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Happy Women's Map 広島県広島市 核兵器禁止条約の立役者・日本女性初ノーベル平和賞受賞演説 サーロー節子 女史 / The Key Advocate of the Nuclear Ban Treaty", Ms. Setsuko Thurlow

-The International Campaign to Abolish Nuclear Weapons (ICAN) 


「諦めるな。頑張れ。光が見えるか。それに向かってはっていくんだ」
"Don't give up. Keep pushing. Keep Moving. Can you see the light? Keep working towards it."

サーロー 節子 女史 
Ms. Setsuko Thurlow
 1932 - 
広島県広島市南区 生誕
Born in Hiroshima-city, Hiroshima-ken

サーロー節子女史は核兵器廃絶運動・被爆者運動の活動家です。2017年の核兵器禁止条約に貢献、同年のノーベル平和授賞式の壇上で「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)総代表として演説を行いました。
Ms. Setsuko Thurlow is an activist in the nuclear disarmament and hibakusha (atomic bomb survivors) movements. She made significant contributions to the Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons in 2017 and, in the same year, delivered a speech as the co-representative of the International Campaign to Abolish Nuclear Weapons (ICAN) during the Nobel Peace Prize ceremony.
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「8月6日」
 節子は広島市東荒神町に7人きょうだいの末っ子として生まれます。父・弁吉は10代の若さで米国カリフォルニア州に移民してサクラメント郊外に大きな果樹園を経営していました。日本人は土地所有が許されずドイツ人との共同経営ながら財をなして一家は広島へ戻り、節子が生まれます。広島女学院高等女学校(現広島女学院中高)に入学して英語またピアノに勤しむはずが、2年生になると学徒動員作業の毎日。農作業、軍服・群靴・たばこの製造、前線から届く暗号メッセージの解読作業に動員されます。節子13歳の8月6日、同級生約40人と一緒に木造の建物の2階に上がって作業を開始する直前、すさまじい閃光に包まれ体ごと吹き飛ばされます。「あきらめるな!光に向かってはっていけ!」励まされた節子は、血まみれの体でがれきの下から這い出ます。級友は建物の下敷きとなって焼け死に、きょうだいは被爆して無残に息絶え、叔父叔母は無傷ながらまもなく紫斑が出て苦しみながら急死。両親と4人になったきょうだいと母方の親戚に身を寄せ、脱毛や歯肉の出血といった放射線障害の急性症状に苦しみながら、トタン屋根で再会した学校に通い始めます。

「洗礼」
 新制高校2年生のときに敏子は級友と「広島女学院高校新聞」を創刊。敏子は広島女学院のキリスト教教育と、原爆孤児の救済に奔走する谷本清牧師に感化され受洗します。広島女学院大に進んでキリスト教女子青年会(YWCA)の原水爆禁止運動・被爆者運動に参加します。広島初の国際会議「第1回世界連邦アジア会議」で通訳を務めると、会議出席者から留学して米国で反核について伝えるよう提案されます。両親を説得して留学準備を整えた敏子は、夏休みに参加した北海道での国際キリスト教ワークキャンプでカナダ人宣教師ジム・サーローと出会います。「私たちは社会悪に挑む勇気を持たなければならない」。日本に婚約者を残したまま、第五福竜丸が「死の灰」を浴びた半年後に節子はリンチバーグ大(米バージニア州)に留学します。「真珠湾攻撃を忘れるな。」「日本に帰れ。」節子は社会福祉を学び、孤独と恐怖に屈せず学内の集会やロータリークラブで被爆体験を進んで語ります。「私は沈黙しない。語り続ける。」

「原爆展」
 郷里の父・弁吉が他界した年に、節子はカナダ出身の牧師ジム・サーローと結婚、人種差別法を潜り抜けカナダに移住します。子育てをしながら勉強を続け、トロント市教育委員会でソーシャルワークに従事します。被爆30年目、カナダが提供した原子炉でインドが核実験を実施。カナダ人の原爆への「無関心・無興味・無知」 に憤りを感じるようになった敏子は、教育委員会に働きかけ原爆教育の新カリキュラムを作る発起人となります。広島・長崎に落とされた原爆材料ウランはカナダ産であることをカナダ国民は知らないのです。敏子は爆破予告を振り切っててカナダ初の原爆展を開催、「広島は遠い過去のことだ」と主張するカナダ司法を相手に反核運動家の支援・軍縮・平和教育に奔走します。

「核兵器禁止条約」
 節子は、反核医師たちを中心にオーストラリアで設立された「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)の活動家となり、世界中の若者と一緒に核兵器禁止条約を各国代表に訴えはじめます。母国である日本とカナダが核兵器禁止条約に背を向ける中、85歳の敏子は、国連本部の条約交渉会議で「72年前に虐殺された数十万人の霊もここで見ている。彼らの死は無駄でなかったと思えるような交渉をしてほしい」と発言。敏子の母国、日本・カナダが欠席する中、122カ国・地域の賛成多数で条約が成立します。それを受けICANのノーベル平和賞受賞が決まると、節子はICAN国際運営委員の代表として受賞演説に登壇、日本とカナダはじめさらなる国々の条約参加を訴えます。「私たちは被害者のままでいることに甘んじなかった。私たちは立ち上がった。広島と長崎で死を遂げた人々の存在を感じてください。」2023年被爆地・広島で開かれたG7サミットによる「広島ビジョン」に核兵器の非人道性や核兵器禁止条約への言及がなったことに、節子は厳しく批判しています。

-The International Campaign to Abolish Nuclear Weapons (ICAN) 
-中国新聞広島メディアセンター Chugoku News Hiroshima Media Center
-「ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに」 "The ways to view The Vow From Hiroshima"
-2017年ノーベル賞授賞式でのサーロー 節子 女史のスピーチ(1:11:20~1:31:00)

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