか。
そして、ふと彼はある大切な事を思い出した。

6

「ありがとうございましたー」
元気な店員の声を後に、三村は店を出た。
ディスカウントショップで買い物を終えた三村は、もう一度彼女の手紙を読んでみることにした。
携帯のライトでじっくり読んでいくと……彼はびりびりと全身に衝撃が走った。
一つの事実。
真梨子にはお家が2つあったのを思い出した。
「真梨子の生家か!」

三村はタクシーを捕まえ、真梨子の生家へ向かった。

7

「あれ、なんでまーくんがここにいるの?」
明かりのない、真っ暗な古ぼけた空き家の前で、真梨子はきょとんとする。
三村は当然のように言った。
「真梨子と離れたくないからだよ」
えっ?と三村は自身の発言に驚く。
彼はこの空き家こそ、真梨子が幼少の頃を過ごした場所であり、幼なじみの彼との出会いもここだと説明するつもりだった。
だが、どうしてか言葉が出てこなかった。
「えっ、ホント?」真梨子がそばに寄ってくる。
「ホントだよ。照れ臭いけど、真梨子の事離したくないんだ」
「嬉しい!でも、」と突然彼女はストップした。
「どうしたの、真梨子?」
「なんで、いつもの時に言ってくれなかったの。あたしね、さびしかった。まーくん、仕事の帰りが遅くてさ、最初はご飯作って待ってたのに……電話で食べて帰ってくるって事がほとんど毎日になって。好きなのに、まーくんの事嫌いになっちゃったの。だから、嫌な事もしたくないのに、やっちゃったんだ。仕事が大変なこと、わかってるから正直に辛いこと、話して欲しかった」
三村は思ったことをそのまま言った。
「そうだったんだ……俺、仕事でいっぱいいっぱいだったんだ。繁忙期入って一層忙しくなって。本音なんて、真梨子に言ってもどうしようもないだろうなって思ってた。だけど、心の底では言いたかった、辛くてしんどくて仕事やめようとも考えてるってことを」
真梨子は笑った。爆笑しながら、泣いていた。
「はは!あたし達……似た者同士だね。ちっちゃい頃から、ずっとそう思ってたけどホントそっくり。不器用で甘え下手」
「そうだな」気づいたら三村も目頭が熱くなっていた。
「仕事も人間付き合いも下手くそ。でも、大切な人の為に……必死で探したりできる心の優しい人なんじゃないかなって思う。ねえ、これからもよろしくお願いしてもいい?」
三村は返事のかわりに、真梨子を抱き寄せキスをしようとした。
「待って!粘膜接触しちゃうと、あたしの病気うつるよ」
それでも、キスをする。
三村は言った。
「気にするな。もう伝染(うつ)ってる」
彼は二度と離れないように、ギュッと彼女を抱きしめた。

後日談

と、熱烈なシーンを2週間前に繰り広げた2人だったが……病気が完治するとまた元の生活に戻っていった。
以前に比べお互いの話をし、夫婦の仲も深まった。
しかし、劇的な何かは生じていないせいか真梨子は少し退屈していた。
日々の仕事として、淡々と台所で料理。
夫はあれから本音はあまり言わなくなった。
なんとなくさびしい。
そんなとりとめのないことを考えながら、いつものように食器棚をあけると、小さな箱が出現した。
箱を開けてみる。そこには……指輪が入っていた。
指輪に添えられたメモ用紙にはこう書かれている。
『今日が僕らの4回目の結婚記念日だ。これからも、ずっと愛してるよ』
真梨子は泣いた。


本音とは

本音とは包み隠しておくべきだと、三村は思った。
(了)

【その手紙は届かなかった】

お誕生日おめでとう。
びっくりしたでしょ、1年以上先の日に郵送する有料サービスがあったのよ。
そちらの季節は夏になるのかな。
あなた、元気にしてるかな。
こうして、自筆の手紙を書くなんて生まれてはじめて。
でも、今回筆をとりました。
理由は電子データで残すと、あなた以外の人が見てしまうから。
後、お願い。
この手紙を読み終えたら誰にも見せずに燃やしてほしいの。

頼むから読まずに手紙を食べたりしないでね。
でもあなたならやっちゃいそう。
あ、まあ職務に真面目なあなたなら……多分大丈夫でしょう。
その役目はあなたしかできない。
だってこの手紙はあなただけにあてたものなんだから。
この手紙を読んでいる一年後のあなた。
元気でしょうか?
元気なら、今から私の正直な思いを綴ります。
私の汚い感情をです。
私は汚い人間です。
あなたの不幸を心底望んでます。

現にあなたが死ぬほど見ている、紙の便箋にしたためたから。
それは、私からの精一杯の嫌がらせに過ぎないからです。
ざまーみろ。
仕事に支障が出てしまえ。
あなたには幸せになって欲しくありません。
私の事を逐一、どんな時も思い出して欲しいです。
何回でも泣いて欲しいです。
苦しんで。
失った悲しみでいつまでも沈んでいて欲しいです。

だってそうでしょ。
あなたはいつも屈託のない笑顔で私に接して。
優しい眼差しで私を見守って。
あなたはほんとうに素直な人。
私の心にノックもしないで上がりこんできた。
あなたが勝手に住み着き始めて。
あなたのぬくもりで、私の絶望していた心が気持ちよく溶けていきました。

ねぇ、あなたも。

私みたいに余命半年の、手術の成功率が30%を切っている、難病にかかれば良かった。
私は難病にかかる前から、色々な病気で伏せっていた。ほとんど、外に出かけたことなんてなかった。
両親から有り余るお金をもらっていても、一人きり。
親族も誰も見舞いにこなかった。
真っ白な病室は透明な牢獄そのものだった。
そうだ、あなたも一人きりだったね。
ただ私と違うのは、親が早くに亡くなって本当に1人になってしまったこと。
でも、あなたはいつも明るくニコニコ。
ネットでの性格そのままなんて。
素敵な笑顔だった。
明日は必ずいいことあると、真剣な目で私を見つめるから。
ネットで知り合って、こんな出会いができたなんて……私にはもったいないよ。
だけど、あなたに会わなければ良かったと思うの。

あなたに会わなかったら、きっと未練なく死ねた。
病気のせいで、もうなにもかもどうでもいいと思っていた。
そんな私に『外の世界』を教えてくれたあなた。
ほんとうにほんとうに。
あなた、残酷だよ。恨むよ。なにより、ずるいよ。
もっともっと、生きたくなってきちゃったじゃない。
まだ見た事ない景色を一緒に眺めたい、と思ったじゃない。
まだまだあなたと喋りたいのに。
唇が触れ合う以上の事もしたいのに。
あなたとずっと一緒にいたいのに。
だから、あなたの不幸を望みます。
私のいない場所で、嘆き悲しんでください。死ぬまでそうして下さい。
随分長くなりました。
私から生まれた汚い、激しい思いを伝えました。
生きるか死ぬかの手術の前日だからね。ごめん許して。
でも、どうしてかな。汚くて、醜い気持ちなのに涙がこぼれます。
ずっと止まりません。

あ、わかった。

あなたのこと、愛しているからだ。
やっぱりあなたには幸せになってほしいな。
だから、読み終えたら、便箋を焼いて空に還して下さい。
私への返事は、それで必ず届くから。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 と、筆圧の薄い便箋を丁寧に読む者がいた。便箋の文字が涙で汚くなってしまう。
 それでも、読む事をやめなかった。不意にヴァイブレーションの音が室内に響き渡った。
 スマホの画面は恋人の名前。元難病の女性は勢いよく病室から飛び出した。

 彼女は走った。自筆の手紙をコートのポケットに入れて。
 ふらつきながら、『外の世界』に迷いながら郵便局に向かった。理由なんて一つ。奇跡的に手術が成功し、その1年後に退院が決まって、1番に連絡がきたから。
 この、どうしようもなかった気持ちを手紙で伝えたかったから。

 何度も道を間違いながら、彼女は遂に郵便局へ到着した。郵送の窓口へ進む。手紙を握りしめる。
「あっ、愛衣ちゃん」窓口の男性は微笑んで言った。
 いつもと変わらないニコニコ。その笑顔が引き金になった。
 彼女はずかずかと愛衣の恋人である従業員に近づき、抱きしめる。
 彼女は言った。
「誕生日おめでとう。大好き!」
「ありがとう、僕もだよ」
 抱きしめた。手紙はポケットに仕舞われたままだった。

『その手紙は届かなかった。』
(了)

【楓さんは世界で一番紅茶を愛している】



「うーん、何かが違う」

お日様の和やかな光が、木造二階建てを包み込みます。
店の玄関口辺りには、うねうねと蔦(つた)が上にのぼるような深緑のらせん階段が、静かに店の壁に寄り添っています。

深茶のねこのしっぽがはみ出た、ティーコジーを取ってみると。

開き始めの花の香りがします。うん、紅茶の匂い。

今、私はおいしくなる紅茶の淹れ方をしているんですが……。

「あらっ、いい匂い……店の『ひとやすみ』ね」
私よりもちょっと年上の人が、優雅に近づいてきます。
楓さんです。
くすっと楓さんが笑いました。

ところで。
『ひとやすみ』ってなんだと思いますか?

正解はブレンドティーの名前です。このお店オリジナルなんです。

茶葉専門店『坂のさか』のオリジナルフレーバーティー、『ひとやすみ』です。
フレーバーティーというのは、簡単に言えば茶葉に香りをくっつけた茶葉のこと。
代表的なフレーバーティーはベルガモットという精油を加えた、アールグレイ。また、茉莉花の花の香りをつけた、ジャスミン茶が有名です。
「そうなんですけど、楓さんみたいな香りができなくて」

とても、いとおしく、優しすぎて涙がでてしまうくらいそっとさわるんです。
「それはそうよ」
「えっ」
「だって、加奈子(かなこ)ちゃんは加奈子ちゃんだから。紅茶ってね、一つとして同じ紅茶なんてないの。だから、当たり前だけど私と加奈子ちゃんは全然変わってくるの」

優しく言っているようで、なんでなのか私には鋭く突き立てたナイフに感じられて。

それって、楓さんに憧れている私には一生無理と言われたようで。

「私は、楓さんみたいに優雅に紅茶を淹れて、店を切り盛りしていきたいんです。
楓さんはそういうつもりで言ったわけじゃないのはわかります。

けど、そんなふうに聞こえてしまうんです。聞こえてしまったんです」

受験勉強に失敗して落ち込んでいた私、奥山加奈子。

そんな時、楓さんの紅茶に出会って、人生の苦くておいしい味を知ることができた。それから、勇気を出して楓さんの弟子になって『坂のさか』で働き始めて。

いつも優美で、穏やかな楓さんに憧れていつかなりたいと心の底で思っていました。

「加奈子ちゃん。紅茶を飲み終えたら、ちょっと外に出かけてみましょう」
「えっ、お店は?」私は戸惑う。早く一人前のティーマイスターにならなくちゃいけない。その練習を切り上げてしまう。
嫌だ。
「今日定休日じゃない。それに、面白い場所に連れてってあげるから。ね、加奈子ちゃん」

花丸をつけたくなるような楓さんの笑顔に、私もつられて微笑む。

こころがやわらかくなる。

楓さんは楓さんな人。

笑顔を絶やさない人。

いつも楽しんでいる人。

三ノ宮で有名なティーマイスターな人。

楓さんは世界で一番茶葉を愛している人。

楓さんは世界で一番茶葉に愛されている人。

突然泣き出した私に優しく、私の話しを聞いてくれた人。

あたたかくて、とても素敵な人。

合わせると、楓さんは規格外な人。

「んー、三ノ宮の下り坂って降りるとき、とてもいいのよ。加奈子ちゃんは?」

「へっ?」

「じゃあ、三ノ宮をぶらぶらしてみましょう……きっと見つかると思うから」

うーんと、楓さんは息を吸う。
夏の陽気と嗅いだことのない変わった空気を感じる。

いつもと同じ嗅ぎなれた匂いなのに、楓さんといると新鮮で新しい気持ちに変わってしまいます。

「見つかるって、いったい何なのですか楓さん」前方で坂を上ってくる、日傘の婦人さんをよけます。

「秘密」また笑顔。

てくてくと私達は閑静な住宅街の坂を下ります。

白のキャンバス。

楓さんは、北野坂の高そうな中華料理店がある道を通らず、ふらふらと何度も曲がり歩いた。

私も後についていく。

坂に腰かけているみたいに、ちょっぴりかたむいたふうに見える家々は、ギリシャのミコノス島を思い出します。

楓さんと坂を下りながらぶらぶら歩き、さんぽを楽しみます。

しばらく歩きましたが、ちょっと疲れたので二人でカフェに入って休憩をとります。

白を基調にしたカフェの内装に、妙にほっこりしてしまいます。

木目のテーブルとイスに、腰をかけてちらりと楓さんは振り向く。

「加奈子ちゃん、なにかいいものを見つけられたかしら」

なにか。
見つけられたような、そうじゃなかったような。

楓さんには正直に伝えたい。

「よくわからないんです。もしかしたら、今の自分にはなにがいいかわるいかなんて、良し悪しなんてわかるはずないかもしれなくて」

「本当にそうかしら。加奈子ちゃんは、わかってると私は思うの。そうじゃなかったとしても、そんな日はいつまでも続かないわ。
ねえ、加奈子ちゃん。もう少しだけ、三ノ宮を回ってみない?きっと、楽しくなると思うから」

優しく、丁寧に櫛(くし)をいれるように、楓さんは言う。

心の中があたたかくなる。いつのまにか、あたたかくなってしまった。

「はい」あれっ、気付かない内に声が元気になっている。

さんぽの再開。

庭木の葉っぱの穏やかな揺れで、和やかになってふと下をみると、アリが列を作って歩いていて。

どうしてだか、気持ちが豊かになったような気がしました。

私は空を見上げている楓さんに話しかけます。

「楓さん……気持ちいいですね。ありふれた景色なんて、本当はここにも、どこにもないんですね」

「ええ。その様子だと……加奈子ちゃん、見つけられたみたいね」

「はい。私、早く早く一人前のティーマイスターになりたくて。ならなくちゃいけなくて、焦って……紅茶も、お茶も、なにも、楽しむことがなくなってました」

楓さんはふふっとほころばせる。
「加奈子ちゃん、私もそんな時あったわよ。今だって時々。どうやったらおいしい紅茶、中国茶、日本茶ができるかって、買い付けができるかって、悩んじゃってね。
でも、悩んで、悩んで、前に進めなくなっちゃったとしても……
今思うと、どれも大切な事だったと思うの。
お茶とおんなじで、おいしく淹れられた日とそうならなかった日もあるわね。全部つながっているのよ。
だから、加奈子ちゃんの気持ちは悪いとかいいとかじゃない。どれも必要でとても大事なものなの」

「でも、楓さん。いつまでも同じことを繰り返してるのは、良くないですよね。それでも、私は頑張りたくて……」

「大丈夫よ。加奈子ちゃん、とびっきりの頑張り屋さんだもの。
加奈子ちゃんにはもっともっと広い気持ちで、素直に過ごしていければいいと思う。そうなったら……加奈子ちゃんが楽しくなる」

「私が楽しくなる……」

楓さんはなんの気もなく話す。
「加奈子ちゃんが楽しくなると、全部が楽しくなるわ」

楓さんはとんでもない。

たった一言。
それだけで、私の中の胸のつかえがなくなりました。

つかえがなくなると、今までの三ノ宮の風景や空気を思い出して……自然とやりたいことがわかりました。

私は楓さんに提案します。楓さんは、木漏れ日の光に手を伸ばしていました。

「楓さん、『坂のさか』に戻って紅茶を淹れたいです。楓さんにおいしい飲み物を淹れたいんです」

「ええ、加奈子ちゃんありがとう。なら私はフレーバーティーの『ひとやすみ』を淹れてほしいわ」

「はい!そういえば、楓さんは『ひとやすみ』という名前にしたんですか?」

楓さんは大きく息を吸う。白いリネンのカーディガンが柔らかくなる。

「加奈子ちゃん、ちょっと長くなるけどいいかしら?」

こくりとうなづく。こくりから、楓さんは緩やかな川岸みたいに、流れるように話す。
「お客様に『ひとやすみ』して欲しかったからなの。『坂のさか』って、丁度北野坂の中くらいの所にあるじゃない。
ここの北野坂近辺は、観光目的のお客様もいれば、住まいを持っている人、大学の学生さん達もいるでしょ。自然と坂を上り下りする人達も、多くなるの。そういった人達が『ひとやすみ』できたらなあと思って、名付けたの。
もちろん、いろいろな事情がお客様にはあるし、それを私でどうにかできるなんて考えられないけど……
でも、『ひとやすみ』を飲んでいる時だけ、また他のお茶を飲んでいる時だけでも、ホッとしてもらって休めたらなあって思ったの」

「『ひとやすみ』にそんな秘密があったんですか?」

「変だったかしら?」人差し指の第二関節を下唇につけて、心配そうに楓さんは私にたずねます。

「全然です。その話しを聞けて……もっと元気になれました」

「私もなのよ」

「へっ?」
「加奈子ちゃんの笑顔で、私はもっともっと元気になれたの。加奈子ちゃんと私、けっこう似ているから。人と人のふれあいって、つまりそういうことなのよ」

楓さんが店長代理の店『坂のさか』へ向かう時、ふと私は今日のことを振り返る。

早く、早く、せっつかれるように気持ちがはやってしまって。

坂を一気に駆け上がるのも、駆け降りるのも、大変。

大変で、とても大変だったから、楽しかったことも知らないうちに楽しくなくなっていて。

でも、今はちょっと前方に、一緒に見守って歩いてくれる人がいる。

とんでもない視点をくれる人。

――いやとんでもないのがわかる私も、とんでもない人です。

これから、もっと、もっと、素晴らしいものを見つけていこう。

探していこう。

私はそう思う。

でも差し当たって、一つ素晴らしい心当たりがある。
それは紅茶にまつわる。

淹れたての紅茶の香りにも、味わいも素敵だけど。

多分、きっとそうなのは……飲み終わったティーカップの底。

飲み終わりは幸せで素晴らしいと私は思うから、ゆったりした気持ちで楓さんに『ひとやすみ』を淹れます。

そして、一休みした私にも、『ひとやすみ』を淹れよう。

そうだ。例えばこんな思いつき。

とんでもないって言葉を調べてみるのもいいかもしれない。

楓さんと私は公園を出て、自分のペースで坂を上り始めました。


もうひとつの『ひとやすみ』

ねえ、加奈子ちゃん。とんでもないって言葉の由来、知ってる?
えっ、調べようとしてたの。ふふっ、やっぱり私に似てる。

とんでもないは、『途(と)でもない』が変化した言葉なの。思ってもみない、道理から外れてひどいって意味だけれど、

元々『途』は道のりの意味だったのよ。
頑張り屋さんな加奈子ちゃんから見れば、今日は寄り道かもしれないけど、近道じゃない曲がりくねった道でも、ぬかるんでいる道でも、面白いと思えるなら、絶対楽しいと思う。

あなたが楽しくなれば、すべて楽しくなる。

加奈子ちゃん、おかわりお願いしていいかしら。

大丈夫よ。

きっと、きっと、大丈夫だから。

(了)

【見えないレンズで思い出を視る】

見えていた過去

眼鏡をかけないで。
お父さん。
私があなたにかけたいから。
私があなたに眼鏡をかける。
きまって、あなたは目をつむる。
太い鼈甲(べっこう)の眼鏡(がんきょう)が、白い毛薄い眉によく写る。
眼鏡のフレームは、つるつるしている。光にかざすと、琥珀が鈍く写り込む。
私は見慣れない万華鏡のように、飽きずにかざし続けた。あなたが嬉しそうに笑う。私は何度もやった。
お父さん。

眼鏡をしまって。
眼鏡をかけると、あなたは仕事の鬼に変わってしまうから。
小さな眼鏡店の為、あなたは無理をする。親が残した大事なお店を必死で守っているから。いつも、彼はひょろ長の青白い顔で、帳簿と睨めっこしていた。
怖くて、近寄れなかった。早く仕事が終わればいいのにと、幼い私は神様に祈る。まるで、あばら屋で嵐が去るのを待つように。
お父さん。
眼鏡なんて気にしないで。
それは、偏見という名の色眼鏡のせい。
いつもあなたが言っていることでしょう。

時代遅れ、価格が高い……そんなの、買ってる層が違うだけ。だから、頭をかきむしらないで。眼鏡のツルをかまないで。
でも、夜、座敷の勉強机に蛍光灯のスタンドをつけて、販売計画を練っているあなた。苦心して、険しい目元でつるの先を前歯でかじる様は……悔しいけれど、素敵だった。
ねぇ、お父さん。
眼鏡に優しくしないで。
細心の注意で、眼鏡のネジを巻かないで。
指の腹を見ると、あなたの手の温もりを思い出す。商品なのに、なぜか嫉妬してしまうの。
いつのまにか、冷たいフレームが熱を帯びてきたように感じてしまい……ヤキモチを妬いて、眼鏡を壊したくなってしまう。
でも、お父さん。
眼鏡を壊さないで。
彼には、眼鏡は大切なものであったから。場合によっては、眼鏡は命よりも大切な存在だった。

だけど。
幼い私の精一杯の願いは、叶わなかった。ある日父は眼鏡を壊してしまった。
お父さん。
事業を畳んで、親に申し訳ないからと眼鏡を一生かけないなんて言わないで。
鼈甲の眼鏡も……お父さんの眼鏡をこなごなに壊してしまって……魂がこなごなに砕けてしまったようだった。
娘の私は、いつもみたいに眼鏡をつけてあげたかった。それだけだった。
物覚え着く前に母は亡くなった。気付いたら2人ぽっちだった。だから、たとえようもなく辛く悲しい。
どうにか直そうと手を尽くしたのに……直らない。どうしても直したかった私は……福井の鯖江へ行って、眼鏡の職人になる決意をする。
学校にも行き、認定眼鏡士にもなった。まだ誰もなっていない、完璧な眼鏡修復士になる為に。
何より眼鏡が大好きだった、お父さんの為に。
失ったお父さんの心を取り戻す為だったら、不思議と苦労も全然平気だった。

それから、長い時間がたつ。辛い修行の末に、私は誰にもできなかった修繕……父の眼鏡を修復する事ができた。

見えなくなった現在

眼鏡職人になった私は、お父さんと更地にやってきた。
変わり果てた、お父さんの店の跡地だ。
父は白杖と私の手を支えに突っ立っている。
数年前、お父さんは緑内障で失明した。
目が見えなくなり、今も状況は変わっていない。
私は修復した眼鏡をかける。
父は驚きながらも、待っていた。私がかけるのを心待ちにしている。
耳をピクピクさせていて、愛しいと思った。
ゆっくりと、私は彼に眼鏡をかけた。
「ああ……。この感触だ……かんだ跡のでこぼこもある。懐かしい。……でも、見えないな」
父は、くすんだ琥珀のフレームを触って言った。フレームは優しくなぞられる。
あの頃と同じように笑みを浮かべる。
和む。
でも、真新しいレンズは老けた父と釣り合わない。
「お父さん」いつの間にか、私は涙ぐんでいた。眼鏡をつけてもよく視えない。
「でも……なあ、見えるか。優子(ゆうこ)には見えるのか」
「……うん、見えるよ。お父さん」
私はうなづく。かける前に、何度も確認した。
眼鏡を修復する間、数え切れないほどチェックした。
度の強い父の眼鏡は、レンズを通してはっきりと風景を写し取っていく。
でも、本当に見て欲しかった相手には見えないのだ。
「そうかあ……あっ!」と、目を細めて父はなにもない更地をにらみつけた。
「見える……店が見える!俺達の店、橘眼鏡店(たちばながんきょうてん)だぞ、優子!
白々しいまでの蛍光灯に、店のショーケースがきらりと光ってる。
そうだ……中の眼鏡のレンズが反射して、眼鏡が曇ってるように見えるんだ。
ボーンボーンと柱時計の音も聞こえる。土臭い匂いがしない……当たり前だ。
お客様に気持ちよく買っていただく為に、いつも念入りに清掃したんだからな。優子、俺達の家だぞ」
父と私はゆっくりと、ぺんぺん草の生えない、黄昏(たそがれ)た土地に足を踏み入れる。
私は泣きながら言った。
「私にも見えたよ、お父さん。……私達の家が」
そうだ。

セピア色のレンズで見れば……心の中で鮮やかに見える。
「うん……店先のショーケースには、ひな壇(だん)みたいな、赤い敷布があって。その上に、セルロイドの黒縁丸眼鏡、中段にはステンレスの角眼鏡、奥には鼈甲と竹の眼鏡が陳列されていて……」
ステンレスの眼鏡は今やほとんど出回っていない。
成分の一つのニッケルは、金属アレルギーを起こしやすい。
代わりにチタンやアルミニウムに切り替わったのだ。
ポリウレタンのハイセンスな形状の眼鏡も、橘眼鏡店では取り扱っていない。
だって、その頃には私達の家はもうなくなってしまっていたから。
父は惚れ惚れするように、更地を練り歩く。
彼も本当は見えていないはずだ。
元眼鏡で生計を立てていた人だ。
現実的な水晶体を通しての、視神経の複合的な運動部分はどうしても曲げることはできない。
……でも、私たちには見えているのだ。私への気遣いだとか、そういった甘い物でなく……あのふるぼけたフレームの眼鏡が私と父に見せている。
モノクロからカラーへフィルムに移し替えるように。瞬時に鮮やかに映し出していた。
しばらく父と私は『橘眼鏡店』を、私達の家を歩いていった。
家中を回りながら、父はひっそりとつぶやく。私にも聞こえないくらいに。
「……父ちゃん、ごめん。父ちゃんが一番に大切にしてた店、守れなかった」
私は聞こえないふりをする。理由はわからない。けど、踏み込んではいけない気がした。俯いた父から、涙が溢れていた。
やがて、夕日も暮れた頃、私達は店を後にした。
思い出を一旦心の中にしまい込んだ。
店の入り口……更地の入り口付近で、私とお父さんはしばらくぼうっとしていた。
さらさらさらと、泳ぐように秋風が髪を揺らす。
そんなさなか、父はぽつりと言う。和やかに、温かな笑顔で。
「優子……お前、本当に立派な職人になったな」
また私は泣く。今度は声を上げて、ぐずぐずになる。
ばかっ、ばかっ。
違う。
あんたのおかげだよ。
眼鏡が好きなあんたのおかげだったんだよ。
修行も辛かったけど……あたしもどうしようもなく、好きになっちゃったんだよ。
最初はあんたの為だけだったけど。
眼鏡の事が。本当に。切実に。
大好きになっちゃったんだよ。

「ありがとう、お父さん」そう言って私は父を抱きしめた。彼は驚いている。
父の眼鏡を見てみる。
あれ?と頭の中に疑問符がついた。
どうしてかはわからなかったけれど。

心なしか鼈甲のフレームが、喜んでいる様に感じられた。
(了)

おまけ その手紙は届かなかったの後日談です。


本編

書き出しが思い浮かばないね。
上手く書けない。
考えて書いても書き直して。
また考え直して、また書き直して。
この繰り返しで一つも書き終わる事もなかった。
長い文章が書ける人は素敵だ。
仕事柄、簡単に作れるだろうと言われても、
僕にはできない。
仕事を始めたのも、できないことへの憧れだった。
自分には書けない物を大切な人へ届ける仕事。
誇りをもって働いている。
あの子には、良い人過ぎて騙されやすいとか、もっと押しを強くした方がいいとか、搾取されやすいって言われたけど、僕の名前からして幸せになるんじゃないかと楽観視している。
あの子はとても賢いし素直でかわいい。
僕にはもったいないくらい愛らしい存在だ。
こう言うと、彼女は照れてしまう。
そんな彼女が大好きだ。
うん、これでいい。

母さんが昔父さんとの結婚を決めた秘密が、
父さんへ届かなかった手紙だったそうだ。
心底悩んだらやってみたらいいと言ってくれた。

なんて。
愛衣…………………母の名前。
緑郎(ろくろう)………父の名前。
母さんと父さんの娘である僕が、
似たような事を繰り返している。
奇妙だけど、確固たる縁を感じる。
だけどね。
書かないではいられなかった。
僕にとって大きな出来事が起こったんだから。
でもそのイベントの前にこの事も書いておかないと。
そう、元編集者の僕の結婚についてだ。
大人気作家と編集者なんて、当時では大きな話題。
編集の僕はバッシングを受けて仕事をやめてしまった。
でも、後悔はない。
パートナーとしての二人三脚。
同性同士の結婚も普及はしているけれど、まだまだ偏見も強い。
僕だけなら無理だろう。
でも、彼女となら歩いていける。
進んでいける。
そして今日。
病院できちんと診断された。
体外受精から僕の胎内へうつされた我が子の存在。
元気に動いてるんだって。
嬉しい。
僕達の未来。
今、僕の中でゆっくりと希望が育っていく。
しばらく休んだらまた復帰する。
子供の為だ。
僕も頑張って働く。
そうだね。
やっぱり手紙じゃなく、言葉で言おう。
母さんもきっとそうだったと思う。
迷いながら、自分の意思で行動を変えたはずだ。
どうしてわかるか。
根拠はないけど、娘だから。
なのかもしれない。

僕もそうしたいので、ここで手紙は終わりとする。

……書き上げた手紙をポケットに突っ込み、胎内に新たな生命の胎動を感じる編集者の女性は、愛する作家が眠る寝室へ静かに、しかしゆっくりと着実に向かっていった。

『その手紙は届かなかった』
(了)

備考 もし内容に感動したら、下にギフト機能があるのでコーヒー代待ってます!(今後の制作継続の助けになります)


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