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月虹 前編

    1

 無数のカエルの鳴き声に包まれ、星ひとつ見えない曇天の下を、私は歩いていました。
 6月の夜。
 左には川が流れ、川の向こうも右側にも田んぼが広がる、誰も通っていない道。
 右の田んぼの向こうには林があり、そのさらに向こうにある大学は見えません。左の川の向こうの田んぼの先には家々がポツポツと建っていますが、どの家にも灯りは点いていませんでした。
 その日の夜は暖かく、むせ返るような緑の匂いが立ち込めていました。 
 これから雨が降るのかもしれないな。どうせ降るならおもいっきり降って、びしょ濡れにしてほしい。
 そう思いながら空を見上げると、夜でもわかるくらい低く黒い雲が立ち込めていました。

 こんな時間に散歩に出ようと思ったのは、眠れなかったからです。
 この仕事は自分には合わない。そう思いながら、数十年も同じ仕事をしてきました。転職も考えたこともありますが、どこも私を雇ってはくれませんでした。
 ここしかないのか。
 そうあきらめながら働き、数年するとまた転職を試みて失敗。その繰り返しでここまで来てしまいました。
 インターネットを使ってできることはないかと検索して、せどりや転売をしたこともありますが、資金がなく、売れると言われた商品も売れることなく、わずかとはいえ在庫を抱えたままやめました。
 他に自分にできることはないかと自分を見つめ直したり、発見したりという講座に申し込んだこともありますが、それで自分がお金を頂いてやっていけるようなことはありませんでした。
 インターネットを使ってお金を稼ぐことも、転職もうまくいかず、けっきょくはふりだしに戻り、また今の仕事を続ける。
残ったのはインターネットビジネスの講座や自己啓発講座に支払ったカードローンだけです。

 これまで付き合った人も何人かいました。
 でも、いっとき一緒に並んで歩いてくれた人は、みんな私から離れていきました。
 ある人は他の人を好きになり、ある人は私との未来が想像つかないといい、ある人は亡くなりました。

 私はこのまま一人で人生を終えなければいけないのだろうか。
 そんな不安が見えない煙のように立ち込め、部屋中を埋め尽くし、暗い部屋が闇に包まれたような感覚になり、光を求めて、私は急いで着替えて外に出たのです。
 でも、外には光がありませんでした。低く黒い雲が空一面を覆っていて、やたら間隔が広い電信柱に点いている灯りがあるだけだったのですから。
 道を進むと、神社がありました。
 杉や松や桜の木に囲まれた神社。
 鳥居の中は暗く、かろうじて木々の隙間から差し込む街灯の光がわずかに中を照らしているだけでした。
 夜の神社に入るのは、神様に失礼なのではないだろうかと思いながらも、どこかで休みたい気持ちには勝てずに、私は鳥居で一礼し、おじゃましますとつぶやいて中に入りました。
 さすがに鈴を鳴らしたりお賽銭を入れて音を出すのはやめて、拝殿の遠くから手を合わせ、境内の隅にある古びた木のベンチに座りました。
 ふと気がつくと、あれほどのカエルの鳴き声がまったく聞こえません。木々に切り取られた空には、あいかわらず低く黒い雲。
 空から地面に視線を戻すと、いつの間にか三毛猫がいました。後ろ足を折り曲げ、前足を立たせて、私を正面から見ていました。
 目が合ってしまったので離れるのかと思っていたら、猫は私の方にやってきて体を擦り付けながら、私の脚を何度かまわり、右足のすぐ横で、またさっきのように後ろ足を曲げ、前足を立てて私を見ました。
 私に何か言いたいのだろうかと思いましたが、残念なことに猫の鳴き声を聞いても私には何を言っているのか理解できないし、黙って見つめられていては、もっとわかりません。
 猫がすっと私から空に顔を上げました。
 私もつられて空を見上げました。

 神社の上にあるところだけ厚い雲が割れ、満月が見えていました。
 そして、月の一回り大きい円に虹色が輝いていました。
「月虹だ」
 私が声に出すと同時に雲が再び集まり、あっという間に月を隠してしまいました。
 猫を見ようと視線を下げると、そこにはすでに猫はいませんでした。
 そろそろ帰ろう。
 立ち上がると同時に、雨が降ってきました。

     2
 テレビも音楽もネットで何かを見てもすべてがつまらなく感じる夜だった。
6月の夜。
 真夏日でも熱帯夜でもないが、梅雨の湿気が部屋中にこもっていて息苦しささえ感じた。
 大きく深呼吸をして、タバコを吸おうと箱を開いたら、残りが少なかった。体調が悪いわけでもないのに動くのも億劫だったが、しかたがないと思い、一服をすませてコンビニにタバコを買おうと部屋を出た。
 出てすぐに、むわっとする湿気と暑さ、草木のこもったようなにおいがしたので、傘を持つことにした。
 日中はあれほど通っている車が一台も走っていない道を歩き、空を眺めると低く黒い雲が一面を覆っていた。

 今の職場には不満はない。福利厚生もしっかりしているし、俺のような非正規社員にもわずかとはいえボーナスも出る。職場の同僚達は、まあどこに行ってもそうだろうが、合う人もいれば合わない人もいるし、何年働いても駄目な人もいれば、数年で上に行く人もいる。
 非正規社員とはいえ、働きぶりはボーナスや昇給に響く。昇給と言っても年に時給が10円か20円上がるだけだが。
 若い頃はまだやり直しがきくと思っていたし、本気でやりなおそうと思っていれば、やり直せただろう。
 生活もなんとかなっていた。
 正社員と比べればそりゃあ生活水準は低い。ブランド物の服を最後に買ったのはいつだろう。旅行に最後に行ったのはいつだろう。
 それでも、音楽を聴き、映画を観て、同僚や友人と酒を飲み、カラオケに行き、恋人がいたときもあった。
 きっとこの生活に慣れてしまっていたのだろう。
 気がついたらかつてのクラスメイトや部活の仲間たちは結婚し、家庭を築き、ある人は離婚したし、ある人は家族仲良く暮らしている。
 ある人は会社役員になり、ある人は投資で早期リタイアし、ある人は独立している。
 俺と同じく非正規社員だった友人も何人かいたが、いつの間にか正社員になっていたり、夢を叶えて歌手や作家になったりしていた。歌手になった友人は今でも非正規社員だが、休日や長期休暇や有給を使ってライブやレコーディングをし、年に2枚ほどのシングルを発表し、数年に1枚アルバムを発表し、どのくらいかは教えてはくれないが、契約更新できるくらいは売れているらしい。
 作家になった友人は、本が売れなくなったと嘆きながらも1年に1冊か2冊刊行し、昨年刊行した本が映画化されることになり、過去の本が再び売れたりしている。
 俺は。
 いったい俺は何をしてきたんだろう。
 俺はここで何をしているんだろう。
 立ち止まって空を見た。
 あいかわらず低く黒い雲が一面を覆っていた。
 そして、頬に一滴の雨が落ちた。
 降ってきたか。
 そう思うと同時に、雨粒が見えるほどの大きさになり、またたく間に大雨になった。
 急いで傘を差した。
 数歩すすんで立ち止まり、俺は傘を閉じた。
 雨が全身を、下着の中も靴の中も濡らしていく。
 すすんで雨に濡れたのはいつ以来だろう。高校生の時はずぶ濡れになっても平気だった。友人と一緒にいるときはむしろお互い笑いながら楽しんでいた。
 手で拭っても拭っても目に入ってくる雨。
 俺は店員に申し訳ないなと思いながら、再びコンビニに向かった。
 道の前に人影が現れた。
 傘を差していない。
 うなだれたように歩くその人影は女性のようだった。女性が出てきたところは神社だった。
 理由はわからないが、この雨の中、自分と同じく傘もささずに全身濡れながら歩くその人に共感した。
 ゆっくりと歩くその人に、俺は自然に追いついた。
「あの」
 雨の音で聞こえないのか、考え事をしているからか、両方なのか、俺の声は女性には届かなかった。
 俺はもう一度、今度は大きな声で、あの、と言った。
 驚かれると思ったが、女性は立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
 ショートの髪は顔に張り付き、雨は髪の先から首へ、そして肩に流れ落ちていた。
 濡れた服は下着と体のラインをくっきりと見せていた。細い体に大きくも小さくもない胸の膨らみブラジャーのライン。七分丈のパンツにも下着のラインが浮かんでいて、脚は細すぎず、すっとまっすぐに伸びていた。スニーカーはおそらくもう濡れてしまっていて、歩きにくいだろう。
 落ちてくる雨が目に入るので、俺を見る目は眩しいものを見るような目になっていた。俺も同じ目をしていただろう。
「今さら必要ないかもしれないけど、これ使うか」
 俺は自分の傘を差し出した。

     3
 雨はあっという間に大雨になりました。
 頭からスニーカーまで濡れてしまうのはすぐでした。
 でも、大雨に当たり続けるのはとても心地よかったです。
 私が抱えているこの思いも流してくれているような気持ちになりました。目をつむって上を向き、雨を全身に浴びました。
 髪が顔に、服が体に張り付きました。下着の形がくっきりと浮かんでいるんだろうなと思いましたが、どうせ誰も歩いてはいないだろうし、こうして大雨に打たれていると、それもどうでもよいことのような気がしてきました。
 そうは言っても、帰り道くらいは雨に当たらずに帰りたくもなり、近くにあるコンビニで温かい飲みものと傘を買うために向かいました。
 スニーカーの裏がすり減ってきていたので、滑るといけないと思い、私は下を向いて歩きだしました。
 人の声が聞こえたように感じましたが、気のせいだろうと思い歩き続けると、大雨が道路に打ちつける音よりも大きな声で、あの、と男の声が聞こえました。
 こんな時にこんなところで、しかもこんな姿で呼び止められてしまい、どうしようかと思いましたが、私は立ち止まってしまいました。
 逃げても追いつかれるだろうとあきらめ、そしてこの大雨に打たれ続けているせいか、どうにでもなれという気持ちもあり、私は振り返りました。
 黒か紺のロングTシャツは雨に濡れてしまってどちらの色かわかりませんでした。痩せていましたが、ひ弱な感じはありません。背筋をすっと伸ばして立っていて、ジーンズも濡れていました。素足にサンダルを履いていて、いかにも近所のコンビニになにか買いに行くのだろうという感じでした。
 ただ、その男性は傘を持っているのにも関わらず、閉じたままでした。
「今さら必要ないかもしれないけど、これ使うか」
 男性は雨が目に入るから、眩しいものを見るような目で私を見ながら、そして眉間にしわが寄らないように努力しているような感じで言いました。
「いえ、こらからそこのコンビニで買うので大丈夫です」
 私も大きな声で応えました。
「そっか。まあそれにいま気がついたけど、この雨じゃあ、もう傘の中にも雨が入っちゃってるから、広げると傘の内側からしずくが垂れるかもな」
 男性は私に差し出していた傘を引っ込め、その傘を見ながら言いました。
「あの、なんで傘を差していないんですか。私は持っていないからこんなに濡れてしまっていますけど」
 私がそう言うと、男性は苦笑いのような照れ笑いのような笑みを浮かべ言いました。
「この歳になってこんなことをいうのも恥ずかしいんだけどさ。久しぶりに大雨に打たれてずぶ濡れになりたい気分になったんだよ」
「私と一緒ですね」
 言ってからハッとしました。今あった人、しかも男性に。
「コンビニの店員以外は誰とも会わないだろうと思ってね。でも、会っちゃったな。しかも同じ思いでずぶ濡れになってる人と」
 私たちは自然と微笑みあっていました。
「行き先も一緒だし、このままこんな雨の中で話すのもなんだから、とりあえずコンビニに行こうか」
 そう言うと、男性は傘をさして、よしと一言言うと、私も雨から守ってくれました。
「あ、嫌なら嫌って言ってくれ。俺はもう傘はあってもなくてもいいから」
「じゃあ、なんでさしているんですか」
 歩き出しながら、きっとこの人なりに気を遣ってくれているのだろうと思いながら、私は言いました。
 男性は前を見たまま数秒黙ったあとに言いました。
「まあ、そこは男の強がりだってわかってくれよ」
 さっきと同じ、苦笑いのような照れ笑いのような笑みを浮かべて男性は言いました。
「わかっていました」
 私も笑顔で言いました。

    4
 大人の男女が深夜にずぶ濡れで入ってこられたコンビニの店員ってどんな気持ちなんだろうなと、申し訳ない気持ちを持ちつつも中に入り、タバコとホットコーヒーを買った。小銭入れは濡れて湿っていたが、小銭は冷たくなっているだけだった。
 入り口を出て灰皿置き場へ向かい、タバコに火をつけた。
 蒸し暑い夜だったが、さすがにこれだけの大雨が降り続くと気温も下がる。深夜に濡れたせいで、寒くもなってきた。
 タバコの煙とコーヒーの温かさが、体を温め、心を落ち着かせてくれた。
 女性が買い物を済ませ、俺の隣にやってきた。
「あの、ありがとうございました。これ、使ってください」
 女性を見ると、買った傘を腕にかけて、コーヒー持っている反対の手に白いフェイスタオルがあった。
「いや、いいよ。使ったらほら、洗って返さなきゃいけなくなるから」
 俺はそう言いながら、根本まで吸ったタバコをもみ消して灰皿の中に入れた。
「そうですよね」
 女性が残念そうに言ったように聞こえた。
「あの、ちょっと待ってもらえますか」
「うん」
 俺の返事を聞くと女性は再びコンビニに入り、店員に何か言っていた。店員は笑顔でうなずいていた。
 コンビニから出てきた女性は俺の近くに来てこう言った。
「もしよかったらなんですが、中で少しお話しませんか。あの、いえ、そういうんじゃないんですけど。いや、そういうんじゃないだと失礼ですね。えっと」
 女性がさっき雨の中で言った言葉を思い出した。
 私と一緒ですね。
 女性はさっきそう言っていたな。
「こちらこそ、俺なんかでよかったら」
 女性は驚いたような顔をして俺を見たあと、はにかむような笑顔になり、じゃあと言って、コンビニに向かった。

後編へ続く

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