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Happy Women's Map 京都府京都市 日本女子大学創設者ならびに大同生命創業者 広岡 浅子 女史 / Founder of Japan Women's University and DaidoSeimei, Ms. Asako Hirooka

-大同生命 / DAIDOSEIMEI

「今日の婦人が無力である最も大きな理由は、経済力に乏しいという点です。自ら事業の経営者となって、系統的に組織的に、経済的に、これを発達させていくことが必要だと思うのです。」
"The main reason why women are powerless today is their lack of economic power. I hope every woman to become a business owner herself and develop it systematically and economically."

「婦人問題の解決はイエスによってのみ与えらるるのである」
"The solution to women's problems can only come through Jesus."

広岡 浅子 女史
Ms. Asako Hirooka
1849 - 1919
京都府京都市 生誕
Born in Kyoto-city, Kyoto-fu

広岡浅子女史は日本女子大学創設者ならびに大同生命創業者です。さらに女性の貧困問題を解決するための教育事業・社会事業に奔走、愛国婦人会大阪支部また大阪YMCAにて、学び舎また賄い付きの裁縫訓練学校兼作業場、寄宿舎また夜間女学校を伴うタイピスト・秘書養成学校を発案・支援しました。
Ms. Ayako Hirooka is the founder of Japan Women's University and the co-founder of Taiyo Life Insurance Company. Additionally, she passionately dedicated herself to educational and social initiatives aimed at addressing women's poverty issues. She played a crucial role in the establishment and support of various institutions, including learning centers, sewing and vocational training schools with provisions, workspaces, dormitories, and evening schools for women, typist and secretary training schools, within the Osaka branch of the Patriotic Women's Association and the Osaka YMCA.

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「四書」
 浅子は山城国京都(現・京都府京都市)油小路通出水の小石川三井家の四女として生まれ、三味線・琴・習字・裁縫といった商家の女性に必要な教養を身につけます。維新の大改革を前に兄弟が学ぶ「四書(大学・中庸・論語・孟子)」に強い興味を持ってこっそり書物を引っ張り出して読み始めます。「女に教育は不要」「男子のすることを真似てはならない」13歳の頃には、一切の読書を禁じられます。「女性と言えども人間である。学問の必要がないという道理はない。」17歳で許嫁になっていた大坂の豪商・加島屋の次男・広岡信五郎と結婚します。「女史を器物同様に親の手から夫の手に渡すというのは何という不当なことだろう。」支配人任せで謡曲・茶の湯に没頭する夫のずさんな経営を目にした浅子は、独学で九九算から始め、算盤の稽古、簿記、そして屋敷の帳面や書類を習得、さらに夫と一緒に漢学儒学の勉強を始めます。「一朝事あれば双肩に担って自ら起たなければならぬ。」20歳で明治維新の廃藩置県を迎えると、浅子は諸大名家をまわってはタフな交渉を重ねて加島屋の立て直しに奔走します。

「ピストル」
 35歳の浅子は周囲の反対を押し切って、夫の代理人として吉田千足とともに「広炭商店」を設立、炭坑家・帆足義方が所有する筑豊の炭鉱から産出された石炭の国内販売また海外輸出を始めます。輸出コストを解決するために、長崎港よりも筑豊に近い門司に新たに税関を設置し港の整備を進めます。続いて帆足義方の炭鉱自体を傘下におさめ、石炭の産出から販売までを手掛ける商社「日本石炭会社」を設立します。まもなく日本国内がデフレ不況になり石炭の価格が暴落、4年で解散となります。苦境に陥った廣岡家が三井銀行に不動産担保融資を依頼する最中、浅子は護身用のピストルを懐に、手元に残った潤野炭鉱(福岡県飯塚市、後の二瀬炭鉱)に自ら単身乗り込みます。筑豊最深の竪坑を開墾中に、洋服で竪坑からケージに乗って坑内に下って炭鉱夫らを監督。炭坑主任・長網好勝はじめ現場監督また納屋頭らの協力を取り付けて優良炭鉱へと生まれ変わらせます。浅子の資金繰の甲斐あって、加島銀行の設立、さらに大阪商業界発の紡績事業への参加と実を結びます。続いて、浅子は相互扶助の精神を基調とする社会公益事業に共感、浄土真宗を基盤とする真宗生命保険会社の経営を支援、事業改革を進め朝日生命を創業します。明治民法下で法律行為を行う権限がない妻の浅子は、あくまで夫・信五郎の代理人として、夫の深い理解と協力に支えられていました。「我が国婦人が屈辱の生涯を送っている」「如何にもしてその地位を高めなければならない」

「聖書」
 47歳の浅子は、大和吉野の林業家・土倉庄三郎を介し、梅花女学校の校長で女子大学設立を目指す成瀬仁蔵の訪問を受けるとともに著書『女子教育』を手渡されます。「少女時代から寸時も念頭を離れなかった我が国女子の哀れな境遇から救わんとの熱望を果さるべき光明」強く共感した浅子は、すぐに成瀬と行動を共にして政財界の有力者を説いて協力者を募り、1年足らずのうちに大隈重信また近衛篤麿らを来賓として総勢三百四十名の政財界の有力者を発起人会に集結させ、経済恐慌で資金集めが停滞すると広岡家・三井家一門に働きかけて目白台の土地を寄付させます。7年目にしてようやく日本初の女子高等教育機関、日本女子大学校(現・ 日本女子大学)が開校。「女子の進歩を希むならば、自ら先に修養しなければならない。」浅子は女生徒たちと一緒に成瀬校長の実践倫理を学び、長井長義博士らのもと科学を学びます。夫の死去を機に事業を娘婿に譲った浅子は、心友である奥村五百子の愛国婦人会を支援、大量のミシンを購入して警察・郵便・電気局・軍人など公共団体の制服を受注してまわって職業訓練学校兼作業場を整えるとともに、女性やこどもに国語はじめ算数や道徳を教える時間をつくります。「神の御命を離れては何事も為すまじ」がんの手術と愛弟の逝去を克服した浅子は、宮川経輝牧師のもとキリスト教の洗礼を受けます。大阪YWCA創立準備に奔走し、寄宿舎と夜間女学校を備えたタイピスト・秘書養成学校を設立します。浅子は婦人運動や廃娼運動に参加、女性雑誌に論説を寄せ、若い女性を集めた合宿勉強会を主宰、71歳で逝去します。

-日本女子大学 Japan Women's University
-大阪YMCA Osaka YMCA
-大同生命 DAIDOSEIMEI
-『一週一信』(広岡浅子 著 / 婦人週報社1918年)

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