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[私小説]天使はいずこへ 1.

 それ以上遡ることができない最も古い記憶がある。プールサイドの側溝で水をパチャパチャと叩いているというものだ。それは2歳前後のことで、彼の創作ではなく、親に確認した上での記憶である。ポルトガルへ旅行した時のもの、ということだった。過去をそのまま追体験するかのように鮮明に想起しようとする自己観察癖のある彼にとっても、以降の記憶は途切れ途切れであり、最古の「性的な記憶」となると、もう少し歳月が経たねばならなかった。

 4歳ぐらいの頃、当時ドイツのハンブルグに住んでいた彼の家に近隣の日本人家族が遊びに来たことがあった。ちょうど同い年の女の子が二人、また別に姉弟がいて、姉は彼よりも2、3歳年上であった。親たちがリビングで歓談しているところ、彼の両親の寝室で子供たちは「お医者さんごっこ」をしたのだ。どういう経緯でそうなったのかまでは思い出せないが、彼の記憶に間違いがなければ、その姉が彼の下半身を裸に剥き、ペニスを色々と触られたのだった。当時の彼は彼女がなぜそのような行為をしたがるのかが分からなかったものの、性器を触られるくすぐったさは決して不快ではなかったので為すがままにさせた。

 次の性的な記憶は夢の中の出来事である。彼は高熱を出すと、必ず予兆として胸に疼痛を覚えたのだが、ある日、その予兆通りに高熱を発し、眠り耽っている時のことだった。彼は「悪夢」を見た。それは次のようなものであった。窓も電灯もない通路を彼は歩いている。何故か彼にはある程度見通しが利いた。しかし、彼は背後を振り返ることが出来ず、また彼の足は勝手に歩を進めていた。やがて、何かもやもやした、黒っぽい影が通路の向うからやってくる。それは、視界の端に映る物のように、明確な輪郭を持っていなかった。影は、彼の脇を通り過ぎると、微かに聞き取れる声で囁いた。その内容は定かではなかったが、恐ろしい呪いを秘めた脅迫には間違いなかった。彼は微かに不安を感じた。その不安を無視しながら、彼の足が勝手に進んでいくと、今度は先ほどの影よりも少し大きい影とすれ違った。その影も、聞き取れぬ囁きで彼に呪いを投げかけるのだった。しばらくすると、またもや先ほどの影よりも大きい影がやってくる。影とのすれ違いが繰り返されればされるほど、影は肥大化し、呪いの囁きも意味不明な絶叫と化した。巨人が耳元で囁けば、怒鳴り声となるように。爆発的に高まる恐怖の予兆に耐えられなくなると、先ほどまでの陰鬱な通路の印象が一転して、彼は眩い光に包み込まれた。そして、ふと気が付くと、目の前に見たことのないほど美しい女性(具体的な姿は分からず、ただ美の強烈な印象のみが与えられていた)が佇んでおり、彼を抱擁せんと、両手を広げて彼の方に近づいてくるのである。彼はその正体を理解することが出来ず、また痛みに近い解放感のため、恐怖のあまり大声で泣くしかなかった。現実の彼も大泣きしており、何事かと心配した親に起こされ、それが夢であったことに初めて気づいたのだった。

 その他に思い出される性的な記憶となると、これまたポルトガルに旅行した時のことだ。小学二年生ぐらいの出来事だろう。ホテルのプールサイドの白いプラスチック製のチェアにて、サングラスをかけた若い白人の女性が上半身を晒しながら、日焼けをしていた場面に遭遇したことがあった。それは彼が初めて見る大人の異性の乳房であった。この時点での彼は自慰の存在すら知らず、なぜ自分が女性の裸体に関心を抱いてしまうのかを理解できなかったが、タオルで顔を覆い隠し、わずかな隙間から裸体を覗き見た。面識のない赤の他人をマジマジと眺めることは不躾であると感じられたからというより、「乳房に関心を持っている」と相手に知られることは躊躇われたがための覗き見だった。

 彼が精通を経験したのは偶然からだった。小学六年生になった彼は下半身にムズムズするような違和感を覚えるようになっていた。自室にいる時、いつぞやのお医者さんごっこを思い出すかのように、時折ペニスにあれこれと刺激を与えてみることがあった。柔らかいそれが硬直することを発見しており、悩ましいむず痒さの終着点を探していたのだ。そのような実験に勤しんでいたところ、突然、ペニスに強い刺激が走った。最初、彼はペニスを怪我したのかと思った。彼の経験上、その刺激は痛みに類するものだったからだ。爪か何かで引っ掻き傷が出来たのかと、慌てて手を放すも、やがてじわじわとした快感が下半身から突き上げてきて、それは勢力を増しながら彼の全身に陶酔をもたらした。時間にしてわずか十数秒の出来事だったかと思われるが、彼は強い動悸を覚えながら、呆然としていた。余韻に耽るというより、性的な知識を皆目持ち合わせていなかった彼の身に何が起こったかのかが、ただただ分からなかったのである。数日後だったろうか、彼は再度あの出来事が偶発的な代物だったのかを確かめようと、前回のようにペニスを刺激してみた。すると、前回よりやや弱くなっていたものの、やはり同じような陶酔を得られることが確かめられた。そうしてパンツの中で銀色に光るシミを発見した。ここに至って、彼はこの仕組みが生物としての肉体に備わったものであることを理解した。しかし、人生の秘密を覗いたような気がしてはいたが、仕組みから目的に思い至るまでには、やはりもう少しの歳月を必要とした。当時の彼は同級生の異性の誰々を可愛いと感じる感性を持ち合わせてはいたが、恋はしたことがなく、それどころか——後年になってかつての同級生から聴かされたことだが——保健体育の授業で射精の説明がなされた時、大きな声で「知っている!」と叫ぶような始末であった。

 性に厳格な教育方針があったわけでもないが、その後も彼は性の知識を得る機会に恵まれなかった。手掛かりとなったのは、精々、親が読んでいた週刊誌中にあるグラビア、また大人たちの夜の事情を扱ったコラムぐらいで、そのコラムを読んだところで、辞書もなしに外国語を学ぶかのように、彼には意味が判然としないのだった。ところどころの箇所が虫食いになっていたためもある。たとえば、ヴァ〇ナやク〇トリスといった用語はおそらく女性の身体のどこかを指し示していることまでは推測できたが、そこが一体どこなのかは分からぬままなのだ。大人たちはあの陶酔について何か知っている。が、素知らぬ顔をして生きている。それだけは分かった。その頃の彼は女体への関心の高まりに比例して、人並の羞恥心を身に着けており、かつて保健体育の授業で叫んだような真似を繰り返すことはせず、敢えて大人たちに問い質すこともなかった。

 より正確には性どころではなかったと言ってもいいだろう。身体を動かすことが好きだった彼は、日ごろの無茶な運動がたたり、疲労骨折による脊椎分離症を起こしてしまった。そのために何年か運動を禁じられることとなった。その頃の彼の鬱屈については割愛するが、年ごろの少年が運動を禁じられることで、友達と一緒に遊ぶこともできず、仲間外れになる機会が多く、——またそれが同時に性の知識を仕入れることを妨げた——、やがて彼の感傷的な孤独癖を育てることとなった。

 肉体の成長は女の方が男よりも早い通り、彼は次のような場面にドギマギさせられたことがある。クラスメイトの女子生徒たちが休み時間に風船で遊んでいた時のことだ。「これが何か知ってる?」とニヤニヤしながら彼女たちは聞いてきた。その態度が挑発的な文脈であることは理解したが、まさかコンドームで作った風船ということにまでは思い至らなかった。その使途どころか、単語すら知らなかったからだ。しかも、彼女たちがお互いの誕生日に「エロ本」(彼は見たことがなかった)をプレゼントし合っているという事実を知るに至って、性というものが何だか得体の知れないものに思えてきてならなかった。肉体が期待することと、それを心理的に受容することとの間に断絶を感じていた。

 恋心のようなものを見出すようになったのは、脊椎分離症の治療が完了した中学二年生の頃だ。彼はいくらか明るさを取り戻し、クラスでおどけ役を買って出ることがあったのだが、彼は自分がある後輩の女子生徒Tに特別な関心を寄せ始めていることに気付くようになった。小学校から中学校含めての生徒数が百人もいない小さな日本人社会だったため、授業によっては学年が違う者同士でも顔を合わせることがあり、自分が何か冗談を言う度に彼女が笑っているかどうかを確認するようになっていたのだ。むしろ、その笑顔を見るためにふざけていたと言ってもいいだろう。Tが自分の道化芝居に笑ってくれることには何かどうしようもないもどかしさがあった。もちろん彼はTの笑顔を求めていた。しかし、その質は彼が本当に求めているところのものではないという感じがした。彼は彼が望む本当のものに永遠にたどり着けない。そんな予感がしてならなかった。

 ともかく、この頃からだ。彼の中で「天使」の問題が芽吹き始めたのは。

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