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「視野が広がった」あとの話 「決めつける」力

日常で支障なく会話するには、「決めつける」ことが必要だ。絶対なんてないけれど、持っている選択肢の中から、会話ができる程度まで何かを「決めつけ」ないと、全ての可能性がある状態では話ができない。

視野が広がるほど、知っていることが増える。
そして、まだ知らないことの果てしなさも知る。
そしてこの世に私の知らないモノや価値観があることと、自分の知っている限られた情報から何かを判断することは、両立できる。

両立できる、はずなのだ。しかしそれが難しい。

広い世界に未知の常識がある。まだ知らない感情がある。
それを頭でわかっていて、どうして何かを決め付け、判断できようか。

今私がこの文章を打っているのも、今までの26年間の人生も、全部夢かもしれない。目が覚めたら私は、私じゃない誰かなのかもしれない。男性かもしれない。極端かもしれないけれど、否定する根拠はない。全ての可能性がある。そして全ての事象は「今のところ」今のところの状態なだけで、1秒先のことはわからず、私が知る限りで不変なものはこの世には見当たらない。

この考え方を貫いて生活や仕事をこなすことは難しい。難しい、と収めるのも、何事も「絶対に」不可能ではない、というフィルターを通して言葉を選んでいるからだ。
フラットに物事を見れているということかもしれない。だけど、フラットに見れている部分とそうでない部分があって、きっとその対象によっては私の思考は大きく偏っているだろう。これも全て可能性。フラットな視点を持っている、と言うにはもはや縛られすぎている。決めつける事への恐怖と違和感に縛られて、現れる全ての事象を一つずつ否定して、注釈を添えている間に、歳をとってしまう。

さて、私は喧嘩ができません。
現状により忠実に言うならば、自分らしさを保つことをある程度諦めなければ、人を言い負かすことは私には「難しい」。
「自分が本当に思っていること」だけを口に出すことを諦めなければいけない。これは私にとって心地の悪いものです。
そして、特に喧嘩をしたいと思うこともなく、意見が違う人と出会えば、サンとアシタカのようにそれぞれの地で生きようじゃないかと思うのです。
そして今のところ、仕事以外の私のもつ人間関係におけば、意見が合わない場合は解散して、気の合う分野に関しては合流するなんてことができる。サンとアシタカの置かれた状況より便利だ。

今年転職して働き始めた職場で、毎日顔を合わす同僚がいる。
ロジック、ロジック、ロジックを重要視しながらも、それ以上に、絶対に自分の意見を通すことを当たり前としている人だ。
世間話においても論争においても彼は自分のフィールドから絶対に出ずに、自分の知らないことや新しい情報を提示されれば不自然であろうとも無視や冗談のふりをして排除する。そして自分が正しいという結論に導こうとする。ロジックが多少破綻しても、他人への配慮が欠けても構わない。彼の目的は、言ってしまえば「勝つ」ことであるように、私には見える。
そんな人を相手にして、相手の意見にも一理あるかもしれない、とか、見方によっては結論が変わるかもしれない、などと考えていてはとうてい勝てない。

特に誰かと喧嘩をしたいと思うことはない。
競争心はあまりないし、人と争うことは避けている。それは上述のようにうまくできないからであり、居心地が悪いからであり、そもそも争いたい気持ちになることが少ないからだ。
だけど、彼は常に勝負を仕掛けてくる。
業務に関してでも、世間話でも、常に勝ち負けが設定される。

仕掛けられると、勝ちたくなった。言い負かしたくなった。自分らしくないけど認めざるを得ない意思を引きずり出されたようで、少し不快だった。

彼と毎日のように会話して、私は言い負かしたいという気持ちに負け続け、勝つために「決めつけ」ている。そして、1日経つごとに決めつけることに慣れてきたようだ。
考えるべき可能性の数が減るのは、便利で、社会を生き抜いている感じがして、「一般論」がわかったような気になって、そしてずっと、今も、存在しないと信じている「普通」に近づいている感じがして、不気味だ。

そして、不気味でありながら、これまで頭の中に渋滞していたあらゆることへの選択肢はどこかへ消え、薄まって、考えは整理しやすく、業務は捗っている。
これまでピンとこなかった先輩の話を理解して、抵抗なく話せることが増えた。

いつか私は、自分の知りうる範囲の世界で、ある程度の例外を想定しながら、実生活に即した決めつけを当然のものとするのだろうか。そんな未来が待っているなら、不便に、不便に生きていきたいと思う。
何も知らず、わからないまま、いつも全ての可能性に苛まれていたい。

だけど、不便さにしがみついても、あの時の自分ではない。
だって、一生、もやの中にいることしか思い浮かべられなかったのだ。不便だなんて思っていなかったのだ。
決めつけることを覚えた私が決めつけないことを選択したって、決めつけることを受け入れたって、もう戻れないという意味では同じなのだ。人は毎秒変わる。

これも、全て私の思い込みなのかもしれない。
「決めつける」ことができるようになったという、それは同僚の影響だという、もう戻れないという、私の。

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