「デミウルゴス処刑裁判」試し読み

2021 4・1~ 原 智広 



 あの眩い天使たちが、神的な事柄について照明してくれる限りは、私はまた、光の内に神的な事柄を体験することが出来よう。人間たちはもろもろの視覚の対象から、すなわちもろもろの光滅から切り離された。見るものたち、体感するものたち、存在するものたち、あなたたちは遠く離れてひれ伏さなければなるまい。真に神秘的な不可知の闇を、本来人間が知覚し得る自然的な能力を閉じてしまったからだ。あまりにも「もの」が見えすぎるというのは、すなわち「不可触と不可知」の渦の中で、感覚出来得るというもの、精神たる欺瞞を超えて、我々が本来息すべき場所であるということ、すべての存在者を超越しているということ、このもろもろの絶対否定を通じた、云わば肯定は理性の諸原理から出発するものではない。あからさまに明解な、この抒情詩を通じて、心には豊かさを、言葉には切り刻まれた本質を、物質には本来の意識を、到来させ、導き出す諸結論を明らかにしつつも曖昧模糊とし、知性を屈服させる、自然的現象のあの光に喩える他はあるまい。神の不在と、天使の照明、肉体と霊魂の結合と、つまりは造ったとされる主体がいかなるものかを、被造物の本性は最後の異論の照明であるから、この共通不可能性、単独性、品位を帯びる以前の世界は存在する前に存在するであろう、人間が存続することではなくて、むしろそれとは真逆な、ではなくて、それを超えた第三の様態による霊的な特殊な照明で、事物の創生である、普遍性をもつ蓋然的な理性的認識をあらゆる観点から棄てたもの。つまり、超越的叡智。霊感を受けることと光の降臨の同一性を浮かび上がらせる。この寒々とした生命による気配は、訝し気に宗教の主体化を軽んじるものであるが、中断されることのない云わば感受性と宗教的省察が教会の分離により、美的な創造性の開花を促す。カリカチュア的に、幽霊のような死者たちの復活の懇願は、化学的事由や経済的事由により、つまり人間世界を存続することによって、屈服されもしたが、本質的にはそこに由来し到来する審美を錯乱してはならない。在るままに、見るままに、信ずること、それは不動なき我々が体感した第三の目となりて、骨格はレントゲンを、肉体は受難を従えつつも、我は目覚めりと視覚、聴覚、あらゆる五感を働きかけ、半眠半醒で夢遊病者のように、本来あるべき姿、形、風景であるものを見出すのだ。私が導きそして去る者、蜃気楼の中で、信ずるに値する情念、天がいささか重くなりますれば、いつしか私も消えよう、あの子たちはまだ眠っている、共同墓地を渡って、水飛沫が死ぬる体感機能に撥ねて、あなたたちのために苦しむこと、そこにありて本質は眠り、死のうと今日も願う、陰鬱なるヒステリー、独創的でも何でもない普遍をぶつくさと語ること、人生は美しかったか?空虚がまた今日も歌っている、あなたの影を揺らしはしない、忘却の、天に満ちた発狂、水平線から見える丘、私の名は愚かで生よい、擦り切れた午後と血痕、永遠の女性、永遠のこの残忍さ、永遠の思慮深く感ずる避雷針、生きる覚悟で死んでしまい、死ぬる覚悟で生きていた、気怠さを楽しみ、自分に似るより何も似ていない、狂いすぎてて馬鹿にはなれない、放蕩だ、我が魂の彷徨うべき不眠の孤独であれかし、もうすぐで虚無を棲家とするときがくるであろう、人生はやれやれ厄介だ、不吉だ、奇妙だ、人間と人間が分かり合える訳もない、私のような気骨を持つ人間は恐らく無数にいる、解放と幸福をもたらすときがくるであろうか、この不治の苦悩、生理的および心的な苦悩からの自殺者は自殺者ではない、病死者にすぎない、このメランコリーの名、私から徐々に生気を奪い、この制度の狂暴さに力を辛うじて振り絞り抵抗し、自己の悲惨たる運命に抗うこと、流星にも等しく、人間の悲惨と堕落の暗闇から光明を放っている、世紀の軌道を横切り、彗星たちの影響をはかり知ることは出来ない、この内的な深い意味を究明し、真実の、報復や処罰から完全に独立し、完全に孤立した調和を生む、没落した半神のように、あらゆるものを超越して起立する存在者たるがゆえに、自分の避難所たる、私を生につなぎとめておく、不屈の矜持を、すべてあなたがたに私は知らせようと思う。その無辺際性において、認識可能なものとするであろうと。理性的なものをすべて排して、無限の光たる状態に応じて普遍なるものを会得する、目に見えない性質をもつものを翻し、自らの熱火を拠り所として反映する。創世記、私は顔と顔を合わせて真理に由来する出来事を体感した、謎によらずにその光明を見る、光から光へと同じその威光のうちに姿形と形象を微睡ながら見た、あなたは私には気づかないが、死者たるものよ、私はあなたに気づいている、表象的な直視、情動、観念から脱却した生き写し、そして夢のうちに、彼らは現れるのだから、それは知的な直視ではなく、光を媒介にした直視であること、この死すべき生の顕れには霊の恩恵に息吹かれて、ありのままに認識することを憚れるが、思い悩む感性のパズルを造り上げるように、当然のものとしてそれはあるようである。屍として葬られるべき死者とはならずに、直視における名状しがたいこの死者たちをあらゆる俗物から撥ね退ける必要がある。観想の完全な恩恵によって、或いはこの世での生の後を十全なものではないとして、生けるすべてのものの目から隠されているものとして、輪郭のないもの、死すべき肉体、永遠の光を熱望すること、鋭敏たる観想、時として祈りと静寂、実在するものたちにとってそれは簡単なことのようでもある。死の負債を支払うときに霊的に和解すればするほど、この世は我々にとって死んだものであると見做し、世は私に対して、私は世に対して、千里眼を兼ね備えるべきだと察する。例えば使徒パウロは真理をそのままに直視する地点に到達したようにも思う。不在と思われるときは地理的な空白であり、そのときに見られる、どこにあっても全体としてあり、いかなる場所にも拘束されず、近寄りがたい光を通して直視する、存在することへは決して無知ではないように、その死者たる実体において何であるか詳細に語ることは難しい、この光の充満を目をもってして把握したり認識したりすることは不可能だ、この本質を完全に見るように階層に準じ、浄化されない限りは、崇高な光のうちにあってたじろがずにあることはない、見えぬゆえに明らかであると、悪魔でさえも最も汚れているが故に、その本性に気づくのである。光それ自体を見るのではなく、あらゆる存在の影のうちにそれは息吹を発し、眩きものであるからして、死者たちを気づく所以であるものとし、見ていること識別すること、その戦慄は時として邪悪たりえるが、自然本性的な千里眼をもち、時に未来の一風景を切り取ることさえあり得るのだ。言語は言語として機能せず、その情念そのものを受容し、すべてを明らかにするように、私は見たし、聞いたし、体感した、とも言うべきな、認識可能であるもの、認識不可能であるもの、この差異は、秩序である限りは不完全で機能しない。それは理性ではなくすべて感覚によるものであると断言してもよいだろう。絶対的に明晰な不可知な動物的本性、身体的な直視、表象的な直視、眩い光を通しての直視、唯名論、スコトゥス派、成期スコラ学、天界の火を盗んだプロメテウス、自分たちにふさわしい生きる術を知らないが故に、愛するものと愛されたものに関する啓蒙と上昇、そう、我々は祈りに沈んでいたが、観想する手立てに思いをめぐらし、あのアクィナスは、祝福をうけて神学大全は海の藻屑となり果て、バラバラのページは空中に漂い、御身を聳える、本質的で実在的なこの書物は、木も石も水も温められるように庇護されていたが、様々な対象に関して思考する、それは幽遠であり、切り刻まれたナイフの刃先だ、「霊魂論」第3巻、「他者を和解するように自己を知解する可能知性に関しても同様に言える。他者を和解するかと言って、その基体を超え出ることにはならない。」まだ相当具合が悪い、だが回復が近いことを感じることは出来る、自分を裏切った、自分を逃れようと思った、


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