「デミウルゴス処刑裁判」試し読み

2021 4・1~ 原 智広 



 あの眩い天使たちが、神的な事柄について照明してくれる限りは、私はまた、光の内に神的な事柄を体験することが出来よう。人間たちはもろもろの視覚の対象から、すなわちもろもろの光滅から切り離された。見るものたち、体感するものたち、存在するものたち、あなたたちは遠く離れてひれ伏さなければなるまい。真に神秘的な不可知の闇を、本来人間が知覚し得る自然的な能力を閉じてしまったからだ。あまりにも「もの」が見えすぎるというのは、すなわち「不可触と不可知」の渦の中で、感覚出来得るというもの、精神たる欺瞞を超えて、我々が本来息すべき場所であるということ、すべての存在者を超越しているということ、このもろもろの絶対否定を通じた、云わば肯定は理性の諸原理から出発するものではない。あからさまに明解な、この抒情詩を通じて、心には豊かさを、言葉には切り刻まれた本質を、物質には本来の意識を、到来させ、導き出す諸結論を明らかにしつつも曖昧模糊とし、知性を屈服させる、自然的現象のあの光に喩える他はあるまい。神の不在と、天使の照明、肉体と霊魂の結合と、つまりは造ったとされる主体がいかなるものかを、被造物の本性は最後の異論の照明であるから、この共通不可能性、単独性、品位を帯びる以前の世界は存在する前に存在するであろう、人間が存続することではなくて、むしろそれとは真逆な、ではなくて、それを超えた第三の様態による霊的な特殊な照明で、事物の創生である、普遍性をもつ蓋然的な理性的認識をあらゆる観点から棄てたもの。つまり、超越的叡智。霊感を受けることと光の降臨の同一性を浮かび上がらせる。この寒々とした生命による気配は、訝し気に宗教の主体化を軽んじるものであるが、中断されることのない云わば感受性と宗教的省察が教会の分離により、美的な創造性の開花を促す。カリカチュア的に、幽霊のような死者たちの復活の懇願は、化学的事由や経済的事由により、つまり人間世界を存続することによって、屈服されもしたが、本質的にはそこに由来し到来する審美を錯乱してはならない。在るままに、見るままに、信ずること、それは不動なき我々が体感した第三の目となりて、骨格はレントゲンを、肉体は受難を従えつつも、我は目覚めりと視覚、聴覚、あらゆる五感を働きかけ、半眠半醒で夢遊病者のように、本来あるべき姿、形、風景であるものを見出すのだ。私が導きそして去る者、蜃気楼の中で、信ずるに値する情念、天がいささか重くなりますれば、いつしか私も消えよう、あの子たちはまだ眠っている、共同墓地を渡って、水飛沫が死ぬる体感機能に撥ねて、あなたたちのために苦しむこと、そこにありて本質は眠り、死のうと今日も願う、陰鬱なるヒステリー、独創的でも何でもない普遍をぶつくさと語ること、人生は美しかったか?空虚がまた今日も歌っている、あなたの影を揺らしはしない、忘却の、天に満ちた発狂、水平線から見える丘、私の名は愚かで生よい、擦り切れた午後と血痕、永遠の女性、永遠のこの残忍さ、永遠の思慮深く感ずる避雷針、生きる覚悟で死んでしまい、死ぬる覚悟で生きていた、気怠さを楽しみ、自分に似るより何も似ていない、狂いすぎてて馬鹿にはなれない、放蕩だ、我が魂の彷徨うべき不眠の孤独であれかし、もうすぐで虚無を棲家とするときがくるであろう、人生はやれやれ厄介だ、不吉だ、奇妙だ、人間と人間が分かり合える訳もない、私のような気骨を持つ人間は恐らく無数にいる、解放と幸福をもたらすときがくるであろうか、この不治の苦悩、生理的および心的な苦悩からの自殺者は自殺者ではない、病死者にすぎない、このメランコリーの名、私から徐々に生気を奪い、この制度の狂暴さに力を辛うじて振り絞り抵抗し、自己の悲惨たる運命に抗うこと、流星にも等しく、人間の悲惨と堕落の暗闇から光明を放っている、世紀の軌道を横切り、彗星たちの影響をはかり知ることは出来ない、この内的な深い意味を究明し、真実の、報復や処罰から完全に独立し、完全に孤立した調和を生む、没落した半神のように、あらゆるものを超越して起立する存在者たるがゆえに、自分の避難所たる、私を生につなぎとめておく、不屈の矜持を、すべてあなたがたに私は知らせようと思う。その無辺際性において、認識可能なものとするであろうと。理性的なものをすべて排して、無限の光たる状態に応じて普遍なるものを会得する、目に見えない性質をもつものを翻し、自らの熱火を拠り所として反映する。創世記、私は顔と顔を合わせて真理に由来する出来事を体感した、謎によらずにその光明を見る、光から光へと同じその威光のうちに姿形と形象を微睡ながら見た、あなたは私には気づかないが、死者たるものよ、私はあなたに気づいている、表象的な直視、情動、観念から脱却した生き写し、そして夢のうちに、彼らは現れるのだから、それは知的な直視ではなく、光を媒介にした直視であること、この死すべき生の顕れには霊の恩恵に息吹かれて、ありのままに認識することを憚れるが、思い悩む感性のパズルを造り上げるように、当然のものとしてそれはあるようである。屍として葬られるべき死者とはならずに、直視における名状しがたいこの死者たちをあらゆる俗物から撥ね退ける必要がある。観想の完全な恩恵によって、或いはこの世での生の後を十全なものではないとして、生けるすべてのものの目から隠されているものとして、輪郭のないもの、死すべき肉体、永遠の光を熱望すること、鋭敏たる観想、時として祈りと静寂、実在するものたちにとってそれは簡単なことのようでもある。死の負債を支払うときに霊的に和解すればするほど、この世は我々にとって死んだものであると見做し、世は私に対して、私は世に対して、千里眼を兼ね備えるべきだと察する。例えば使徒パウロは真理をそのままに直視する地点に到達したようにも思う。不在と思われるときは地理的な空白であり、そのときに見られる、どこにあっても全体としてあり、いかなる場所にも拘束されず、近寄りがたい光を通して直視する、存在することへは決して無知ではないように、その死者たる実体において何であるか詳細に語ることは難しい、この光の充満を目をもってして把握したり認識したりすることは不可能だ、この本質を完全に見るように階層に準じ、浄化されない限りは、崇高な光のうちにあってたじろがずにあることはない、見えぬゆえに明らかであると、悪魔でさえも最も汚れているが故に、その本性に気づくのである。光それ自体を見るのではなく、あらゆる存在の影のうちにそれは息吹を発し、眩きものであるからして、死者たちを気づく所以であるものとし、見ていること識別すること、その戦慄は時として邪悪たりえるが、自然本性的な千里眼をもち、時に未来の一風景を切り取ることさえあり得るのだ。言語は言語として機能せず、その情念そのものを受容し、すべてを明らかにするように、私は見たし、聞いたし、体感した、とも言うべきな、認識可能であるもの、認識不可能であるもの、この差異は、秩序である限りは不完全で機能しない。それは理性ではなくすべて感覚によるものであると断言してもよいだろう。絶対的に明晰な不可知な動物的本性、身体的な直視、表象的な直視、眩い光を通しての直視、唯名論、スコトゥス派、成期スコラ学、天界の火を盗んだプロメテウス、自分たちにふさわしい生きる術を知らないが故に、愛するものと愛されたものに関する啓蒙と上昇、そう、我々は祈りに沈んでいたが、観想する手立てに思いをめぐらし、あのアクィナスは、祝福をうけて神学大全は海の藻屑となり果て、バラバラのページは空中に漂い、御身を聳える、本質的で実在的なこの書物は、木も石も水も温められるように庇護されていたが、様々な対象に関して思考する、それは幽遠であり、切り刻まれたナイフの刃先だ、「霊魂論」第3巻、「他者を和解するように自己を知解する可能知性に関しても同様に言える。他者を和解するかと言って、その基体を超え出ることにはならない。」まだ相当具合が悪い、だが回復が近いことを感じることは出来る、自分を裏切った、自分を逃れようと思った、


快楽、時間を忘れること、その想念、生を和らげることは、同時に生を体感すること、それは自分自身を殺すひとつの方法でもある、惨めな弁解などはせず、自分を知る唯一の手段として、困難な、非情で、苦しい罠を、錯乱し、説き伏せる、吐き気がする、どうしようもない、この微笑、悲劇性、苦しい夜、生を浪費し、血をみる勇気すらない、恐怖とこの矮小な小心のせいで、早くも生きていないほうがよかったと思える36年が過ぎた、ここ1年はとてつもなく精神がいかれている、もはや未来の一手先も分からないような、常に錯乱し、檻に閉じ込められ、精神病院に監禁された、私は言ったのだ、あなたが私を異常であると断言するならば、あなたも私の異常性を知るうえで最低限の素質を持っているはずだと、私はベッドに括り付けられ、35日間も、自殺念慮があるとの疑いで、私の自由を奪った、何者も靄のようで到底人間には見えずに、私は人間ではない誰かに話かけたが、その誰かが私を苦しめる、重大で危険な懺悔だ、祈ることしかできなかった、いったい誰に?神がいないことは私には明瞭であるし、アルトーがかつて「私はゴルゴタを覚えている」と言ったように、キリストの存在自体は欺瞞だった、策略だった、言葉を発した瞬間からこの呪いの世界は始まり、デミウルゴスは本当の世界に似せたこのかりそめの世界を造ったが、この灰色の絶望的な日々を何と言おう、もう16年も私は薬漬けだから、夜眠ることさえ出来ない、だから私は夜にいつも書く、この世に対する呪詛と怒りを、冥々のうちに私のこの欠落は、もうこれを制御出来るはずもないし、もっともなこと、真の重要性を与える神の一瞥は欠けてしまうのだから、キリストなどが存在するわけもない、「神とどれほどの距離か、当ててみたまえ」と確かパスカルは言ったはずだ、離れて見るすべを知らねばならぬ、離れること。離れること。未知のものは実はない、すべて直観と直視によって明瞭になる、あまりに私は見えすぎる、人々の感情や情感や呪詛や世迷言、迷信、錯乱、何者かに縋ること、知性の凡庸さ、あまりにも不適切なこの世界、すべてが分かりすぎる、分かりすぎるからあまりに奇蹟など近づいてこないし、照明もしない、まもなく最期の階段を登るだろう、塩水の点滴を打つ、脈動がはっきりと聞こえる、医者の足音、光が眩しすぎて或いは暗闇で何も見えず眠れない、私が狂ったのか?と問いかけても、狂った自分自身は遠い昔のように思える、これらの犠牲、失敗の落胆とともに混乱した恥辱に満ちた哀れな病室、私は唾を吐きかけてやろう、この世はだって害悪なのだから、秩序に従うゆわれもない、それがむしろ模範的な生き方だと思われる、文字通り私はある意味では蘇った、だが錯誤の中での話だ、倦怠は所有から生まれ、すべてを捨て去ること、捨て去ること、消え去るように、心にどんな穴が空いたのか、何という孤独、唯一の生きるすべだと思われることは人が既に知っているが、無視されることを気づかせるということにある、この種の情熱的熱狂に多くの者は関心を持たない、忘れ去られたもの、放っておかれているものを、保護する運命にあるにもかかわらず、困窮と期待の状態に身を置き、多くの弱さと迷いと不眠の眩惑、何かが縫いようもなく壊れ、死の近いことを予言した、目の中に絶えず存在する死が彼らを欺くだろうか、それは非常に滑稽だ、私だってわかっている、そんなことはまるで何の意味もないと、皮膚は避け、水没して溺れ、感情に振り回され、自分の絶望を愛することを求めるが、時折私を慰めるのは、死者たちが書いた文章だけだ、怒りを鎮めること、何が私を救うのだろうか、本当の怒り、神に対する絶対的な怒り、キリストはいないしかしそのことは誰も承認しない、馬鹿げている、形相的に可知的対象によって、現実態(最もこの言葉はふさわしくないし、憎むべきだが)になる可能知性が実体でないことは周知のことであり、本質的に現実化されることはないのだから、現実的和解の光の内にたち、その照明を本質によって和解すること、借定することの不条理、「魂の不滅」におけるアウグスティヌスの論拠はなるほど、権威と推論から明らかにされたようだが、それはある不変の真理が存在しているという仮定にすぎず、理性的魂が不滅であるという馬鹿げた空論にすぎない、我々はまだ存在していないし、仮に存在するとしてももっと別の、他の、場所にいる、本来的に断言しておくことはただひとつ、世界はまだ生まれてさえいないのだ、永遠の理念、永遠の法、永遠の書物、うんざりごめんだ、私は受け付けない、この世にアレルギーがあるのだから、もっともあなたたちが明記している「この世」の話ではあるが。永遠の理念と結合されることが不死たる所以とされているが、あなたたちが言う「この世」は常に変わっているし、他の世界は微動だにせず何も変わらない、あなたたちが立っているところ、敢えて厳選するならば、「まず初めに言葉があった」これは肝に銘じておこうじゃないか、神に関する闘争や議論は、光の外で行われ、論述的、記号的な錯乱にすぎず、何も認めるべきに値するものはない、抽象、想像、理性、奇しくも、さようなら、さようなら、さようなら、一つの生命を破壊しよう、何という愚かな、本当の怒り、そう、錯乱の言葉か無かだ、そこはヘルダーリンに学ぶことにしよう、或いはビュヒュナーに、死体を投げ捨てよう、愉快だ、死に赴く私を後押ししないのであれば一体何になるであろうか、すべてが空しい愚行、いっそのこと何も考えもしなければ、何もなければ、もう二度と生まれることがなければ、味わいつつある死、私の気質と奥に似た、神と仮定する残虐な万能ぶりが何たるか感じさせてくれるならば、まだ笑うことが出来るではなかろうか、けだるい美意識、失せた覇気、死んだように眠っている、かすかな記憶の口実、感情の破綻と脈絡を追い内的叙情にひれ伏すことが最も安眠をもたらすが断じて受け入れられない、恐ろしいほど人間と世界は遠い、全くの別のいきものだ、砂漠でわめいていたらきっと聞いてくれるかもしれないが、何もこの狂人に再び破滅を言い渡すことがどれだけ残酷なことかあの白衣のヤブ医者になら分かるだろう、私を閉じ込めたあのヤブ医者のKだ、あいつは詩人らとも親しめないし、ラカンに没頭しているようだったが、あいつが言う現実界はアルトーが唾棄すべきものであったし、アルトーもラカンを告発した、夢と非現実を求める私とは違う世界で生きている、あいつが処方した薬は私の記憶を欠落させたし、あいつと付き合った12年間私はボロボロにされた、ついには締め出しを食らい病院に来るならば警察を呼ぶと恫喝された、書類まで偽造され運転免許まではく奪された、私はあいつを許すまい、私を薬漬けにし廃人にしたのはあいつだ、イザヤは敗北しつつも抵抗に加わり、ふたたび破滅を予言した、もう一つの破滅と、私自身の破滅とを、そしてもうひとつの肉体を、はたしてこれは災厄にすぎないと言えるだろうか、極めて人為的なものだ、無知ゆえの純粋さだとは言えないだろうか、ひとつだけ分かることがある、私は自分の運命の行く末だけは分かるのだ、必要な犠牲を払うだろうか、否、そう、ユダヤと共産主義の撒いた不和の種が世界を破滅させたように、被害妄想と神経衰弱に蝕まれているとはどうやら言えそうだが、私は幻惑させられない、文字に頼るのだ、信じるのは文学だ、救ってくれるのは紛うことなき文学だ、この二重の現象、瞬きする度に地平が揺れる、私は自分でケリをつけずに気楽に返答を延ばし、すべてを拒絶しようとも思う。神の海で騒ぐものども、巻き散らした軽蔑、終始ひとりきりだったと感ずること?わたしの人生のあるうんざりするような一時期の全体が、解体していき、すべては微睡の中に、待っているのか?何を。死だ。まだ私の興味を引くことはあるのだろうか。あたかも天賦の才が与えられたように思いこむことか、欲望はすべて死んだ、死の向こう岸への欲望さえも、何たるむなしさ、しおらしく首を差し出しさえすれば死刑執行人も無知蒙昧にほろりとしてくれるだろうと空頼みする、うんざりだ、もううんざりだ、もはや恐怖はない、何もない、失うものが何もないから、心の飢えは満たせないということを拒んだ、出来るだけ自分ではないように書くように試みるが、その私はもういない、朝起きて、ベッドで本を読み、誰にも会わないというこの生活、劣等感、被害者意識、罪悪感と共に、本質を見誤差せてしまったのだ、私は怖いのだ、自分ではない私がいることが怖いのだ、そいつはとんでもないことをやらかす、絶えず自分が引き裂かれる、生と死の間でゆっくりと染み入るように、最期の決断から魅惑され、これと戯れるように死に近づく、もう少し、もう少しだけ、私は未熟なようであるが、死に見合うほどは成熟している、もはや自殺だとか、いや死ぬさえ私には言えない、生死の敷居を超えたかのように魂の中ですべて消費され、消耗している。誰が言ったか?神秘思想家でも、スコラ学者でも、哲学者でもない私は、それが祈りの実践となるだろう。光明は無縁の不滅性に回帰するようでもあるが、光はなかなか照らしてこない。生の霊的浄化、孤独な形而上学、享受する自由極まる神秘の、宗教的瞑想の帰結の、高次の独学者がみる蛾の夢と、単独で豊穣に魂を受領したものの、ヴァン・ゴッホが想像を自由奔放に働かせ、この耐えがたき生、死を瞑想し続けた決断、そう、目指すべきは世界と絶縁した文学であり言葉だ、文学的カタルシス?実に愚かな、自分で自分を裁く?最高のものでも最低のものでも人間の中に見出されるものなど何もないし、いかなる被造物も介在していない、いわば二つの原理的部分、この可感的世界、分裂し、結合し、宙を舞う、不可分にして不変なる一者、世界の外に回帰せよ、場所的空間的類的種的に原初的諸原因においては統一されて常に「1」であり、永遠不変にとどまる。正しく理解するものは恐らくいないであろうが、運び去られ、整理され、何も中断せず、時は止まり、どれほどの瞬間が、永遠に飛び去ったことか、空の音を投げる声のように、焼けるような昼の光にぱちぱちする眼、波の下にその蒼白な顔がのぞき、空の中の一つの点が蘇る。なぜ?それは死んだ、そこを出たところ私は、「どんな偽物の神が私たちのところへ来たのか?」盛り上がる、お前よ、あざやか、だがしかしひどく感動していることに気づく、この照射が胸の中で燃えるように、私を熱狂させまた何かをつくることの動機となる、できる、私はできる、私は待ち、待つだろう、私の顔を見つめ私は剥き出しになり、沈黙は重々しく穏やかだ、狂う、反時計回りに動く、壁にもたれて空虚に笑い飛ばす、まったく不条理なこの笑みを、今、今、ここでもちろんそうだ、気持ちのいい、外部にある夢中にさせる本質を矢で射抜いたようなものだ、だれ、なに、あなたは?青いからかうような眼、青いからかうような、そう、どんなに数多くの興味深き事象も永久に知れずに終わるのかと侮蔑、よし、次へ移ろう、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(ルカ)「私たちは同じ霊に導かれ、同じ模範に向けて歩んだのではなかったか」(コリント)境界的戒め、戒めの流布、○を怒らせるものは自分を危険に晒す、伝令、そう、不明瞭なもの、いずれにせよ、ヒエロニュムスの第4部にあたるもの、私をどこまでも追いかけ、決して捕まりはしない、忘れもしない、しなかった、奥のほうで声がする?「最上位のものから最下位のものへと降りていくことによって、言葉がその下降の度に応じて比例する大きさで増えていきました。言葉はまったく声を失ってしまい、言語を断じた方とまったく一つになってしまうでしょう。語られないとか理解されないというより先にむしろ酩酊でもなく狂気でもない言葉さながら。」私は立ち去る、もうたくさんだ、なぜ、速やかに、ちょっとふらふらしながら、不安が走る、さてそれから?指の間で震えるあの高み、奪い去る、影、出逢い、笑い、まなざし、忘却、白夜、白目、やってくる、あなたのところに行こうとして、この頑なな軽やかさ、お前は笑っている自分の顔を腕の上にのせ、そうして私を見つめ、朧気にお前は自分の後ろ姿を見る、恐怖があるいはむしろ今のところわけがわからず何が起きるのかわからず、明滅、実際彼らはもう眠りこけているようだ、死んだ人のように私は叫ぶ、声と身振りと夥しいほどの顔のない群衆、叫び、半透明に見える、体全体が震えて、揺れ動き、喝采ごとに輝く眼、私がそう記憶しているのは、確かなのは、本質も実体も外部にあって、そこでは息はしていないようでした、ですが、私を欺くために彼らは存在し、彼らは彼らで真面目な顔をして語りかけるのです、それは聞こえない言葉であり、私にとっては何の意味もなしません、間違っているからです、ちっぽけなものどものお喋りの群れがあって、きっとその声は霞のようなものですが、速やかな、だんだん早くなる、喉音の鋭い声や、もし私のほうが本当に静かであれば、どこかから鈍い蠢きを聞かされることだろう、おいで、おいで、おいで、機械的に、操られ、動き廻り、すばしっこく、吞み込もうとした言葉が一瞬、涙、繰り返す雑音、やがて静かになる、お前はただ突っ立っているだけ、さあ行こう。地平線のない明るい迷路、道がある、錯乱と狂気と正気と発狂と理路整然とした言葉の節々にたまにほんとうのことが聞こえる、永遠が歩んでいる、同じように世界がずっと遠くへ続いてまたここに戻ってくるかのように、前には風景、どこか見たことのある景色と空気、そして永遠にこうなのだ、光の波が内部のすべてを浸透し夜の残りをじきに溺れさせるだろうよ、人々は真っ逆さまに宙づりになりラテン語とスぺイン語、はっきりとした中間の音を喋る、そして私はまだ何も出来ずにいる何かに代わって、この偽物の世界の大半を失くしてしまうようなことが極めて明白であり確かではないだろうか、もちろん、空には冷気の突然の静かなうつろい、お前が目を覚ましたのはそれ?なぜって、お前は頭の中にあるものもこの偽物の世界も何も見ようともせず、目を背けるからだ。私は見ている。なんて滑稽なんでしょう。私はここだ、私は身を屈める、あなたの御名によって私は手を挙げよう、私の魂が髄と脂で満たされるようにとダビデが語ったことを再体験し、絶えざる望みによってヨブが言うように照明し始める、ひとまずあなたが仰られたことを聞きましょうか、私がそこからやってきたこと、お望みであれば、御教えしましょう、私はそこにいる、私の声、この審理、互いに言い交すこと、無言、病理、破壊、素早い答え、感嘆の声、私はいずれにせよ何も変わらない。滅びゆくこのかりそめの世を悩みのあまり葬ることを興ずる、今朝私はそれを願う、お前が私を呼び、どれほど前だかは云ってくれないか、お前は眼が覚めていたのか、そうか、いつからお前の快さの中にいて、どこに自分がいてだれなのか、ひとりっきりで思い出して、眼を閉じていたの、なぜってお前は何も見ようとしないから、壁を震わせるすべてのもの、お前を私が呼び招いたから?「自分に罪がないというのなら、自らを欺いており、真理は私の中にない、罪を赦しあらゆる不義から私たちを浄めてくださる」(ヨハネ)実に滑稽だ、あまりにも薄汚れた私は、ゆっくりと散っていくおおらかなあの火花、私たちがくるときに通った同じ道をまた通る、そして引き返したり、戻ったりする、急げ、急げ、ほとんど走るように、広大な景色を前にして空気に当たる、心地よい、そして私は誰も見ていなかったし、あなたも何も見ていなかった。吐き気がする、どうしようもない、辛い、困難な、苦しい日々、絶望的な金曜日、結果でなく宿命を、消え去った夢、落胆して手を握り弛緩して、他人はただの対象でしかない、生の最後の交差点、賭けはもうなされた、私自身が死んだという揺るぎない事実と内部の深い動乱、もう何も体感も経験もしたくない、全世界が与えられるように私は疲れ切っている、もし尻込みするならば、私は永久におしまいだ、この幽霊は何だというのか、自分が死んだということを誰も理解出来なかったのか、愛にせよ、傷にせよ、一つの秘密、何かしら隠れた内奥的な呪術、そこで私はもちろん空しく、もう終わっていた、もうたくさんだ、出来るだけ早くこの世から抜け出すための無様ではない手段を探し始め、「また君が、今日あるいは長くて一週間後にこの世を去らねばならないと思って生きること、その業悪故に36年の間煉獄にいるということ、この魂がどれほど惨めに呼びかけているか分かるだろうか、私は全世界から忘れられている。」「神からの霊感によって認識されることは、人間の推論によって認識されることよりもずっと真に知られているものである。」(ペトロの手紙 二)神からの霊感に虚偽はありえないと?いいえ、虚偽に満ちている、すべては浅はかで嘘っぱちで軽薄でなんの考えもないこの社会に対して私が常に恨みを抱く理由ともいえる現在、学知も叡智も悟りもすべて捨て去り、滅びたまえ、バトモス島にいた聖ヨハネは、なるほど奇妙な黙示録を書いたようではあるが、あれほど不気味で不吉なものはいらないのだ、何の意味もなく我々は息絶え絶滅するから、形而上学の命題の試み、歴史的に、預言的に、あらゆる懐疑に満ちた普遍論争、特殊な命題は身体から離れたものとして奇しくも、蓋然的な理性的認識はこの世の果てにある、考えることで生まれるものではない、考えることで何か新しい発見があるはずもない、それは突如啓示を受け、照明されるものだ、聖書の内的な意味、また外的な意味のいずれの場合も、事物の創生である偽の神に翻ることに即して、人々の修復をそこから離れた視点で試みるべきである、なるほど、確かにまだ遠いようだ、愚かなロマンチシズムに浸っていると、そうだとしたらトポス(ある主題の取り扱いが想定させる諸々の常套句)の使用法と、ポエジーとある種の狂気と錯乱(ドゥンススコトゥスの聖母マリアの解釈のような、キリストの母であり子でもあるという狂気、それは本当に正気か?)とローブ(修辞学的文彩)の超越的思考の頂点に達すること、神学大全ほど緻密で理路整然とした絶対的に明晰な書物が許されまいとするならば、我々は一体何に問いかけるべきか、死者たちと存在の痕跡と影と実在、海の蚕の中で新しく生まれようとする生命に痕跡を託す、この灰色の世界、容赦のない務めと延期されたままの堕天使と悪魔が織りなす禍々しい望まれた世界、天使は一四人いる、堕落した天使は三人いる、悪魔は数えることが不可能なほど多大で強烈な数がいる、天使の伝言はたまにあるが天使は絶対に世界には介在しないので、いや介在することも可能ではあるがアイオーンから堕とされる、親切心をもってして愚かに人間に干渉すべきではないという戒律がある、その伝言を聞き、孤独ではないと、そして密かに反抗の目覚めを目論みようとも、生涯衝突し続け、あまりに受容を広げすぎると、時々悪魔からの呪詛も受け取る郵便箱ともなる、だが、眼差しと言葉とが生まれつつあるのを体感し、それは絶対的に揺るぎないものとして、空白が未来へと常に前へ前へと放たれて、声と千里眼とイマージュによって振動し始める、この世に対するアレルギーに対抗する自由の並外れたエネルギーを発見することになるだろうと、不能という言葉はすべてその含意を汲んだうえで、また、当然その不可能性、切除と言っていいかもしれない、自分自身を誰かに奪われたときに、失った部分は個人の十全性から永久に欠落し続けることとなる、引き裂きあうだけの悲劇的状況、悲痛な叫びの背後に一体何が隠されていたのであろうか、獰猛かつ執拗な、私は疑いようもなく自分の精神状況について把握しているし、疑いようもない多くの事例を知っている(精神分裂病、双極性障害に関して)ラカンですら汚点を残しているのだ(アルトーの主治医であった、ガストン・フェルディナール博士もシュルレアリストの影響を受けていたという事実もある、ロベール・デスノスが紹介したのだから)確かに私を極地から救うことができると確信していたくらいだから、私は今も躁病であることに疑いはないのだが、繰り返し自殺をほのめかす私の言動に入院することには同意せざるを得なかった(ソヴィエト神話いまだ健在というべきか)ほぼ眠ることが出来ず、6種類もの薬を常用し、やがて強制入院を受け入れた、自殺行為ともいえる執拗さで打開策を見つけようと、しかしフロイトの著作に出てくる古典的な主題にふれる以上まるで信頼ならないことでもあり、それに輪をかけて私が苦しんでいるということは容易に想像して頂けるであろう。私がですね、抑制不可能な無意識的動機をともなう軽躁症の段階にあなたがはいっていると判断なさるのであれば、私はどうやって自分を抑制すればいいのですか、それに何の権利があって私を拘束し、自粛を求めるのでしょうか?分析のあらゆる規則に反する形で、この医者は私の行動に口をはさもうとするのですから。ボエティウス、三位一体論「質量に結びつけられた形相の認識方法と、質量から切り離された形相の認識方法は別のものである」或いはシラ書「神学の学知もしくは神的な学知は、神からのものであるがゆえに、神的なものであると言われる。これによれば第一哲学は神学についてのものであるがゆえに、神的な学知、神学の学知である。したがって、聖書はほかの諸学知のように、あるいは第一哲学のように学知であることになろう」、誰もイエスが主であるとは言えない、無論その確信なんぞどこにもない、あらゆる真理は光による照明であるがゆえに、人知を排する、神的な霊によって知らしめられると言いたげな、生存するために作品を書くこと、ひたすら書くこと、ギリギリで息をするような、はなはだしく異なることではあろうとも、この論理矛盾がおよそ世のありとあらゆる熱狂を集めても、控えめな要素しか出てこない、自分の神経や気力喪失をたえず支配し、命令権と精神を保ちつつ、本能に抵抗しつつ存在するはずもないもの、徹底的な行為の矛盾、詩句を練り上げる超越的、習慣的な仕事、いじくりまわして完璧へと至らせる作業、何を見ていた?もともとの意図などというものは本質的なものではない、そして?それから?遠ざかる機会が何かひとつでも現れれば、棄てることができるというばかりでなく、棄てなければならないもの、その実体、開始条件、始動でしかない、注意の眼目、さまざまな手段、思考の羅列、狂気を屈服させて到達された目的、必然性を見出す、人工的創造、存在のなかへの可能事の落下、分散量が単位量と等しくあること、霊感という文学的概念、誤診と真実とが混じりあっている瞬間が見える、哲学、すなわち観点の変化とそれにともなう言葉の上での変化、それと知らずになされる、そして、詩、すなわち当初の衝撃を保存したままなされる言葉の上での変化についての、より意識的なもの、ひたすら自分の眼に、自分の眼だけにゆだねなければ、言い換えれば、なかば不可視のもの、たらしめる、無限に個別的な、なるほど、信仰と讃美歌に酔って無我夢中になった群衆たちによって建設された、彼らの祈念によってもちあげられたとも言えるが、私はそれに唾を吐く、神はいないしいるにせよ悪魔に食われているし我々の世界には干渉しない、もっとも貴重なこの不安定な状態、しかもこの命題をひとは好まない、現実的なるもの、想像的なもの、事象、主題、要約しうるもの、信じるべきもの、模倣的であるべき部分、諸条件と意味作用、外観を建造することに存する何か、意志的で限定された、神的な光や天使からの音や言葉といったものにはどのような相違があるのかそれを問う、推論的論拠、知性的合一、ディオニシオス・アレオパギテスによる「天上位階論」、現世の生活ではもろもろのしるしや結果といった被いなしに神的な光芒を観ることは出来ないと語る、この世では、鏡を通じて謎めいた仕方でみること、観想の着地点、天使たちを超越することも天使たちと同等になることも出来ない。対象と一つになるがごとくにして天使たちと一つになるべきではなく、天使たちを通じて私に下ってくる照明、その在処、実存、想念による神的観想、光は視覚の完全性であるということ、極端に珍奇なイマージュの行列が全速力で通過する間、たちまちそれらは虚無の中に消え去って、あとにひとつ何も残さず、定着するもの絶無、途方もないものであればあるだけ、絶対に定着不可能な、伝達可能、展示可能、分離可能、深い部分で続いている、それ自身続いている、そう学者にだけ見られる、彼らは意志的、客観的、計算的に導かれた思考しか知らず、その知識は、知性を自由に手放して無意識と未知と、神秘を接触させることを怠る。私はいた、私は倒れたといった、突然変化する眩暈と青色、転移する、ガラスの破片のうえを静かに進み出て、故意に連続して何らかの神たるものに見られるままになっていたのかもしれないが、まったく別な物語が始める、私が溺れ、破滅し、下手で、水を飲むところの、吐くほどに、滑らかな表面、暗い深み、表面の下、ちょっとした傷、でも深みに嵌る、腿に擦過傷、苦しむ必要もなくなり、同時に没頭せねばならぬこと、出発点、仕切ること、定義することに困難が生じる、自分に本来的なものをもはや見ることができない、いくつかの観念と想念、別の場所と時間にもっていかれて、息が苦しい、何もかもが不透明だ、その生きることの困難さ故に不適合なものに終わる、ついには混乱を狂気を屈服させ、信用することが出来るようになるだろう、精神病はありうべき心的混乱のほんの一部分を示しているにすぎない、未知のままに残っている膨大なものの中へ、ヴィジョンについて、イマージュの奔流、呆気にとられ、興奮して追っかけている、巨大な穴がいくつか見える、不意に途切れた夢、浅はかな、イマージュを汲みつくせない新奇さ、他の事実、平行現象、暗喩、接近、いくつかの所有物、「天地は過ぎ去る、しかし私の言葉は過ぎ去ることはない。」(マタ二四)聖書の言葉を質料の永遠性を主張しようとするものを論破する。地は水に覆われているので目には見えない。そして、なぜ、地が飾られる前に造られたというのか、次、意識的な思考と闘争、大気の中にあるわけでもなく、空気はまだこの時点では存在しない、不可視で不朽の本性、そうだ、この闇で悪の実在を理解してはならない、悪はわれわれから生じる、福音書の中に見出すことが出来るか?そう、ラザロを起こそうとして、ユダヤ人たちに墓から石を取り除くように命じたように、全くもって不可解だ、自分自身を今をもってしてもコントロールしたり制御したりすることがまるで出来ない、私が気分を害したというまでもなく同じように、この世界の成り立ちはデミウルゴスによるユートピアの思惑、つまりはもともと存在していなかった世界の成り立ちを、こいつが、悪の力をもってして、生み出してしまったのだ、絶対的理性の擬人化、ありうべき想像の、観念上の、良識の、神の三角形の、不可避的連鎖の、あの黙示録の、結果と原因の課せられた秩序の中の、自由と事物の必然とを調停するための知力が有する、そう、モーゼは水源を創造したというわけではなく、人々の前に啓示しただけだから、一定の法則は存在するが、俗人はそれを知らず、関わるすべすらもたない、空虚に焦がれると、不条理きわまるつくりもの、一般的観念との相反、常に影を現実と取り違える。光に背を向けて、己の投影する闇の中に映し出すものすべて、光と霊光と動物磁気と普遍磁気との区別、潜在的光は幽体であるとの決断、化合物、与えられた刺激にもとづく生命のない光線、盲滅法な企てを行う無知な人々による欠落、はい、まず初めに意識があったそれを言うことは確かに出来ます、ただその意識はこのかりそめの世界に介在するようにつくられた意識ではないので、私は本来の世界に還すように求めたわけです、だが、しかし、それは拒絶されました、あなたの見ているものを、伝えるという役割を私は担い、それに全精力を賭けるべきだというわけです、ただこれは悪魔かもしれないし天使かもしれない、いずれにせよこの命令は人によるものではない、私が常々考えていること、人は忘れることを本来とするが、宿命的法則に従うことが重要で、この世界にいる病人と同じ空気を呼吸すると、邪しまな人間の吸引力と伸張力の圏内に身を置くと、私も感染しかねないというわけです、共感と呼ばれる傾向?コレラを治療すること?キリスト者の教義による最期の日の開示、自覚の書物に向き合えと?理性の支配を放棄し、予見に属するこの能力、神経の感受性を高ぶらせ、今日もまた愚かなものを発見してしまう、とても神経がもたない、私、私そう、狂っている、落ち着かなくては、黙らなくては、心に絶対の平静を課そうとも、磁気的呼吸を変化させ、まるで意識は戻らない、呼吸も整わない、まるで意識がないまま、気づけば私に逆らうものどもによって自由を奪われ、拘束され、何も考えることを欲せず、記憶は完全に失われ、精神(それはあるのか?)を闇に落とし、最も完璧な自由を、生みだせるはずもなく、聖者と天使がおおっぴらに奇蹟を行うような時代へと、脅威と不可思議をもってして私は向かわねばならないだろうと、永遠の条理、均衡に反した真理、実にこれは奇妙なことでした。

私はいた、私は確かに倒れたといった、黒い隈のできた瞳孔、何も消え去らずあるいは反対にそれ以外には心に何も持っていないということが出来るとき、私のほうはいわば現存していず、遥かに冷たい水の中に落ち、石の廻りを回り、ほとんどあらゆることに意識を介在させるのを諦めたうえで没頭すること、忘却、喪失、帰還、間違いと適応、ある呪術、私は考えない、光が消えてしまったらどうしよう、物音の始まり、完全な不動、壁は空間を閉じる、私は叫ぶ、「多弁でもあり寡黙でもある、広大にして偉大であり、他方では簡素である。」「知性の完全性について語るときに、知性の光と叡智の光と神(?)の光から成るこのひとつの複合的な光は、自然本性的に我々に存在しうるより明瞭な神の類似である。」ローマの使徒への手紙1章でいわれている「すべての人を照明」するという本来的な意義はいかに?ある種の諸原理の卓越性か、この不完全性によってしか、知識すべてがそうであるようではないといったアリストテレスのように、私は真っ逆さまだ。しかし、ねえ、あんた、地獄とは、それは地上そのものだと思わないか?われわれはこの世で贖罪をしますから、しかし何の罪を償えばいいのか?恐らく存在しているということの罪であろう。

 いつか自分が生きていると実感出来たときには間違いなく死が訪れるであろうし、今日もバルビツール系の睡眠薬を3錠飲む、寝れない、圧倒的な不眠、長い夜、苦し紛れにあなたが死んでしまったことを思い出す。微睡の中にいる幼子のような、この紛いものの世界に対する復讐心、神、後世、正義、自我、宇宙がその前に座っているが、何も存在していない、犠牲は下ごころの極限である。立証し得る言葉や観念、非真実なもの、意想外、そして虚偽、率直さは、それなくしては生きられぬものを殺す。不如意、不快、息詰まる不安、反射的でない行動、闘争、死の苦悩、だが、苦痛はいかなる意味ももたない。死んでしまえ、お前なんか死んでしまえ、ヴェール、戒律の小さな一覧表、状況への非常に速い感受性、何もかもが見える、この先の運命も恐らく不幸に間違いないと自分では分かりきっている、避けようもない、ローマ化した、コロッサス、洗礼を受けた、あるいはユダヤ化した、ギリシャ化した、ローマ、ロゴス、ギリシャ、ウェルギリウス、エウクリデース、ガイウス、アリストテレス、アクィナス、キリストのあるところ随所に、カトリック的性質、十字軍、インド或いは不純、混乱、イスラム、モーゼ、聖パウロ、形式尊重、エジプト的、機械信仰の宿命、サイクル的過程、完全な歴史、観察の保存、記録、詩句、略称、感動の保存、詩歌、そのものが「かれ」になり、そのものが「われ」になる、無際限の仮設、「神たるものがいるとするならば、キリストでは断じてなく、外部にいる、よって神の証明は不可能であるし、この世界は地上でも地獄でも天空でもない、ただ眼前に存在しているだけ。」「あなただってこの血から生まれたのよ。あなた自身の血より綺麗なくらい。」私は怖かった、名前も知らないのっぺらぼうの群衆に囲まれて、私はただ黙っていた。夜の廊下で、虫の音色と足音だけが鳴り響く、点滴につながれ、ベッドに縛りつけられて、この残酷な夜はいつまで続くのだろうと胸が痛んだ。呼吸をおさえ、こもった叫び声をもらして、ああ、血で濡れている、表情のない医者が今日もまたやってくる、口を枕に押しつけて小さな叫びをもらす。一回だけ。長い叫び、この世界は私を救ってはくれない、それはどうやら確かなようだ、心を引き裂くような、そして動かずにいる、長い間、不安に、途轍もない恐怖に身震いする、誰か助けてくれと言おうものならたちまち私は殺される、突如、目が潰れるような閃光、爆発、轟音、心音、足音が地下に消える、もうこれ以上の苦しみはないと断言して頂けないでしょうか、何ももう感じない、ゆっくりと息をする、もうすぐ夜明けがくる、カーテンを半分開け、呻く、何にも反応しない、沈黙と無気力の中にすべてが沈みこむ、いつまでも続く地獄のような日々、もう何も、もう何もない、「一体何を言っているの?気でもおかしくなったの?どうしてそんなこと言うの?私はもう自分を抑えられないんです。めちゃくちゃなことを声に出しているんです。」定まらない目つきで、自分に何が起こっているのか分からないの、日に日に弱って力が抜けていく。信仰心と同じようなものだ。分かるでしょう?日が落ちる。この夜もまた、人を破壊し続ける。この夜もまた、人は殺しあう。雨が降っている。街と廃墟を包み込むように降る、雨は人の身体と傷の上に降る。「神は私をどうしたいの?」「どうして神はお寄越しになって、何もかも、すべて呑み込んで、私もあなたも一緒におしまいにしないのだろう」「神は私をどうしたい?」「神はおまえを罰そうとしているのだ、と私は感じるでしょうね。」誰も最期がどうなるかは知らない。最後が分かったものはあらゆる不幸を背負うかもしくは一生逃れられるのかもしれない。何百万という巡礼者が石の廻りを旋回する、唇は悲しみのせいで灰色が買った」色になる、何世紀も前から巡礼者たちはメッカに行って、その石の回りを回っているのに、どうしてその石は砕けないのだろう、

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