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考えれば考えるほどクソである現実。だから僕は、考えるのをやめた。

僕はこの世界のことが好きです。
しかし、この人間社会のことは好きではありません。

資本主義。経済合理性。自己責任。競争原理。
このような概念が支配する今の社会は、一部の人間にとって生きやすく、それ以外の人間にとって生きづらいと言えます。

では、どのような要素が影響するのでしょうか。
少し整理してみたいと思います。

親の壁(資本主義)

生まれつき、人間は2種類に分けられます。
持って生まれたものと、なにも持たずに生まれたもの、です。

いやいや人間生まれるときは身一つなのだから、なにかを持って生まれてくることなんてあり得ないだろう。はい、そういう意見もあるでしょう。
ですがこれは誤りです。

この社会には、生まれながらにして一生働かずに暮らしていけるだけの富を持っている人間がいます。
そうです、富豪の家に生まれた人間です。

このような人々は、生まれてすぐに収入が入り始めます。
労働者階級に生まれた人間は、このような資本家として生まれた人間のために、一生働き続けなければいけません。

資本主義は、資本を持っている人間が正義です。
生まれた時点で資本を持っている人間と、なにも持たずに生まれてきた人間。
どちらの人間が、その人生においてとりうる選択肢が多いのかは明らかでしょう。

遺伝子の壁(自己責任)

もうひとつ、2種類の人間の話をしましょう。
優れた遺伝子を持つ人間と、そうでない遺伝子を持つ人間です。

突然変異などもありますから、全てが親の責任であるというわけではありません。
ですが概ね、自身の遺伝子が優秀でないことを知りながら(あるいは無自覚に)子供を作った親の責任です。

この社会では、結果を出せない人間は嫌われ、結果を出せる人間がもてはやされます。
なぜならそれは、確率の低い奇跡的なもの、バグのようなものだからです。

考えてみてください、誰もが優秀で結果を出せる人間であるなら、そもそも比較する必要がないのですから、優秀という概念そのものが存在しないでしょう。
突出した結果を出せる人間、つまりそのような遺伝子を持つ人間だけが、社会的に成功します。

いやいや人間努力次第でどんなことでもできるのだから、結果を出せないのは本人の努力不足であり、自己責任だろう。はい、そういう意見もあるでしょう。
ですがこれは誤りです。

生まれつきdisabilityのある人、例えば全く身体を動かすことができない人に対する「お前が車を運転できないのは努力不足だ、自己責任だ」という考え方に正当性はあるでしょうか?
もちろんこれは極端な例であって、disabilityの程度によっては努力で克服できる、あるいは全く影響がない場合もあるでしょう。

ですが、どこからがdisabilityで、どこまでが自己責任なのでしょうか?
適応障害はdisabilityでしょうか? ではHSPは?

結局、ものごとの全てはグラデーションの問題であり、明確に線引きすることなんてできません。
明確に線引きできないのであれば、人類全員がなんらかのdisabilityを持っているという考え方もできます。

そしてこの社会では、明らかに言語能力やコミュニケーション能力が高い人間が社会的に成功します。
この点についてdisabilityを持つ人(あるいは線引きできないグラデーションの中にいる人)は、社会からこぼれ落ちてしまうのです。

学歴の壁(経済合理性)

人間のテクノロジーには多くの欠点があります。
その一つに「客観的に人間の能力を数値化できない」という点があります。

いやいや義務教育というものがあるのだから、その中で明らかに能力は数値化されるだろう。はい、そういう意見もあるでしょう。
ですがこれは誤りです。

そもそも義務教育において数値化される人間の能力というのは、義務教育の先にある、資本主義に適応した人間(もっと言うと資本主義のうち労働者として適応した人間)であるかどうかという一点のみです。
当たり前ですがコミュニケーション能力は全く評価されません。

今の社会では、このようにごく一部の能力しか数値化できません。
ごく一部しか数値化できないのであれば、その部分だけの一点突破で人間の能力をはかるしかありません。

唯一数値化できる「学力」で人間を比較する場合、それは「学歴」で人間を評価することとイコールです。
このとき、実際は学力があっても親の壁によって学費を負担できない場合、又は遺伝子の壁によって物理的に大学に通えない場合など、その他の要因も影響します。

さて、資本主義社会では、資本が全てです。
資本を稼ぎ、資本家に貢献できる労働力を欲しています。

この力がはたらく限り、資本家は都合のいい労働力を欲し、労働力の評価基準として学歴が使われ続けます。
なぜなら他に、人間の能力を評価できるテクノロジーがないからです。

どの壁も越えられなかった人間の末路(競争原理)

こういう人間は、この社会ではとても生きやすいでしょう。

  • 生まれつき資本家であり、働く必要がない人間

  • 生まれつき稀有な遺伝子を持つ人間

  • そこそこの親のもとに生まれ、そこそこの遺伝子を持ち、高学歴を手にした人間

ですが、このいずれにも該当できなかった人間は、一生資本家のための労働力として消費し尽くされるしか選択肢がありません。

資本家になれるほどお金を貯めることはできません。なぜなら、そのような職に就く能力がないためです。
収入を増やすために学びなおすことはできません。なぜなら、そのような遺伝子を持っておらず、また、日々の生活で精いっぱいだからです。

自分ではどうしようもない環境によって、社会的に成功できない属性を付与された人間は、このように競争において蹴落とされるしかありません。
あとはこの中で、死ぬまで労働力(=命)を搾り取られるだけなのです。

考えないほうがいい

これまで整理してきたものは、自分の力ではどうすることもできません。
突破できないのです。

どうすることもできないのであれば、これは自身の課題ではありません。
いくら努力しても現状を解決することは不可能なのです。

そうであるならば、もう考えても意味がありません。
考えても意味がないものは、考えないほうがいいです。その方がエネルギーの節約にもなるし、不快な思いをすることもありません。

長々と書いてきましたが、このような理由から僕はこの「資本主義社会」が好きではありません。
そして、どうすれば豊かになれるのかということについても、もう考えないことにしました。

なぜなら、いくら考えたところで、この社会の中で生きる限りどうしようもないからです。


































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