「日本独立」創刊プロジェクト 唯一の戦争被爆国としての日本の針路 「核廃絶への道 隠された被爆者」
第2章 隠されたヒバクシャ
平和記念研究所での高橋博子さんとの対談(後半に掲載)は2時間近くにおよんだ。真実に向き合おうとする人に共通の光を感じた。
『隠されたヒバクシャ』に書かれたことをもとに、原資料にあたりながら、問題点を掘り下げていった。都合の悪い事実から目をそらすことの本質についても語り合った。都合の悪い事実を伏せ、都合の悪い行為は忘れたがる人間の性質についても話をした。
私たちには何が見えていて、何がまだ隠されているのか? 自分たちの立場に都合のよい世論をつくるために何が発表され、何が隠されてきたのか? 核兵器の影響を調査する「人体実験」は、どのように計画・実行されたのか?
決して目をそらしてはならない「現実」が多くの公文書から見えてきた。
プロジェクト4・1
広島市立大学広島平和研究所助手の高橋博子氏が米公文書から明らかにした事実は衝撃的だった。1954年3月1日の核実験ブラボー・ショットの写真とともに出てきたのは、その2日後、「プロジェクト4・1 放射被曝した人間に関する研究」用に、米医師が被ばくした子どもを検査している様子を写した写真だった。子どもの髪は被曝により抜け落ちている。
実験当局者である米原子力委員会は、ロンゲラップ島の住民や米兵が「非常に高レベルの放射能」で被ばくしていた「事実」を把握していたにもかかわらず、「若干のような放射能にさらされた」と発表している。(『隠されたヒバクシャ』より)
核実験による非難勧告は行われなかった。行われていないどころか、被ばくの影響を研究する「人体実験材料として住民が扱われた」疑いが強い。高橋氏が開示請求した資料は、このことを物語っている。
第一次世界大戦後の1914年、日本は赤道以北のミクロネシアドイツ領をすべて占領。1919年に国際連盟は、この地域が委任統治領「南洋諸島」として日本の統治下に入ることを正式了承した。
第二次世界大戦後、米軍がビキニ環礁を日本軍から奪取。「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(ハーグ陸戦条約)で言う占領地である。ビキニ環礁の住民は200キロ東のロンゲラップ環礁に有無を言わさず移住させられ、ビキニ環礁はその後、12年にわたって米核兵器の実験場となった。
1997年10月、米国の国立がん研究所および疾病予防センターが、50年代から60年代初めにかけて実施された大気圏核実験(ネバダ核実験場で120回以上実施された響で放射性物質が大気に放出され、汚染された牛乳を飲んだ子どもが発ガンの危険のある数値を超える被ばくをしていた可能性が高いことを発表した。
この調査は1983年に米議会の決議により開始されたもので、米国内に核実験による隠れた被ばく者が多数存在する可能性を示した報告書として世界的な注目を浴びている。
報告書によると、汚染牛乳を飲んだと見られる3カ月から5歳の子どもの被ばく線量は高く、相当数の子どもが1グレイを超える被ばくをした可能性があることがわかる。放射性同位体ヨウ素131などが風で飛散したものと推定される被ばくの影響は深刻で、被ばく線量が1グレイを超えた場合、甲状腺ガンや機能低下症につながるとされている。
1954年3月、ビキニ環礁で行われた米水爆実験「ブラボー・ショット」により発生した放射性降下物は、ロンゲラップ環礁を始めとするマーシャル諸島北部の住民多数と第五福竜丸の乗組員に「死の灰」として降り注いだ。
1997年に公開された1954年米上下両院合同原子力委員会の文書によると、実験後に住民が非常に高いレベルの放射能を浴びて被ばくしたと記されている。しかし、同じ日に同委員会は「おもいがけなく若干の放射能にさらされた」と発表した。米ソの東西冷戦下では、核実験による放射能被ばくが東側のプロパガンダに使われることを恐れたのではないかと考えられる。
このような軍事実験における「隠蔽」は、国防・外交機密という鉄のカーテンの向こう側で歴史の彼方に忘れ去られる傾向が強い。しかし、民主主義国家の健全性を担保する情報公開の仕組みが、隠された事実を今、再び問いかけてきている。
第五福竜丸の被災・被ばくに対しても、当時の米政権は責任を認めようとはしなかった。それどころか、第五福竜丸乗組員のスパイ疑惑を示唆してCIAに極秘調査を依頼し、これに当時の日本政府も協力していた疑いのあることが機密解除された米公文書によって明らかになった。
開示された「EYES ONLY」の最高機密文書でも、第五福竜丸が核爆発を偵察したり、記録する目的で危険区域またはその近くにいたことを示す直接的・間接的証拠はないことが明記されている。第五福竜丸の無線長であった久保山愛吉氏は、明らかに死の灰を浴びた犠牲者であるにもかかわらず、彼の死と被ばくの因果関係は未だに認められていない。
「私も夫もアメリカの核実験が意外な結果を生んだことに驚いていません。アメリカの科学者たちも知らなかったとか驚いたとかいって言い逃れをすることはできません。私たちの知っていることは彼らもやはり知っているのです。…原・水爆の場合、放射能の雨はアメリカも含めて何処に降るかわからないのです。このことをアメリカ国民に知らさなければなりません。太平洋をまるで自国の内海であるかのように禁止区域を設けたということだけで恥知らずなことですし、彼らが国民を無視している証拠です。」(レイヌ・キュリー博士)。
地下核実験その後の影響
1951年1月11日米国ネバダ州ラスベガスの北西約105キロの地点(面積約3万5000平方km)に、核実験場が開設された。ほとんどは砂漠と山岳地帯である。
核実験は1951年1月27日に開始され、58年まで大気圏内で約100回、58年から92年9月まで1000回以上の地下核実験が実施された。実験を行うのは、風が北か北東に向かって吹いているときに限定。南向きの場合、ラスベガスに死の灰が降る可能性があり、西や北西の風になるとロサンゼルス、サンフランシスコの大都市におよぶ恐れがあったからである。
風下となる北東地域にはユタ州南部があった。多くの被害にあった住民は、先住民と白人だったが、「少数民族」ということで無視された。
また、ユタ州南部を中心に住む白人の多くは愛国的なモルモン教徒だった。
「核実験は国家の戦力を強化し、より良い市民防衛である」、「核実験は敵の攻撃に対する防衛力を強化する」(1955年1月、アメリカ原子力委員会が作成し、ユタ州南部の住民たちに配布した小冊子「ネバダ実験場周辺地域における原爆実験の影響」より)。
このキャンペーンは成功し、愛国心を刺激されたユタ州住民は、犠牲者となりながらも「選ばれた風下の人」として賛美されている。
ユタ州南部で特に被害を受けたのはセント・ジョージ、シーダー・シティである。ラスベガスのホテルが、「わがホテルからは、原爆実験のキノコ雲が見えます」という宣伝文句を出していた時期もあったほど、政府は「核実験の安全性」を宣伝していたため、普段の生活をしていた人やわざわざ見物に出かけたモルモン教徒も被曝したことが報告されている。
ネバダ実験場では、約1000~1500回以上の地下核実験を実施しているが、他国に実験データを把握させないよう、複数の核爆弾を 同時爆発させる方法などを使って約300~500回の実験が極秘に行われている。アラスカや太平洋を含めたアメリカの全核実験は、ゆうに2000回を超える。秘密実験は、60~70年代に集中しているが、80年代の極秘実験などがある。地下核実験では、放射能が大気中に漏れ出し、環境と住民、農作物を汚染している。
1951年1月27日の初めての実験では、1ktの核爆弾が投下された。アメリカが行った核実験のほとんどは当地で行われており、この場所以外の核実験は129回のみである。
大気圏内核実験は、部分的核実験禁止条約以前の1962年まで行われており、地下核実験も包括的核実験禁止条約以前の1992年まで頻繁に行われていた。
著名な実験としては1963年に行われたストラックス(Storax)作戦があげられる。平和的核爆発の研究を目的としたこの実験では、104ktの核爆弾が使用された。この実験により、直径390m深さ100メートルの陥没口が形成されている。
報告されている実験場周囲における健康被害の多くは、大気圏内核実験により生成された、ヨウ素131などの放射性同位体の広範囲による分散で、甲状腺ガンの増加記録がある。ネバダに近接するモルモン教徒の町・ユタ州が白血病などの多大な被害を受けているのは公然の秘密とされている。地下核実験でも放射能漏れが記録され、現実に悪影響を起こしているのだが、機密扱いで隠されたままである。
核実験の何が隠され、何が公開されてきたか
核実験については、私たちに隠されていることが非常に多いことを世界のほとんどの人は知りません。それは核による惨禍が意図的に隠されてきたからだと私は思います。人類は隠された被爆者の実態を驚くほど知りません。
核を保有し、その精度や性能を高めていくには実験を重ねる必要があるのですから、必ず実験がともないます。北朝鮮の核実験を非難するアメリカ国内の実験についても、あるいは1954年の核実験ブラボー・ショット、第五福竜丸についても、ほとんど隠されています。
今から70年前、いったい何が起きたのか。
1954年当時にどういうことが起きたか。東京国際大学教授の前田哲男さんがこれまで伝承などを詳しく書かれているので、高橋博子さんが発見した90年代に公開されたアメリカの機密文書などの資料に基づいて、何が隠されてきて、何が新しくわかったのかを『隠されたヒバクシャ』で重点的に書かれている。何が隠されていたかというと、実際に被爆者が受けた被害の実態です。そして一方では、いかにこの核実験が安全で、核兵器は有益なものか、そういうロジックや資料はむしろ、積極的に公開されていたことがわかりました。
特にブラボーショットの実験では、2003年の11月ですか。高橋さんがアメリカの国立公文書館、原子力委員会・生物医学部の資料を調査されたときに、プロジェクト4・1に関する新たな資料を発見されています。高橋さんはこの実験で被曝したベティさんという女の子が、原水禁世界大会に出席するため、広島に来られたとき、弟さんとかお母様からもお話を聞いています。このブラボーショットがいつ企画されたかは、
ある程度は公開されているのですが
すぐには出ないのが現状だと言いながら高橋さんは私に一枚の写真を見せてくれました。そこには米国の医師がガイガーカウンターで被爆者の喉を計測している場面が写っていました。 甲状腺とかの腫れを見ているんでしょう、ブラボー・ショットの被曝まもない時期の写真でした。
3月1日の二日後になってようやく、ここの住民は、米軍基地に移送されていますが、放射線の人体に関する影響調査は、ブラボーショットから約二週間後ぐらいに調査団が来て調査をしています。。
米軍は、実験後すぐにやって来て、人体への影響を調査していながら、公には「たまたま風がそっちに向いていて、予期せぬことが起こった」と説明していたのです。
1963年11月の時点で、核実験に関する文書が出ているんですが、それによると、このプロジェクト4・1は当初、動物への影響を調べる実験になっていました。それがブラボー・ショットでは人体実験に替わっているんですが、どういう経緯で入れ替わったのか。本当に偶発的に入れ替わったのかについては、本当に議論の的になっていますし、まだ十分な証拠が出揃っていません。
当時は「若干の放射線にさらされた」と発表していますが、新しい資料では。
相当程度の放射線を浴びているという記述があります。
これは議会の上下両院合同原子力委員会の資料です。議会の原子力委員会の資料はずっと機密扱いになっているものがありますが、90年代に機密開示されました。私が目にした資料は高橋さんたちが被曝関係の文書ばかりが集まっているボックスを請求して公開された文書です。
それを見るといかに政府当局者がしていたことと、公表していることとにギャップがあるかがわかります。この文書で重要なのは、放射性降下物の影響を実験当局者の原子力委員会は否定していることです。放射光降下物の影響については、1953年1月の公式声明で、影響はないとしています。放射性降下物はないという前提で実験をしているので、ないというロジックを言いつつも、この実験上、被爆者が出ても構わないということです。
とんでもなく恐ろしいことです。アメリカ国内の州についても、「名誉ある風下の人たち」(核実験場の風下に住み被曝した人たち)という形で、いわゆる国家の安全保障のために、多くの方々が犠牲になっているという資料もあります。どこが名誉でしょうか?被曝した人たちは、そのことさえ知らされていなかったのではないかと思います。
被爆した第五福竜丸へのスパイ容疑
日本では、第五福竜丸も、当時はソ連のプロパガンダ、スパイではないかとあらぬ疑いをかけられ非難されました。しかし、今では、CIAが被曝の調査をした「アイズオンリー」の資料も発見されたのでした。
調査の依頼主は実験責任者であるルイス・ストローズ。依頼を受けたのが、特にアジアに対する秘密工作では陰でかなり動いていたという、フランク・ウィズナーというその方面では有名な人物でした。調査報告書が添付されて、第5福竜丸がスパイ活動をしていたという証拠はなかったと。
ストローズ氏からウィズナー氏への返信も、文書として開示されています。
資料そのものは、機密開示文書資料集の1998年版にあったのですが、年度ごとに各省庁で公開した文書を編集している資料集でして、マイクロフィルムの形で公表しているんですが。国会図書館にもあるとのことでした。
アメリカの原子力委員会は、久保山愛吉さんが被爆後、一年以内に亡くなっているにもかかわらず、未だに死因は放射線被曝を直接の要因としないという見解です。
あたかも福竜丸の乗組員たちは回復して大丈夫みたいな記述になっています。こういう資料にあたる歴史学者でさえそうですから、基本的に変わっていないと言わざるを得ません。。検証そのものが、なされていないということです。
米国は、表向き自由や正義を言うのですが、核の問題については、事実に向き合うどころか隠蔽してきたと思います。
事実を隠す巧みさ
この件に限らず、原爆の問題も含めて、資
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