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Happy Women's Map 長崎県長崎市   日本茶・生糸の輸出貿易の先駆者 大浦 慶 女史 /A Pioneer in the Export Trade of Japanese Tea and Raw Silk, Ms. Kei Oura

-長崎歴史文化博物館 Nagasaki Museum of History and Culture


大浦 慶 女史
Ms. Kei Oura
1828 - 1884
長崎県長崎市油屋町 生誕
Born in Nagasaki-city, Nagasaki-ken

大浦 慶女史は日本茶・生糸の輸出貿易を先駆けた大富商。詐欺事件に巻き込まれ巨額の負債を抱えるも、九州の実業家ならびに政治家の強固なネットワークを駆使して、横浜製鉄所を借り受け機械製造を手掛け、軍艦・高雄丸を払い下げられ海洋輸送に進出、最先端の事業・製品を手掛けます。
Ms. Kei Oura is  wealthy merchant who pioneered the export trade of Japanese tea and raw silk. Despite being involved in a fraud incident and incurring huge debts, she made full use of his strong network of businessmen and politicians in Kyushu, leased the Yokohama Steel Works, manufactured machinery, bought the warship Takao Maru, and expanded into ocean transportation. She bring cutting-edge businesses and products to the world.

「製茶1万斤」
 お慶は長崎屈指の油問屋「大浦屋」に誕生。父・大浦太平次と母・佐恵は、大量の輸入油に押されながらも約200年にわたり続く商家を守ります。ところが、お慶16歳のとき大火に見舞われ大浦家は大損害を受けます。お慶は大浦家再興に尽くそうと先頭に立って奮闘します。オランダ語通詞・品川藤十郎と協力、出島オランダ商館員のドイツ人テキストル(Carl Julius Textor)に佐賀・嬉野の嬉野茶の見本を託し、イギリス・アメリカ・アラビアの3ケ国へ送ります。同じ様に滋賀・彦根の生糸をイギリス・アメリカ・イタリアの3国に送ります。数年後、見本を見たイギリス商人ウィリアム・J・オルト(William John Alt)が長崎に来航、お慶に大量の茶と若干の生糸を注文します。お慶は各地に人を派遣して茶の産地を巡り1万斤(6トン)をかき集めてアメリカに輸出します。お慶は自宅の裏に製茶所・製茶工場を建設するとともに、九州各地でお茶の増産を指揮。九州はお茶の一大生産地へと発展します。ならびにお慶は近江商人を介して、西陣織りに重用される良質な曽代糸はじめ飛騨糸・前橋糸・奥州糸を英国に輸出して巨大な利益を得ます。お慶は、30代で長崎では知らぬ者のない大商人となります。

「賠償金1500両」
 各藩の代表や商人たちが競って武器弾薬・艦船の購入・物産販売ならびに各藩の動向収集のために長崎を訪れる中、志士たちがお慶のもとに集まります。坂本竜馬はお慶の屋敷を根城にして「亀山社中」「海援隊」を創設、海運業・貿易業・私設海軍を始めます。大隈重信は佐賀藩物産を海外に輸出する助言をお慶に求め、長崎裁判所はじめ横浜裁判所で外国商人に対する負債整理の海外交渉で功績を上げます。「亀山社中」の3,000両の借金の担保に竜馬に差し出された陸奥宗光は後に外交官として活躍。「海援隊」会計係・岩崎弥太郎は、お慶を介してオルト商会と親交を結んで三菱社を創設。開港と東京遷都により、次第に横浜港からの静岡産の蒸し茶の輸出が増え、九州産の釜煎り茶の輸出業に陰りが見えはじめると、お慶は新しい商品の貿易を考え始めます。そんな折、お慶の元へ熊本藩士・遠山一也と通弁詞・品川藤十郎が訪れ、オルト商会と熊本産煙草15万斤との売買契約の保証人になって欲しいと頼みこみます。お慶が保証人を引き受けると、遠山・品川はオルト商会からの手付金3000両(現在の約3億円)を持ち逃げします。お慶は熊本藩と交渉して約352両の支払いを引き受けるも、オルト商会に長崎県役所へ訴えられ、お慶は連判の罪で1,500両の賠償金を命じられます。お慶は40代で東京に出て再出発を決意します。

「製鉄所1基と軍艦1隻」
 というのも、かつて自分が世話をした大隈重信が横浜裁判所で、横須賀勢鉄所・横浜製鉄所をイギリス系銀行の融資によってフランス借款から担保解除し、横浜裁判所の管轄としたニュースを耳にして新しい事業を画策します。長崎製鉄所(三菱重工業長崎造船所の前身)の機関方(エンジニア)養成所で学んだ洋学伝習人で兵庫製鉄所(加州製鉄所)の創立者である杉山徳三郎を誘って、連名で横浜製鉄所払い下げのための意見書を提出します。お慶は「長崎出身で外国商法と製鉄所の運用に通じている」と猛アピール。大熊重信の後押しで何とか拝借願が認められたお慶は、さらに横浜港の埋め立てとガス灯・横浜瓦斯(ガス)会社の建設を手掛けた実業家・高島嘉右衛門、杉山の同期で東京築地活版製造所の創立者・平野富二、日本最初の製鉄所を完成させた佐賀藩最後の邑主・神代直宝らを引き入れ共同経営を始めます。西南戦争の特需と、鉄道・蒸気機関車の導入により多大の利益を得ると5年で政府に返納。政府財政の窮乏と極度のインフレまた銀貨暴騰の中、お慶は海運業に乗り出します。福岡の櫨蝋豪商で国立十七銀行(福岡銀行の前身)の初代頭取・佐野弥平と連名で、海軍の鉄製軍艦・高雄丸の「払い下げ願」を提出。50,000円(現在の10億円相当)のうち47,300円をお慶が出資、引き渡された高雄丸は定繋港を東京に定め博多港へ。杉山徳三郎が蒸気機関を導入して近代化につとめる筑豊炭鉱の石炭と、平野富二が設立した石川島平野造船所(現、株式会社IHI)とを結んで、お慶はかつて世話した岩崎弥太郎に対抗して時代の先端を行く事業・製品を次々と世に送り出そうとします。

-長崎歴史文化博物館 Nagasaki Museum of History and Culture
-長崎WEBマガジン
-「横浜製作所御払下ケ願趣意見込書」
『日本近代化の基礎過程 : 長崎造船所とその労資関係:1855~1900年 中』 (中西洋 著、 東京大学出版会1983.11)図書


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