見出し画像

月虹 後編

※ひとつ前の記事に前編があります

    5
 男性が差してくれる傘の中に入るのは何年ぶりだろうと思いながら歩いているとコンビニに着きました。
 お互いに傘に当たる雨の音を聞いているだけで、会話はありませんでした。
 男性はすぐに買い物を済ませ、入口近くでコーヒーマシーンにカップを置いていました。
 私は傘を手にして、奥に進み、ハンドタオルを二枚手に取り、レジでコーヒーも注文しました。
 久しぶりに大雨に打たれてずぶ濡れになりたい気分になったんだよと言った男性の言葉が残っていました。
 どうしよう。
 自分から男性にもう少し話したいと言うのは、今までの私には経験がありません。でも、今日はあの人ともう少し話したい気持ちが膨らむだけでした。
 男性は外に出て、タバコを吸い出しました。
 カップをコーヒーマシーンに置いて、ボタンを押し、コーヒーが注がれるのを見ながら、私は鼓動が早まるのを感じながら、どうしようか迷っていました。
 コーヒーが注がれ終わり、カップに蓋をして、私は外に出ました。
「あの、ありがとうございました。これ、使ってください」
 ハンドタオルを差し出しましたが、男性は返さなければいけなくなると言って受け取りませんでした。
 男性の返事を聞いて、私は決めました。
 コンビニに中に戻り、店員に帰る時にこのハンドタオルでちゃんと椅子を拭くので、中に入って話してもいいかと聞くと、店員は笑顔でどうぞといい、吹くのも俺の仕事なんで、そのまま帰ってもいいですよと言ってくれました。
 ハンドタオルを受け取り、またこのコンビニで会うのはどうかと聞かれても、男性と話すことにしていました。
 でも、ハンドタオルを受け取り、連絡先を交換しようと言ったら、そのまま帰ろうと思っていました。
 外に出るときに、男性に気づかれないように、深呼吸をして近づきました。
「もしよかったらなんですが、中で少しお話しませんか。あの、いえ、そういうんじゃないんですけど。いや、そういうんじゃないだと失礼ですね。えっと」
 自分なりにけっこうな決心をしたはずなのに、いざというときにまともな言葉が出てこない自分が情けなくなりました。
 頭の中が真っ白になりました。
「こちらこそ、俺なんかでよかったら」
 ああ、この人はこんな笑顔をするんだな。
 さっきの雨の中での苦笑のような困ったような笑顔とは違い、とても安心する笑顔でした。
 今度は私が上手く笑顔ができませんでした。
 照れ隠しで、じゃあと言って、すぐにコンビニの中に向かいました。

 コーヒーを飲みながら、お互いになぜこんな雨の中、雨に濡れたくなったのか、そもそもこんな時間に外に出たのかを話し、もう一杯ずつコーヒーを飲みました。
「あなたなら、次を探して今のところを辞めることができるんじゃないかなって思ったんだけど」
「そうなんですよね。そう思って転職しようとしたんですけど、どこも雇ってくれなかったので」
「なんでだろうな」
「わかってるんです。たぶん今まで面接を受けたところは、こことは違う意味で私には合わない仕事だから。それが面接の時に向こうに伝わっちゃってるから、採用してくれないんだって」
 男性は正面を向いたまま、目だけ上を向きました。考え事をするときの癖なのかもしれません。やがて私を見てこう言いました。
「なんでまた自分に合わない仕事を選ぶのかがわからないんだけどさ、まあ、こういう言い方しかできないけど、やったことがない仕事って、やってみなきゃわからないところもあると思うんだけどなぁ。最初っから向いてない合わない仕事も、自分ではもうわかってると思うし」
 言葉だけだときつめの言い方でしたが、この人が言うとなぜかそうは感じませんでした。
「そう、ですよね」
「もしかしてだけど、合うか合わないかで選んで、そもそもの自分がやりたい事をはずしてるとか、見失っているとかかな」
 ああ。
 そうでした。私は自分がやりたいことではなく、自分がやれることばかり探していました。転職も、インターネットを使ったことも。
 自己啓発セミナーも新たな自分を発見する、自分の可能性を見つける、そういうものばかり受けていました。たしかにそれで見つけた新しい自分もいました。
新しい可能性も見つかりました。その可能性はやってみたけどうまくいきませんでした。
 付き合った人とのデートも、基本は向こうに任せっきりでした。私の意見を言うのは、食べたいものは何かという質問くらいでした。
 そう、転職のために面接を受けたときも、自己啓発セミナーのときも、恋人がいたときも、そこに私は、私自身はいませんでした。

 それで私、何をしたかったんだっけ。

     6
「もしかしてだけど、合うか合わないかで選んで、そもそもの自分がやりたい事をはずしてるとか、見失っているとかかな」
 しまった。ちょっときつかったよな。初対面の人に向かってこれは駄目だろ。
 女性はしばらく黙って、やがて首から力が抜けてかくっと頭と肩を落とした。
「ごめん。今のは言いすぎた。今日会ったばっかりであなたのこと、何もわかってないのに」
「いえ、仰るとおりです。私、自分がやれることばかり探して、自分がやりたいことを見失っていました。馬鹿ですね。そのおかげで、いろんなことを無駄にしてしまいました」
 女性は下を見たまま言った。
 いや、違う。それは違う。
「あの、俺が偉そうなこと言えないのは承知で言うけど、無駄なことはなにもないと思うよ」
 自分で言いながら、自分で気づいていく。そうか。そうだったんだな。
「何も役に立っていないと感じているかもしれない。何も活かせていないと思っているかもしれない。けどそんなことはないはずなんだ。
 何かしらの役に立っているはずだし、これからいつかどこかで役立つ時が来るはずなんだよ。
 だって、あなたが自分で選んで受けた講座なんだから。あなたが自分で決めて付き合った人たちなんだから。まあ、転職しようとした面接は違うかもしれないけど」
 そこまで一気に言うと、女性は初めは無表情だったが、やがて笑顔になった。
「ありがとうございます。そうですね。そうですよね。今日、あなたに出会えて良かったです。私の良くないところや考えなきゃいけないこともわかりました。
 そして、私が今まで生きてきたこと、やってきたことも無駄ではなかったことにも気づけました」
 体ごと俺に正面を向けて、真剣な顔になった女性は、本当にありがとうございましたと言って、両膝の上にそれぞれ手を乗せて、頭を下げた。
「あ、やめて、頭を上げて」
 俺は慌てて言った。
「いや、今言ったことは、言いながら気づいたんだけど、自分にも言ってたことだから」
 今の職場で非正規社員の俺にできることなんてもうない。ひたすら、違うけれども似たような毎日を過ごしていくだけだ。
 それなら、仕事は他に見つからなければ見つかるまで今の職場にいるしかない。今の仕事以外で自分がやりたいことをやればいいだけだ。
 気づいたんじゃない。
 わかっていたのにやらなかっただけだ。
 今のこの時代だから、若い頃はできなかったこともできる。素人でも。
「あの」
 女性が心配そうに俺を見ていた。
「あ、ごめん。俺こそ、今日あなたに出会えて良かったよ。ありがとう」
 今度は俺が女性に頭を下げた。
「駄目です。頭を上げてください」

 店員からボールペンを借り、ゴミ箱の上にあるチラシの白い部分にお互いのIDとアカウント名を書き、ふたつのSNSで交換した。
 外に出ると小雨になっていた。
 空を見上げると、あれほど低く黒かった雲が、高い位置にあり、白くなっているところもあった。
「あ、あれ」
 女性が空に指を指した。

     7
 小雨になっていた空が明るく感じました。
 もしやと思い西の方角を見ると、そこに満月がありました。
 雨が降る前に見たときのように、白く輝く月の周囲に円を描いて虹が出ているように見えました。
「あ、あれ」
 つい指を指して声を出してしまいました。
「ああ、月虹だね」
「げっこう?」
「そう。月の虹って書いて月虹。こんなに綺麗に見えたのはいつ以来だったかな。ずいぶん前のことだから忘れたよ」
 男性は穏やかな表情を浮かべ、微笑んでいるようにも見えました。出会ったときと違い、何か憑き物が落ちたように見えました。
「私は初めて見たかもしれません。今まで見たことがあるのかもしれないけれど、意識していなかったかも」
「月虹は縁起がいいんだよ」男性は月を眺め、穏やかな表情のまま言いました。「あなたは守られているとか、良いことが起きるとか」
「そうなんですね」
 私は男性を見ていたい気持ちを抑え、月を見ました。
「ま、科学的には昼に見る虹とでき方は一緒らしいし、雨が降っているしね。雨が降る前兆としても出ることがあるらしいけど」
「信じる者は救われるって言いますから」
 そう思いたかっただけかもしれません。けど、そこまで言って思い出しました。
「私、神社で休んでいた時に、猫が近寄ってきたんです」男性に神社で起きたことを簡単に話して、私は続けて話しました。「たしか、神社で猫を見たり、猫が近寄ってくると、それも縁起が良かったような」
「ああ、聞いたことあるなぁ。でも、具体的にどんなことかは忘れちゃったけど」
 男性は私を見て、笑顔で言いました。
 私も、いつからか自然に笑顔になっていたことに気づきました。

 男性は部屋の近くまで送ってくれました。
 ずいぶん遠回りになるのではないかと聞きましたが、それほどでもないと言って、そのまま私たちはそれぞれの部屋に戻りました。

     8
「じゃあみなさん、今日もありがとうございました。またライブか収録でお会いしましょう」
 俺はスマホに表示されている停止ボタンを押した。
 子供の頃、テレビばかり見ていた俺は、大人になったら中継をする人になりたかった。レポーターだ。
 中学生の頃にその夢は具体的なり、自分が住んでいるこの地元を、もっと多くの人に知ってもらいたいと思うようになった。
 それは市外や県外の人だけではなく、市内に住む人にも向けてだった。
 俺はこの街が好きだ。
 ただし、人口は減り続けている。
 せめて市外に出ていってほしくない。
 中学生の俺はそう思い、この街の魅力を探すことにした。
 しかし、父親が病に倒れ、保険金だけでは入院治療費を捻出できず、母親がかけもちで働くことになった。
俺と妹は交代で父親の見舞いや着替えをもっていった。
 そこで俺は大学進学をあきらめた。
 家計を助けるため、当時中学生だった妹に、せめて高校に通ってもらうため。
 奨学金は返済が苦しいと聞いたことがあったので、妹にそういう思いをさせたくはなかった。
 そして、俺の夢も途絶えた。

 正社員になると転勤がある。
 転勤がなくて、かつ正社員で働けるところを面接したが、高校卒業に間に合わず、けっきょくパート扱いでフルで働く道を選んだ。
 最初の数年は正社員と給料の差はさほどなかった。ボーナスは初めから開きがあったが、俺は気にしていなかった。
 そして気がついたらこの歳になっていたということだ。

 夢を忘れていたというより、今さらという気持ちが多かった。
 スマホで動画ライブや音声配信ができるアプリができたのは知っていたし、俺も見たり聞いたりしていた。でも、自分でやろうとは思わなかった。
 この歳になってそんなことをしてもどうせ誰も聞いてくれないだろうと、最初から決めつけていた。

 あの日、彼女と出会った日の夜に俺は動画ライブと音声配信アプリの両方に登録して、自分のチャンネルを作った。
 そして次の休日に初ライブ、初配信をした。
 許可の必要がない、市の公園に入り、公園内にある施設や銅像、石碑などを案内した。
 俺が選んだアプリがよかったのか、数名が見てくれたり聞いてくれて、流れるコメントも温かいものばかりだった。
 気を良くした俺は休日のたびにリアルタイムでライブを立ち上げた。
 仕事の日は収録したものをアップした。
 店や施設で許可を得てやることも増え、回を重ねるたびにリスナーがわずかとはいえ増えていった。

「おつかれさまです。今日も楽しかったです」
 彼女からLINEが届いた。
「ありがとう。少し休んだら次もやるよ」
「もちろん聞きます」
 付き合っても丁寧語のままなのがちょっとひっかかるけど、ずっとそうしてきたらしく、急には変えられないそうだ。

 やり続けていると、何かが変わる時が来る。
 それは気持ちが変わるかもしれないし、現実に何かが動き出すのかもしれない。
 俺に一通のDMが来たのは2週間前だった。
 民放のラジオに毎週出てくれないかというオファーだった。
 信じられないので、ラジオ局に電話をしたらほんとうの話だと知り、二重に驚いた。
 ラジオ局内に地元で俺の音声配信を聞いている人がいて、その人が会社に紹介したそうだ。
「すごじゃないですか。夢が叶ったんですね」
 彼女は泣きながらそう言って、俺に抱きついてきた。
 言葉は丁寧だが、行動は大胆な時がある。
 そういえば出会った日もそうだった。

 やってみなきゃわからないもんだな。
 改めてそう思い、俺は音声配信アプリを立ち上げた。

     9
 動画配信アプリの彼のライブが終わったので、すぐにLINEを流しました。
 彼からもすぐに返事が届きました。
 またすぐに音声配信アプリを立ち上げるらしいので、今度はそれを聞きながら、作業をしようと思い、ブルートゥースのイヤホンをつけました。
 餌を各皿に用意して、三段になっている台車に乗せて、台車を押して歩き出しました。
 何らかの事情で飼い主がいなくなった動物たちの食事の時間。

 子供の頃の夢は看護師になることか、ペットショップで働くことでした。
 しかし、周囲からは私のような動きが遅い人は看護師にもペットショップにも合わない。合わないどころかやっていけないと言われ続けました。
 たしかにテレビで見る看護師はとても動きが早いですし、頭の回転も早いです。ペットショップはホームセンターの中にあるペットコーナーしか見たことがありませんが、たしかに常に動いているイメージでした。
 とろい、どんくさいと言われていた私は夢をあきらめ、大学在学中に簿記検定2級を取り、事務職に就きました。
 しかし、事務職もスピードを求められます。
 色々と私なりに調べた結果、事務職を選んだのですが、思っていたのとは違っていました。
 事務職は私には合わなかった。
 そう思い、ハローワークに行って、他の仕事を探し始めました。
 販売員、営業、宿泊業などの面接を受けましたが、採用にはなりませんでした。
 私には行き場がないのだろうか。
 そんな思いを抱いたまま、ずっと生きてきました。

 あの日、彼と出会い、私の中で何かが変わりました。
 転職しなくても、自分がやりたいことをやれないか。
 ある日、テレビを見ていたら、飼い主を失った動物をあずかり、世話をして、譲渡会や実際に着ていただける方へお譲りするNPO法人が紹介されていました。
 これだと思った私は、市内でそのようなNPO法人がないか調べました。
 3つ見つかり、それぞれに見学を申し出たところ、3つとも快く受けてくださいました。
 その中で私が一番気に入ったところに、自分もここで働かせてくれないかと申し出たら、いつからこれますかとすぐに応えてくれました。
 給料はおそらく今より減りますよと言われましたが、自分がやりたいことをやらせていただけるのですから、極端に減らなければとお願いしました。
 提示された給料は当時の給料よりもじゃっかん多かったのですが、営利団体ではないのでとボーナスがありませんでした。

 今は、この子たちが再び幸せになる、連れて行った方々もそのご家族も幸せになる、そこをつなげる仕事をしているのだと思うと、私自身も幸せな気持ちになります。

 あの日、彼と出会い、しばらくSNSでやり取りをしていましたが、その後、ランチを一緒に食べたり、映画を観たりと実際に会う回数が増えていき、彼から正式に付き合ってほしいと言われました。
 先日、彼が言っていました。
「あの日、ふたりで見た月虹。俺は忘れることはないよ。だって、俺たちは守られてるってことなんだからさ」

 そうそう、神社で猫が近寄ってきたら、神様に導かれているとか、幸運が舞い込む前兆だとか、その他に憑き物を払ってくれたということらしいです。
 私たちは守られているうえに導かれている。
 付き合って間もない頃、その話をして、私たちは最強なんですねと彼に言ったら、こう返してきました。
「助走が長い分、高く飛べるそうだよ。
 つまり俺たちはこれから今までよりも随分高いところに飛べるのかもしれないな」

 私はともかく、彼はそのようです。

     終


※各種ライブ配信で朗読配信をされている方へ

この作品が気に入ったら、朗読配信に使っていただけませんか?
私への承諾は必要ありません。ただし、以下の注意事項をお守りください。
●注意事項●
・作品を朗読する際は、作品タイトル及び私の名前を、放送のタイトルまたは説明分に明記してください。
・作品の一部のみを読む、セリフ部分のみを読む等の抜粋は可能ですが、作品自体の改変行為は禁止といたします。
・朗読配信は、無償配信に限ります。(有料配信での朗読をお考えの方は、↓の「有料配信・実際の会場などでの朗読をご希望の方へ」をご一読下さい。)
・数回に分けて配信してもかまいません。
・任意であり、強制ではありませんが、このページのリンクを概要欄などに貼っていただくと嬉しいです。

●有料配信・実際の会場などでの朗読をご希望の方へ●

※有料配信をご希望の方
・有料配信ともなると、金額や規模の大小問わず、それは「継続的に収入を得るための仕事」だと認識しております。たとえ無償で朗読配信を許可しているとしてもです。
 以上から、有料配信をお考えの方は、配信をする前に交渉・契約を交わすため、下記のアドレスにご一報下さい。
 ryuichiharada813@gmail.com

※会場などの朗読会での朗読をご希望の方
・インターネットではなく、実際の会場などでの朗読会は有料であったり、ボランティアであったり、様々な状況がありますので、一概に報酬の有無をここで述べるわけにはいきません。まずは下記のアドレスにご一報下さい。
 ryuichiharada813@gmail.com

※各種媒体への掲載をご希望の方
・媒体も有料無料様々ありますので、こちらも一概に報酬の有無を述べるわけにはいきません。下記アドレスにご一報下さい。
 ryuichiharada813@gmail.com

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?