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うつ病になっちゃった話

2022年5月、私はうつ病だと診断された。最近始めたnoteにはうんこ漏らした事しか書いていないが実はちょっとした爆弾を心に抱えている。

あれは妻とショッピングモールで安定のサイゼでランチを済ました後だった。急にふらっと目の前が真っ暗になる感じがして、人につかまっていないと立っていられなくなった。立ちくらみか貧血かなと思い、妻に肩を支えてもらいながら帰り道のドラッグストアで貧血薬を買って家に帰ってすぐに飲んで寝た。次の日、会社に行くとどうも様子がおかしい。めまい、動悸、頭痛、吐き気、そういったおおよその不調に襲われ、何より10秒と集中ができなかった。課長からどうした!?と声をかけられ、涙を流しながらもうどうしようもないですと言い、早く病院行ってこい、と出社1時間後の会議を背に病院へ行くことになった。私の異変に気付いてすぐ帰らせてくれたこの時の課長には本当に助けられた。所属していた部署の方々からもお大事にと声をかけられた。涙が止まらなかった。

更衣室で着替える余裕もない私は、会社から自転車で10分ほどの病院へ行こうとした。だが、自転車に乗ろうとしても全く足が動かない。このまま漕いだら倒れて轢かれると思い、1時間くらいかけて自転車を押しながらなんとか病院へたどり着いた。このたまたま行った病院が運よく心療内科だったので、一通りの検査と問診の後、うつ病だと言い渡された。
そんなつもりも無くどっか体がおかしいんだろうくらいにしか思っていなかったから、「ええ〜〜」と情けない声が出た。と同時に自分という性格をわかっているため大学生くらいから将来うつになりそうだな〜とか考えていたため、ああそうかという妙な納得感もあった。昔から委員長とかリーダーとかになってしまう責任感が強すぎる人間だった。

病院の問診ではまずアンケート用紙のようないくつかの質問事項に答えた。内容は確か夜は眠れるか、疲れを感じているか、とかだったと思う。ほぼほぼ良くない方に当てはまった。先生の問診では最近辛いことはないか、例えば仕事、家族が亡くなったとか、といった旨のことを聞かれたと思う。ことごとく当たっていた。

おじいちゃんは私がうつ病になる1ヶ月前に亡くなった。4、5年前からヘルニアだとか骨折だとかで入院生活を送っており、晩年には自宅に介護ベッドを用意しそこで一日中生活していた。囲碁が趣味だったおじいちゃんは大変頭が良く、生涯ボケることはなかった。だから尚更、日に日に歩けなくなっていくし大好きな囲碁仲間のところに行けなくなっている姿を見るとどうにも辛い想像しかできなくなっていた。小さい頃からおじいちゃんの家に泊まるのが大好きで、囲碁が打てない私のためにオセロで相手してくれていた。多分勝てたことはないと思う。旅行も好きでたくさん連れていってもらった。元々おじいちゃんは自衛隊員で北海道の転勤の時におばあちゃんと出会い結婚したらしいが、愛を育んだその自衛隊官舎に連れていってもらった。あの時は何と言えばいいかわからず、へーすげーくらいしか感想は出なかった。根っからのおじいちゃん子である私の心の支えが折れることなど容易かった。その支柱は今思うとかなり太かったんだと思う。

それと同時期に私は会社を辞めようか本気で悩んでいた。どれだけ頑張って製品を開発して大きな売り上げに繋げようとも、無理矢理短納期で営業がとってきたギリギリの案件をお盆休み返上でなんとか間に合わせても、毎日簡単なデスク仕事をし定時に帰る同期と給料は変わらなかった。残業にまみれ、次第に会社にも自分が生み出した製品にも興味を持てなくなっていた。極め付けに3人の後輩の面倒を見なければいけなくなった。若手社員代表!みたいな立ち位置にいたせいであらゆる厄介ごとには巻き込まれたが、後輩3人の内2人は外国人で満足と言えるコミュニケーションは取れず、結果自分のキャパシティを圧迫することとなった。あの時外国語が喋れていれば、あの時自分にも別の仕事があると言えていれば未来は変わっていたのだろうか。自分の持っている仕事、後輩が持ってくる仕事の確認、上司というか会社からの圧力、およそ社会人として必ず経験するだろうこの板挟み状態だが、私の場合ペラッペラになるまで押しつぶされてしまっていた。当時の4月くらいに妻から見てもよっぽどしんどそうだったのか、もう仕事やめな。と言われてしまった。それほど疲弊していたのだと思う。そんな中でのおじいちゃんの訃報だった。そうしてなんとかバランスを保っていた心がぐにゃりと傾く気配がした。

とまあ、私がうつになったであろう大きな原因が以上の2点である。また、正確に診断されたわけではないのでなんとも言えないが、人の心の動きに敏感だと我ながら思う。すぐ人の目を気にするというか、この人はどう思っているんだろうみたいなことを四六時中考えることもあった。そのため普段生活しているだけでも大小ストレスを抱え込み、それが絡み合って心としてのテイが破綻したのだと思う。

この診断内容を妻に伝えると、へーそうなんだと言いながら抱きしめてくれた。鼻を啜る音が耳元で鳴った。だが、我が妻強し、私が大黒柱じゃ!と意気込んでいつでも会社辞めていいからねと言ってくれた。
私は次の日に3ヶ月間の休職申請を出した。

休職1ヶ月目はソファから1日動けなかった。なんとか洗顔を済ましたものの何もできずに横たわる生活が続いた。ご飯は今までの半分も食べられなかった。吐き気に苛まれ、睡眠剤があってもあまり眠れなかった。
2ヶ月目くらいから当時再就職のため専門学校に通っていた妻のためにもと、夜ご飯を作り始めた。メニューを考え食材を買いにスーパーまで出かける、そして美味しいご飯を食べる、ということをした。随分とご飯を食べられるようになった。睡眠剤も減った。きっとこれが私の回復の大きな助けになったんだと思う。
3ヶ月目には外に出歩くことができるようになった。妻とお出かけする楽しさを思い出した。いびきをかくようになったらしい。
たった3ヶ月で完治するわけもないが、重い足を引きずりながら仕事の引き継ぎのため1週間くらい出社して会社を辞めた。最終日に一番仲良い同期の家で軽くご飯を食べ、ありがとうとだけ伝えた。同期は俺も辞めようかなと言っていた。

今となってはこの時のことを笑い飛ばせるようにはなったが、今でも黒い感情に心が持っていかれそうになることがある。そんな時は妻に正直に話を聞いてもらったり好きな音楽で踊ったりして気を紛らわせている。お気に入りは星野源のweekend、花金の気分を思い出してワクワクしてくる。

長いこと自分が辛い目に遭いました〜涙的なことを書いてきたが、私は比較的軽症だったと思う。それは支えてくれている妻や異変に気づいてくれた課長のように周りの人に救われたからだ。だからもっと辛い思いをしている人は周りに頼ってみたり、それが厳しいなら推しのVtuberみたり、もっと厳しかったらコンビニでありったけの甘いものを買ってやけくそスイーツパーティを開いたりしてみて欲しい。ちなみに私はスイーツパーティの準備したはいいものの、吐き気と食欲のなさでシュークリームをちょこっと食べてあとは全部妻にあげた。また太っちゃうよと笑ってくれた。

およそストレスだとか周囲の感情の機微だとか、人間が感じるには個人差が大きすぎるんだと思う。ペットショップで子供がショーケースをバンバン叩いているのに何も注意しない親とそれをみてワンちゃんがびっくりするだろと思う人とでは日常から感じ取っている情報量が当然異なる。そりゃうつにもなるよな、人より何倍も優しいんだから。大丈夫、同じような思いをしている人はいるから。どうか自分を大事に今を生きよう。

そんなこんなで、将来的にはうつ病になる人を少しでも減らせたらいいな〜なんてふんわりと考えている。私の場合はもう開き直っちゃえと自分勝手に生きたり、信頼する人に話したり、音楽を聴いたり踊ったりして紛らわせてはいるが、一生ついてまわる持病みたいなものがうつ病だと思う。医学的な知識があるわけじゃないし、特段セラピストになりたいとかではないけど、そういった感情の発散の場であったり、行きつけの喫茶店のような柔らかな空間を作れたらいいなと思っている。少しでも心のキャパシティに余裕ができるような、そんなコンテンツを作っていきたい所存でありまんがなでんがな。

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