年子3人忘備録11

[前回のあらすじ] 0・1・2歳を連れての買い物術やお風呂戦術を見出し、なんとか日常を過ごしていたが、母乳育児の限界を迎える。。

あーさんが3歳の春を迎える頃には、イニシャルDもテキトー’Sキッチンによる離乳食が与えられていた。1年前は「食べながら寝る、寝ながら食べる、さあどっち!」が頻発していたあーさんも、直手(じかて)ではなくお食事ツールを使用してご飯をいただけるように成長した。しかしながら、あーさんはデリケート風情を醸し出し、「初めて目にするものはいただけません」をやたら使ってくる。反面、あーさんにつられてお食事ツールを必死で使うみーこは、食べ方こそまだ上手ではないものの、どんな食材でも「どんとこい」だ。あーさんとみーこ、合わせてプラマイ0のお食事タイムにミスターテイスティングことイニシャルDが参戦する。

イニシャルDは食に関して非常に神経質だ。あくまでも食に関してのみ、であることをここにはっきりと記しておこう。成長した今現在も残る神経質さといえば、賞味期限を100%信じていることや、いわゆる「3秒ルール」は彼の中に存在しないことである。

イニシャルDのテイスティングは母乳から始まった。昔は乳母(うば)の母乳で育つ赤子がいたように、平成初期のとある界隈でも母Aが飯炊や風呂の世話で手が離せない時、母Bないし母Cが母乳を飲みたそうにしているベビーの乳母になることがあった。イニシャルDは必ずテイスティングをして「これ、違います」と言わんばかりに拒否し乳母の笑いをとった。

離乳食も必ずペロっとひと舐めしていたが、そのころは毎晩のように公園仲間と協力体制で夕食と風呂のミッションをやっつけていたので、あっと間に色々なものを食べられるようになっていた。母の数だけ手作りのおかずも揃い、今思えば様々な家庭の味をキッズたちはいただくことができ幸せだったのではないだろうか。

好き嫌いが多いあーさんも、みんなが食べてるから食べられるようになったものも少なくない。母たちは自分の子ではなくても、残さず食べることを躾けていた。自身の子だけを特別扱いする母がいなかったのもありがたいコミュニティーだった。

みーこのデシベル被害は、このコミュニティーにも及んだ。我々に課されたミッションは「みーこを泣かすな」である。2歳を過ぎデシベルに磨きをかけたみーこは、眠くなると妖怪「ままかいー(ママがいい)」に変身した。こうなるとみーこが寝るまでそこにいる全員がデシベルに耐えねばならない。妖怪ままかいいは、その音が止むまで母の背中におぶられた。食べるときは手間がかからないみーこであったが一長一短とはよく言ったものだ。

イニシャルDの離乳食は進んだものの断乳はまだまだ先のこととなる。イニシャルD歯の生え揃いが早かったのと間髪おかずの3人授乳により乳首は限界をむかえていた。傷ができ、血が滲み、授乳時には鳥肌が立つほど痛む。だが、寝かしつけにはうってつけの授乳をやめて自身の睡眠を削ることはできなかった。結果、高熱と膿と大量のヘルペスができやむなき断乳することになる。まだ母乳の生産もされていた中での断乳は、それはそれで痛みとの戦いだった。

出産以降断乳までは痛みが伴うものである。

つづく

次の更新はなるはやで考えています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?