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Happy Women's Map 岐阜県恵那市岩村町 日本女子教育の母 下田 歌子 女史 / Mother of Japanese Female Education, Ms. Utako Shimoda

-実践女子大学香雪記念館 / Jissen Women's University Kosetsu Memorial Museum

女性の清らかな徳性とゆたかな情操をもって社会の弊を正し、広く世人に至福をもたらせ」
"With their pure virtues and rich emotions, women can rectify the ills of society and bring happiness to people in the world."

下田歌子 女史
Ms. Utako Shimoda
1854 - 1936 
岐阜県恵那市岩村町 生誕
Born in Iwamura-machi, Enashi-city, Gifu-ken

下田歌子女史は日本の女子教育の先覚者です。彼女は明治天皇の皇后に明治の紫式部と称えられ、華族女学校の教授と学監に就任。さらに女性の自立自営をめざして、一般女子のための私立実践女学校(現在の実践女子大学)また女子工芸学校、さらに勤労女子のための夜間学校を設立。さらに学校に通うことのできない女子に対する通信教育事業を開始。その後も裁縫学校や夜間学校を各地に設立するなど、毀誉褒貶に動じることなく新しい時代の女子教育に一生を捧げました。女学生用制服の海老茶袴、メイポールダンス、自転車、体育を取り入れました。
Ms. UtaKo Shimoda is a pioneer in women's education in Japan. She was hailed as the "Murasaki Shikibu of the Meiji Era" and served as a professor and superintendent at a noblewomen's school. Furthermore, she aimed to promote women's independence and self-employment by establishing the private Jissen Women's School (now known as Jissen Women's University) and the Women's Craft School. She also founded a night school for working women and started a correspondence education program for girls who couldn't attend school. Undeterred by praise or criticism, she dedicated her life to modernizing women's education. She incorporated maroon hakama, Maypole dancing, bicycles, and physical education into the female students' uniforms.

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「明治の紫式部」
 歌子は進歩的な学者である父・平尾鍒蔵と、母・房子との間に長女として生まれ鉐(せき)と名付けられます。儒学者である祖父・東条琴台は藩学と袂を分かち江戸に去り、勤王運動を支持する父は藩から蟄居謹慎の咎めを受け家禄は停止。家計は苦しく、鉐は幼い時から糸引きや縫い物などの内職はじめ家庭菜園で野菜づくりで家計を支えながら、同時に祖母また母から読み書き・和歌・俳句・漢詩・日本画・薙刀を習います。10歳の鉐は、男子が次々と藩校に入学する中、藩校の窓外から講義を聞きます。時代は江戸から明治へと移り、父は上京して明治政府に出仕、鉐は家族と晴れて上京を果たします。「綾錦 着て帰らずば 三国山 またふたたびは 越えじとぞ思ふ」。祖父・琴台ならびに父はじめ宮内省歌道御用掛である八田知紀のもとで和歌・漢学・古典などの教養に磨きをかけた18歳の鉐は、八田の推挙を受け女官として宮中へ出仕します。貧乏学者の娘ながら、まもなく優れた歌才を昭憲皇太后から寵愛され「歌子」の名を賜り、 宮廷で和歌を教えるようになります。「手枕は 花のふぶきに 埋もれて うたたねさむし 春の夜の月」。

「桃夭女塾」
 宮中の歌子は、昭憲皇太后の学事に陪席しながら、加藤弘之ならびに福羽美静に和漢洋学を、フランス人セラゼンにフランス語を、御書物掛として数々の貴重な書籍に学びます。25歳の歌子は周囲から惜しまれつつ宮中を辞し、剣客として知られる下田猛雄と結婚します。ところが夫はまもなく胃病を患い、長く病床の人に。歌子は看病のかたわら自宅で上流子女のための『桃夭女塾』を開講。当時の明治政府高官の妻の多くは芸妓や酌婦であり正統な学問のない彼女らに国文漢学の講義・習字ならびに和歌の指導に力を注ぎながらも、アメリカ留学から帰国したばかりの津田梅子を英語担当教師として迎え入れ、自らも英語を学びます。生徒数5・60名を数えるようになる頃、夫が病死。30歳の歌子は塾の実績と皇后の推薦により、上流女子教育機関として開設された華族女学校(後の学習院女学部)の教授ならびに学監に就任。宮中の袴をもとに歌子が考案した海老茶色の女袴は女学生の制服としてあこがれの的になります。

「ビクトリア女王」
 39歳の歌子は明治天皇の皇女ご教育係の内命を受け、2年間にわたって欧米諸国の上流階級はじめ一般の女子教育また家庭教育のありかたをつぶさに視察して周ります。英国王室の女子教育を視察したい歌子は、ロンドンで下宿して私立女学校に通い英語を猛勉強、上流階級との交際を重ねて女王女官との知遇を獲得。そして日清戦争での日本勝利のニュースが後押しして、歌子は垂髪袿袴でバッキンガム宮殿でビクトリア女王に謁見を果たし、女王の常住するウィンザー宮へ午餐を招待されます。王室女性の教育水準の高さと馬術・ボートなどの健康教育に驚き、工業化が進む社会で一般女性が職務に励む姿に目を見張ります。女子教育や生活習慣の基盤となっているキリスト教信仰の自主独立と慈善博愛の精神、家政学・看護学・生理学・自然科学など最新の学問、女性教育者の教育に対する高い理念に深く歌子は感銘を受けます。

「実践女学校」
 帰国後44歳の歌子は宮中の派閥争いに巻き込まれ醜聞を書き立てられる中、帝国婦人協会を設立。「日本が一流の大国と成らん為には、大衆女子教育こそ必要」。これまで上流階級に偏っていた婦人団体を広く全国的な組織とし、一般女性に教養と自活の機会を授け、精神的自立・地位向上・生活改善をはかるべく全国を講演して周ります。翌年、機関誌「日本婦人」創刊。続いて、中流階級の婦女子育成を目的として実践女学校(現在の実践女子学園)および女子工芸学校を創立。裁縫伝習所(現在の新潟青陵学園)、順心女学校(現在の順心広尾学園)、明徳女学校、淡海女子実務学校(現在の淡海書道文化専門学校)、さらに各地で夜間女学校の設立に携わり、校長を兼任。大日本実修女学会を設立、「実修女学講義録」を刊行するなど通信教育事業を開始します。「私は今日の女性めいめいが、何んでもいいから自分で働くこと、働かねばならぬと信ずること、さういふ頭の生徒を作つてゆくことを、まづ第一の急務だと思ひます。」それでも「女性は艶麗であれ」。

-実践女子大学香雪記念館 Jissen Women's University Kosetsu Memorial Museum
-学習院女子大学 Gakushuin Women's College

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