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[私小説]天使はいずこへ 3.

 受験勉強をまったくせず、哲学書ばかりを読む浪人期間を1年経て、C大学に入ってから2年も経つと、かつてあれほど恋焦がれたOへの情熱を見出せなくなっている自分に彼は気付いた。卒業式の後にOから手書きの連絡先を受け取ってはいたのに、自ら電話をかけることもしなかった。学校の行事でOとクラスメイトの二人が歌う聖歌のピアノ伴奏をした時の写真とそのメモは大事にとっていたものの、なぜ連絡を取ろうとしなかったのかは彼自身にも分からなかった。二度の告白を受け取ってもらえなかった相手がそのようなメモを手渡してくる目的が彼には理解できなかったし、自身の情熱を抑えつけ、不安と期待を往復することが恋心を持続させるのであって、相手の姿を一瞥する機会もなければ、恋心は長続きし得ないのだ。

 かつてあれほど自分を苦しめた嵐が遠のいていき、Oについて想いを巡らせる時間が少なくなっていくことを自覚するのは寂しいことだった。彼女の瞬きすら解釈していた時間がただの記憶へと変わっていく。下宿先のアパートの古い換気扇の前で煙草を吸いながら、胸中からゆっくりと消えていくものを呆然と見送ることしか彼にはできなかった。最初から最後まで彼は嵐に対して無力だった。

 哲学科に進学し、さまざまな小説や詩集を猛烈に読み漁るようになっていた彼は、とあるサイトに詩を投稿するようになっていた。名状しがたき余熱と虚無の予感を明らかにするためだけに書き始めたものだが、それを読んだ他人がどのように反応するかが気になってのことだ。一笑に付されるかもしれない。それでも構わなかった。誰からも理解されないかもしれないが、少なくとも自分は嘘をついてはいないのだから。

 そのサイトでは、気に入った詩にはポイントを付与して、コメントをつけることができたが、彼はどのコメントにも反応しなかった。たとえ好意的に評価されようとも、私的な記憶や感情を象徴的に言語化しているに過ぎず、他人には伺い知れぬ過去を評価されること自体が、それ以上でもそれ以下でもないものを値踏みされるような行為に思えたのだ。しかし、他人の詩は読むようにしていた。もしかしたら自分と似た魂に出会えるかもしれない、そんな淡い期待を抱いて。

  人魚

青く透けた水差しの女の体内を
人魚が遊泳している。
私は踊るように煌めく人魚の姿を眺めていた。
「彼女は一体何を考えているのだろう?」
ふと私は彼女の瞳を覗き込もうとしてみた。
すると、突然!
その瞳から一本の剣が勢いよく飛び出し、
私の心臓を貫いたではないか!
胸元に薔薇の庭園が開かれ、
むせ返るほど花の香りに酔った私は
虹の泡を吹き出す。
なやましき色彩の泡の数々を。
だが、無情にも人魚は空へ泳ぎ去っていき、
女の形骸だけが後に残された。
(フェードアウト)

 Yと知り合ったのはそのサイトを通じてのことだった。黙々と詩を作っていると、ある日、YからDMが送られてきたのである。彼の詩に思うところがあったらしく、少しやり取りをしている内にYの方から「お茶をしませんか?」と誘われた。唐突な誘いを不審に感じ、またネットを通じて顔も知らない誰かと、それも異性と会うことに抵抗があったので、適当な言い訳を見繕って、その時は断ることにした。しかし、結局、数か月後に二人は対面することになった。

 彼は大学の文芸サークルに幽霊部員として所属していたのだが、Yが当時流行していたSNSを通じて彼の先輩の一人と知り合い、W大学近辺の文学カフェで詩の朗読会があるから遊びに来てください、という話になったようだった。それで先輩から誘われる形となり、彼女個人と会うことが目的なわけでもなく、朗読会に興味もあったため、彼は参加することを決めた。ボブカットのYは小柄な上に華奢だったが、憂鬱癖のある彼とは違い、暗い雰囲気を感じさせなかった。

 朗読会自体はステージの上で各人が発表し、それを司会者が一言二言コメントするというものだった。飛び入りで参加することを求められたので、彼は投稿したことがあるものの中で最もポイントを獲得した作品を朗読した。どう評価されたのかはいまいち分からなかった。

 解散する際にYからメールアドレスを求められたので、その時の彼は素直に応じることにした。顔も名前も大学も分かっているし、連絡先を交換するぐらいは何も問題なかった。しかし、しばらくすると「私のような女の子をどう思いますか?」という趣旨のメールが頻繁に来るようになったのである。ほとんど好意の告白であったが、彼は何度かそれを躱した。自分に好意を抱いてくれる実在の異性が存在することに自尊心をいくらかくすぐられはしたが、自信のない彼は明示的でない言葉を都合よく解釈することをしたくなかったのと、Yの好意が真実だったにせよ、5年がかりの狂おしい恋を終えようとしている彼はどうにも情熱が湧いてこなかった。恋は全身全霊で行われる献身なのであって、受け身で恋心を育む術を彼は知らなかったのである。

 そうこうしていると、彼女がW大学を退学し、関西のD大学に入学し直すとかで、最後にデートをして欲しいというお願いをされることになった。朗読会に参加するような気質ではなかった内気な自分を引きずり出してもらえたことへの感謝と、「女の子とのデート」への興味と、異性にデートをお願いできる度胸への驚嘆とで、押し切られてしまった。Yの詩は彼女の哲学への興味に裏打ちされた難解なものだったので、ディズニー映画という選択をしたことには意外な気持ちがした。哲学者はレヴィナスが好きらしかった。

 当日のYは浮かれているように見えたが、実のところは彼の気持ちを盛り上げようとしてくれていたのかもしれない。孤独な幼少期を過ごし、また初恋も受け入れてもらえなかった彼は「カッコいい」「モテますよね?」などとしきりに褒められることに当惑するばかりだった。

 お茶をしながら、大して面白くもなかった映画の感想を述べあっていると、Yが彼の家に「遊びに行ってみたい」と言い出した。彼のアパートからそう遠くない映画館で待ち合わせたこともあり、断る理由も見つけられず、案内することとなったが、六畳一間に書籍が積み重なった狭苦しい部屋で、居心地が悪い気持ちになりながら、しばらく談笑していた。

  透明な死体

僕の部屋はどうしようもなく不完全な立方体でした。
殺殺風景なこの部屋には扉も無く、窓もありません。
お洒落をして外へ出かけようにも、
それは無理な願望だったので、
仕方なく、椅子に深々と腰掛け、
煙草をぷかーっと一服します。
可愛らしい海月みたいな脳味噌にニコチンを与えては、
飛蚊症のように浮遊する映像を楽しく観察するのです。

僕の心は隣の部屋に置いてきました。
壁に聞き耳を立てると、
向こうの方から空虚な響きが聞こえてきます。
笛のように素っ頓狂で、太鼓のように間抜けな音がする度に、
それがおかしくって、おかしくって、
僕はゲラゲラと乾いた声で笑ってしまいます。
だって隣に部屋は無いのですから!

女の子の歌声が椅子の下から聞こえてきました。
僕は彼女の涙のような声に恋してしまい、
熱烈な愛の詩を彼女に贈ろうと思いましたが、
地下室への入り口がどうしても見つかりません。

僕は書きかけの恋文で紙飛行機を折ると、
夜と夕焼けが綺麗に交わるところ、
七つの色鉛筆で描かれた海に向けて飛ばしました。

皆さん、僕は透明な死体だったのです。

「しませんか?」とYは唐突に言った。うぶな彼はまさか自分が性的な欲望の対象に選ばれる日が来ることなど想像もしていなかったし、そんなつもりで招待した気持ちは欠片もなかったから、初めは面食らってしまい、とぼけてしまった。すると「もういいです」とYは悲しそうに目を伏せた。それは彼にとって痛ましい姿だった。Yの望みを叶えてやれるのは自分しかいない。だというのに、自分がYを拒絶しなければならない理由は何なのか。五分ほど黙って考え、やがて彼は「仕方ないよな、仕方ない」と苦笑した。Yの要望を受け入れることは、Oへの義理を欠く行為に思われたが、当のOへの情熱はもう尽きかけている。そろそろ自分も次に進まねばならないのだろう、いい機会だ、と腹を括ったのだった。それに女の性器に触れるのは「初めて」の経験である。興味がないわけではなかった。

 感動はあった。しかし、その感動は、かつて彼がOに抱いたあの情熱と比較してみれば、到底見合わない、いかにも物足りない体験となった。確かに何度も顔にキスされることは心地よいものだ。経験豊富と見える彼女に「リードしてもらっていいか?」と頼み、先方の奉仕に半端な知識で臨んだが、彼は欲望に熱中することができなかった。終始頭が醒めているのである。彼は心臓で恋をしていたのであって、下半身にいきなり用事ができて、それが機能してくれても、「自分は演技している」という感じが頭から離れなかった。(この問題はずっと続くことになる。)また何よりもYの微笑は彼が求めているものではなかった。彼が求めているのは、もはやOのそれでもなかったが、義務感で始めたこととはいえ、もしかしたらという期待がどこかにあったのだ。事を終えて満足そうにしているYに腕枕をしてあげながら「あの情熱の答えが、行き着く先がこんなものなのだろうか?」と彼は小さくないショックを覚えていた。Yがじっと黙っている彼に「何を考えてるの?」と問うてきても「余韻に浸っていた」と嘘をつくしかなかった。

 Yを駅まで送り届けた直後に受けとった「彼氏だと思っていいですか?」というメールに「そこまで言っていただけるならお願いします」と返したところ、たくさんのハートマークで装飾された文が送信されてきた。新しい生活が始まるのだろうか。ともかく先方の情熱に応えると言ったのだ。失望は自分の都合ではないか。心は鉛のように重たかったが、彼はそう自分に言い聞かせ、理性的に情熱を動かすことを始めようとした。

  痴呆症の春

道端の菫がいきなり抱きついてきて私に接吻した!
突然のことで目がくらみ、息をするのもやっとだったが
浮かれきった菫は私の反応なんか一向気にならない様子で、
可憐な頬を野性的に爆発させながら酒宴に私を誘った。
春が馬鹿騒ぎをすると知ってはいたが、ここまで恥知らずなものだったとは!
大気の果てまで染み渡った情熱に向かって、貞淑を説くのもアホらしい。
ここは一つ、じゃじゃ馬の求愛に応え、酒の大滝を浴びるのが男の務め。
酔いどれよ、たとえ故郷への帰り道を忘れても、君の胸には春がある。

 Yが関西に引っ越しをしてから、何度目かの電話で「向こうで男に言い寄られ、付き合うことになった」という話を聞かされることになった。積極的に関係を乞われた身としては「自由奔放とはこういうものか」と苦笑するばかりで、ショックはまったく受けず、どういう経緯で言い寄られることになったのかの詳細を問い質すこともなく、彼は静かに別れを受け入れた。

 ところが、しばらく時間が経つと、今度は「やはり好きなので寄りを戻したい」と連絡が来たのである。「それならば戻っておいで」と関係が復活したものの、五月一日のことだ。Yのブログを読んでいたところ、指輪の画像とともに「メイデーに婚約した」という内容の記事が更新されていたのである。婚約した覚えはなかったので、何かの文学作品を受けてのY流のレトリックだろうと、その時は無邪気に判断した。

 しかし「結婚することになった、惑わしてしまって申し訳ない」という連絡が来るに至って、彼は傷つくこととなった。以前に言い寄ってきた男が本気だったようで、求婚されたらしかった。しかも、彼のことを「浮気相手」と男は認知していると。理解の姿勢を示し、幸福を祈る返信はしたが、なぜそのような不実なことができるのかが彼にはまったく理解できなかった。恋は命がけになるものであり、そんな風にどっちつかずの態度など取れるものなのだろうか? 傷つきはしたが、あくまで信義の問題であり、彼自身の情熱が拒絶されるかどうかの問題ではなかったから、受け流すことはできた。しかし、その事件は彼の心に小さな楔を打ち込むことにはなった。

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