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心の感度は下げられる(非推奨)

傷つきやすい人間とそうでない人間がいる。

同じ自分でも、傷つきやすい日とそうでない日もある。
そして、「心の感度」はコントロールできる。

意識的に心の感度を下げていた一年ほどがある。社会人になって一年目のタイミングだった。自分の繊細さを放り捨てたかった。

人の些細な言動や小さな失敗を大したことないと思えず落ち込んだり、傷つくのが嫌だった。
音楽や物語に思いっきり感動した後に、現実に引き戻されるのが嫌だった。
とにかく、感度を下げて感情の振れ幅を小さくふることで、安定を保とうとした。

元来雑な正確も相まって、ただただ何も気にしないのは意外と簡単だった。深く考えない。丁寧に全ての感情を拾わない。思わぬスピードで感度が下がっていくのを血管の端っこで感じながら、それすら見ないようにしていた。
「見ないふりをする」能力は鍛えることができるとその頃に気付いた。

そんなふうに過ごしていたら、今までと違うタイプの人と深く関わるようになって、見ないふりを徹底した人にも出会った。それは習慣となって染み付くし、してはいけないことだと学んだのは、その一年の終わり頃だった。その人からは離れた。

感度を下げると、狙い通り些細なことで傷付かなくなる。するとなにか、自分が強くなった気がした。エンターテイメントや人の善意に感動できる「感動屋さん」は、隙があって不安定で脆い。弱い人間だと思った。

感情を拾わない、良いことも悪いことも。
そうすれば安定した気持ちでいられると思ったけど、そうではなかった。
何も拾わないということは、極端な言い方になるが、何が起こってもどうでもいいということだ。無感情になれば、隣にいる人を裏切っても、自分が何かで世界一になっても、何も感じない。ならば他人の気持ちを想像する理由もなく、何かに向けて努力する理由もない。軸が消えていく。自分が選ぶ道になんの理由もなくなる。どこで曲がっても同じ無が続いている。じゃあ全部どうでもいい。

ロボットならばそれで不都合はない。彼らに不都合という概念はない。
だけど中途半端に感度を下げた人間は、無機物になることもできない。全てどうでもいいと感じながら、割り切ることもできず自分の正しくなさを居心地悪く感じた。一人で生きてもいない。周りの人間との関わりが、じわじわと失う感情の中で億劫になっていった。せっかく安定させようとしているところに、他人は感情を介入させてくるからだ。

思いの外簡単に「心の感度」は下げられるし、傷つかないことが狙いならばその願いも叶った。恐れるものがないような錯覚に陥って、迷うことが減り、行動力もついた。
だけど自分の中に判断基準がない状態で、ならば従って生きるべきは、自分の快楽だけになった。人を裏切った。自分のことだけが大事で、でも大事な自分さえ粗末に扱っていた。

「やさぐれる」ことにオリジナリティを持たせられなかった私は、お酒をたくさん飲んだり慣れない煙草を吸ったりどうでもいい人とセックスしたり夜の湖に肩まで浸かったりしてみた。こんな恥ずかしいこと誰にも隠して生きていきたいが、自分の馬鹿さを確かめるためにここに書いている。

これは結局、極端なことをした結果だ。うまくコントロールできなかった。
結局、心の感度を下げることの弊害を身をもって知って、少しずつ歩く方向を変えて、人から離れたりして、全てをどうでもいいなんて思わなくなった。
以前ほど感動できないことが増えたけど、人と自分の気持ちを大切にしようと思うようになった。そうできるのが当たり前じゃないことがわかったから、意識的にでも。
自分をコントロール、少なくともしようとできるのは自分だけで、危機感を抱いた時から少しずつでも変わっていけるとも知った。

簡単に自分を変えたりできないし、人格を二択で決めることもできない。
結局、バランスを取って生きていくのだ。そんな難しいこと言わないでくれと思うけど。

誰かは、このプロセスを大人になるって呼んでいるのかもしれない。

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