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“ダイバーシティ”が言葉だけで終わらないために必要だった大阪なおみ選手の最終聖火ランナー

今、ビジネスにおいても“ダイバーシティ”の概念が必要だと言われている。
この“ダイバーシティ”という言葉が、カタカナでわかりにくいがゆえに、言葉だけが踊っているように思えてならない。

「外国人を雇用しているから、我が社はダイバーシティに対応している」とか「外国への輸出入を通して世界の人とビジネス展開をしているからダイバーシティに対応している」とか「外国からのお客様や老若男女を受け入れているからダイバーシティに対応している」などなど。

私はこれらは違うと思う。
雇用している側は全ての対応面にて外国人を差別していないか?
過酷な労働環境にしていないか?
日本人と同一賃金としているか?
もちろん外国から輸出入しているや、お客様として外国人や全ての年齢や性別を受容しているからダイバーシティに対応しているわけではない。

本当に同等に扱っているかなのだ。
私は、容姿から「日本人じゃない」と心で思うだけで差別は発生していると思っている。

そして、東京オリンピックの開会式にて大坂なおみ選手が最終聖火ランナーとして選ばれたことは、今回の東京オリンピック開会式での日本の汚名挽回の最もすぐれた演出だと思っている。
・森元会長の女性蔑視発言
・小山田圭吾氏の障害者への虐待した過去とそれを公表しながら被害者への謝罪をしなかったこと
・小林賢太郎氏の虐殺をネタにした経験
これらは、とどのつまりダイバーシティの真の意味を理解していなかったからのものだと考えている。

最終聖火ランナーとして聖火に点灯する役目は、このゴタゴタのあった開会式を大きく払拭するほどの人物でなければならなかった。
そういう意味で大阪なおみ選手ほどの適任はいなかった。

ご存知のとおり、大坂なおみ選手は、人種差別への反対、そしてマスコミのあり方についても意見を述べている。
そのこともあり、バッシングされているが、女性アスリートが自分の主張をして何が悪いのだろうか?うつ病になり試合の途中棄権も選手に認められた権利だ。プロなので、途中棄権したら、収入が減るだけだ。

いろんな意見を受け入れてこそダイバーシティに対応しているのではないか。

今回、大坂なおみ選手の最終聖火ランナーへの否定的意見があまりに多いことに、日本人はかくも心が狭くなったのかと思わざるをえない。
日本はもっと許容範囲が広かったからこそ、様々な文化を受け入れて発展してきたのではないか。聖徳太子の時代から、一時鎖国はしていたが、日本は外国からの文化を受け入れて発展してきた歴史がある。特に明治維新以後は多くの外国の文化を受け入れたからこそ極東の島国において大きく経済発展をしていったのだ。
だとすると、今こそ真のダイバーシティに対応して様々な意見を受容していくべきだ。

日本がこれからも世界への貢献をし、経済発展をしていくつもりであれば大坂なおみ選手の最終聖火ランナーの意味が深まっていく。
ダイバーシティの真の意味がわからなければ、これからの日本は世界から相手にされなくなる。もちろんビジネス面でも・・・。


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