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Happy Women's Map 福岡県久留米市 久留米絣創始者 井上 伝 女史 / Founder of Kurume Kasuri, Ms. Den Inoue

-井上伝 久留米絣資料館

『久留米原古賀 織屋おでん 大極上御誂(おあつらえ)』の「お伝加寿利」
"Oden-Kasuri, made to perfection by Oden, a textile shop in Kurumehara Koga."

井上 伝 女史
Ms. Den Inoue
1789 - 1869
福岡県久留米市通外町 生誕
Born in Kurume-city, Fukuoka-ken

「七夕の神様」
 伝は、橋口屋という米穀商を営む平山源蔵・美津の娘として生まれます。「かららんとんとん」「かららんとんとん」小さい頃から手先が器用で、7歳の頃から木綿織りの稽古を始めます。「今に機織りのお師匠さんになるの。」伝は師匠について本格的に織物や裁縫の勉強も始め、12歳の頃には白木綿・無地色織・縞織などを織り上げます。他の土地に出かけた人達が様々な土産に見知らぬ土地の香を漂わせてかえってくる様子を見た伝は、「毎日毎日同じ織物を織っている。もっと凝った素晴らしい織物はないものかしら。」「誰にでも好かれて誰にでも似合うようなものができたら久留米の名物になるのに。」三大荒川の一つ筑後川の沿岸一帯で棉花栽培が行なわれ、大坂に出荷するほどの藍の作付がなされるも、他藩に知られるような織物は生産されていませんでした。家では肥沃な筑後平野からとれる米を取り扱う両親が、日照り・干ばつの心配の他に、藩の増税、千島・樺太・北海道に頻繁に現れるロシア船に心を砕きます。伝は七夕の織姫にお願いします。「家の為に久留米のために新しい織物を発明したい。」

「白い点々模様」
 伝は縦糸と横糸の端々に細かい心を配って、切れた糸を見つけたら即座に紡ぎ合わせながら櫛目でとんとんと織り目を正し、根気よくすこしずつ織り上げます。「かららんとんとん」「かららんとんとん」2日に1反を織り上げるほど上達します。新しい織物を考案を思い立って半年余りのある日、黒い木綿の着古した仕事着についた糸くずをはらうと、ところどころ擦れて白くなっているのに気づきます。「これだ。どうして今まで気づかなかったのかしら。」襟から胸のあたり・腰から下一面、ひざ・袖の糸が掠れて白い地が見えているところが、伝には鮮やかで意匠の素晴らしい白い点々模様に見えます。織り糸をほぐして調べてみる、黒糸のところどころが白糸の様になっています。「黒い糸のところどころを白くして織ればいいのだ。」

「白紋散乱柄」
 伝は米俵の編目部分を思い出しながら、白糸のところどころを糸で括って藍汁に付けます。翌朝、糸をほぐして白く斑になっているのを確認すると、大喜びで縁側に干します。その日の夜、斑模様の糸を機織り機にかけて胸をときめかせながら織り始めます。「かららんとんとん」「かららんとんとん」ところが斑はおろか模様らしいものは出てきません。寝床でいつかの白くかすれた仕事着を行燈にかざしてしげしげと眺めます。「なあんだ。縦糸と白糸の白い部分をうまく織り合わせなくてはいけなかったのだ。」翌日、伝は畳の上に太い釘2本突き刺すと、そこに白糸を巻いて大きな糸巻きをつくり、糸の途中を苧(麻)でからげて藍汁で浸します。「縦糸と横糸を同じ距離に染め抜いてなければ。」伝は織機を夢中で踏み始めます。「かららんとんとん」「かららんとんとん」小さな絣のある織物が出来上がっていきます。

「加寿利」
 伝が織り上げた一面に白い点が散る「白紋散乱」柄は「雪降り」「霰織り」と呼ばれとても評判になります。伝の手から仲買人へ問屋筋へと売り広められていきます。伝は糸を括る間隔を変えながら、縦糸と横糸の柄を合わせて慎重に織って様々な緻密な絵柄を織り出していきます。伝が命名した「加寿利(かすり)」の技法を習おうと、伝のもとに久留米の呉服問屋の娘はじめ新弟子希望者が殺到します。伝は熱心でごく真面目な者だけを選んで弟子に加えます。「かららんとんとん」「かららんとんとん」通りに織物機の音が空にこだまします。15歳の伝は4・50人の弟子を抱える織物師匠となり、家の裏庭に新設した織物小屋で熱心に指導します。「辛気篠巻木綿軍 引けば我がため親のため 紺の前掛け松葉のちらし 待つに来ぬとの知らせかい」流行の木綿引き歌を歌う娘たちは各地に散らばり機織業を開業します。長崎にロシヤの使節レザノフが来航、九州諸侯は洋夷に対抗すべく米俵を次々と藩の米蔵に運び込み、両親の米穀商はたちゆかなくなり、やがて父親が逝去します。

「花絣」
 19歳の伝は久留米藩有馬氏に仕える松田平蔵の奉公人として京都に出て、織物の技術を磨きます。21歳の伝は、松田夫妻のもとから城下・原古賀町(現・久留米市本町)で織屋を営む井上次八に嫁ぎます。3人のこども育てながら、『久留米 原古賀 織屋おでん 大極上御誂』の商標で「お伝加寿利」を売り出します。久留米絣は久留米藩の特産品となり、大砲の鋳造所を建設したり、西洋式の軍艦を購入する費用捻出のために、4~5 万反の久留米絣が藩外に輸出されます。やがて頼りにしていた夫が病気で急逝すると、28歳の伝は3人の子どもとともに生まれ育った通外町に戻って織屋を始めます。実家近くに織物工場を設けたり、久留米絣の出張教授をしたり、3000人余りの弟子を育てます。「久留米絣業」を成立させた伝は、近所に住む発明好きの少年「からくり儀右衛門」田中久重の協力を得て絣の板締め技法を考案。板面に絵の模様を彫刻して織り糸を張り、もう1枚の板で挟んでかたく締めて染めることで花絵模様を織り出します。伝は82歳で逝去するまで旺盛に創作活動を続けます。

-久留米絣資料館
-『井上でん』(池田俊 著/ ヒマラヤ書房1943年)

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