黒猫さまと初めてのお使い
青山霊園の桜並木はすでに花を散らしていました。駐車場の少し日陰になったコンクリートの上で三毛猫と黒猫、ぶち猫の三匹がじゃれあっています。そのうちの黒猫が右肩に大けがをしていました。赤い肉がむき出しになって血が滲んでいるようです。
「ねえ、肩の傷どうしたの。三人でケンカでもしたの?」
黒猫はちらりと私の方に目をやると、だるそうに身を横たえて肩の傷をなめています。
毛並みはとてもつやつやしていて美しいので、誰かに飼われているのか、それとも霊園事務所の人などが面倒を見ている地域猫なのかしら。
「黒猫さん黒猫さん、病院で治療してもらいなよ、暑いから化膿するよ」
墓地に黒猫。霊界からの使者か、それともゾンビ猫か。
私が傷の具合を見ようとゆっくり近づくと、黒猫はするりと体を翻して、距離はまったく縮まりません。
「ほっといたら本当にゾンビ猫になっちゃうんだからね」
私はそう声をかけると、歌川国芳の化け猫を思い浮かべながら冷房の効いた霊園事務所に入りました。
私は青山霊園を訪ねるのは初めてです。ここには夫の母方の墓があるのですが、私は全く面識のない方々が眠っています。墓守をしている親族の方がもう高齢で先行きが心配だから、今のうちに墓守を引き継いで欲しいというのです。
しかし肝心な跡継ぎの夫はいま、遠く伊予の国へ単身赴任中。
書類だけであれば私が代理で預かりますと、お使いを引き受けたのでした。
墓所の名義変更は書類作成の注意事項がたくさんあって、事務所の人が必要な所にピンク色の付箋を貼って注釈を書き込んでくれました。夫にこのまま渡せば私が説明を忘れてしまっても大丈夫です。
事務所にはそれでも20分ほど滞在していたと思います。すっかり汗もひいて外に出ると、猫たちは三匹とも姿を消していました。
せっかく青山霊園に来たのだから、夫のご先祖様に挨拶をしていこう。
書類に書かれた墓所の住所を頼りに一人でお墓を訪ねることにしました。
「真っ直ぐ行くと大きな交差点があって、青山墓地中央か、この信号を渡る」
初夏のような日差しはジリジリと肌を刺すように痛い。
かなり急な坂道を500メートル以上歩いたでしょうか。
広大な墓地の中を一人で歩くのはなんとなく心細く独り言が絶えません。
「この辺りで東十三通りを左に入るのね。
はい。十三通りはええっと」
んっ、十三って不吉な数字じゃないの。しかも墓地だし。と思った瞬間。
霊園事務所の前にいた黒猫が、こっちだよと言わんばかりにひょっこりと顔を出したのです。その道はまさに私が曲がろうとしていた東十三通りでした。
私が事務所を出てからもう15分近く経過しているはずです。
「黒猫さんは先に来て私を待っていたの?」
黒猫の赤くむき出しになった肩の肉を見て、急に体が冷えるような怖さを覚えました。
しかし黒猫は「ついておいで」とでも言うように、私を振り返りながら墓所の奥へと進んで行きます。
左に曲がって右に進んで、黒猫は私から視線をそらさないまま、墓石をぐるりと一周しました。そこは、目的地である夫の母方の墓だったのです。
黒猫は少し横に移動すると、両足をそろえて姿勢を正して座り、まだ私をじっと見つめています。
「あっあの、初めましてお世話になります 自己紹介いたします」
ご先祖様だ。黒猫さまは、私を見守りに来てくださったのだ。
「夫が単身赴任で来られないので私が代理でして…」
墓に向かって手を合わせ、黒猫さまにもお辞儀をしつつ、怖さもあって膝ががくがくして、まったく落ち着いてお参りすることができません。
「ああ、さっきはゾンビ猫なんて言ってごめんなさい。本当にごめんなさい。でも本当に肩のけが心配だったのでもうゾンビなんて言わないからごめんなさい…」
ぎゅっと閉じていた目を開けると、黒猫さまの姿はありませんでした。
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