『ギターの先生(終)』
最終練習 アリガトウとサヨナラとうぇるかむ
ついに来たミドリの命日ライブの日。
昨日までの雨は上がり、洗われた空気がすがすがしく鼻から入ってくる。
あの日もこんな日だった。
小学6年生の時の学芸会。
ワタシは確か主人公の敵役で、ドキドキなんてものではなかった。
たかだか学芸会なのだが、きちんとそれぞれ役のオーディションがあり、
引っ込み思案のワタシは歌を歌わなければならないその役に突然挑戦して周囲を驚かせた。
チャレンジは見事に成功し、誰もいない真っ暗な舞台で一人歌唱することになり、音楽の先生のピアノ伴奏で披露した。
あの日。
仔細には思い出せないけれど、多分その時と同じくらいの緊張が襲っている。
高揚感と失敗への恐怖と興奮と心もとなさと自分を信じる気持ち。
こんな不可思議で新しい気持ちを、47歳で味わうとは。
そう、この前誕生日を迎えて晴れてワタシはひとつ年を重ねた。
益々目は老眼がすすみ、膝も階段を上るときにギシギシと体験したことのない治せない痛みが伴うことがたまにある。
それでもワタシはギターを始め、仲間と出会い、今日の朝は久しぶりに目覚まし時計よりも5分早く目が覚めて、ここに立っている。
ライブハウス『ミケランジェロ』。
腰痛以外の体調は良好。
アギオのチューニングも万全。ワタシのお肌も寝る前のパックで万全。
ネイルサロンという場所に生まれて初めて行って塗ってもらった、真っ黒にゴールドの星のデザインがワタシの爪を彩っている。
髪の毛?そう、今回はヘアマニキュアではない。
美容室「なつめ」のモンちゃんこと門仲さんが、『エクステ』という魔法をかけてくれた。
ワタシは今日、何者にも変身する覚悟はできている。
色んな意味を込めての、変身。
楽屋でメンバーと最後の音合わせをしながら自分を落ち着かせる。
少し夕焼けが暗くなった頃から観客が知らぬ間に集まってきて、あっという間に隅々まで埋め尽くしていく。
その人々の熱量に圧倒されて引っ込み思案なワタシが顔をのぞかせる。
緊張がピークに達してきて、掌に「人」を描いて飲み込む。
さっきまでの勢いが嘘のように、ワタシはおどおどし始める。
見た目は変わっても、やっぱり変われない?
そんな不安を全部の指でギュッと握りつぶして目を瞑ると、誰かにハグをされた。
「ダイジョウブ。コメコならうまくできる」
安易に緊張している場合じゃない。
ミドリというひとりぼっちのオバケをあの小さな部屋から出してあげるのだから。
「コメコちゃん、行くよ」
目を開けるとやさしいマキオの顔があった。
ワタシは強く頷き相棒のアギオを手に取った。
今までの練習を、自分を信じる。
ミドリ、そして47歳のワタシ、行くよ。
暗闇からも呼吸が聞こえる。
ざわめきと人々の視線と期待と好奇心と「本当にできるの?」という意地悪な気持ちの集合体。
研ぎ澄まされた今は、すべてが鮮明に見えるし感じることができた。
右から「ママ―」。おんぷの声。すぐわかる、いつも鼻炎の高い声。
おんぷの声と同じ方向からの「コメコー」。
パパの声。コメコ―、だって。ちょっと震えていて笑っちゃう。
こんなに夢中に、こんなに激しく、こんなに純粋な心で長期間きちんと練習するなんて思わなかった。
肩からかけたアギオを触る。ピックを持つ右手に力が入る。
ブラックホールのようなライブ会場に、一筋の流星がワタシにぶつかって広がる。
小学6年生ぶりのスポットライト。
客席の前の方が銀河のようにうっすら光る。ワタシは息を呑んだ。
「ギターを始めて約1年が経ちました。そして残念ながら年もひとついただきました。正直更年期障害で眠れず、指や手や腕や肩が痛くて老眼で、と、並べればいくらでも不満が爆発してどうにもならなくて、辛い時もあります。でも大切な友達は言ってくれました。それは多分、ワタシが大人の反抗期で悩み中だからなんだと。体中がステージを上げようと頑張ろうとしている成長期なんだと。体と心の痛みは成長痛なんだと。ということは、きっとまだ伸びしろがあるんだよって」
客席のミドリに向かって、ワタシは言った。
「そんな風に励ましてくれた友達のために、今日、ワタシは一生懸命唄います。あなたにきっと届きますように。ミドリのために」
モンちゃんのドラムの鼓動に合わせて、ワタシはアギオと共に唄い出す。
第一声に魂を込めて。
その後を追いかけるようにマキオとメッチョのエレキギターが合流してきた。
ミケランジェロ店長のベースに絡みつくように、カラオケ店長のキーボードが踊る。
あっという間に一曲目が終わり全身のアドレナリンが大爆発した。
ワタシの歌声に合わせて動く観客が、風に揺れる木々のように励ましてくれる。腰も痛くない。
ビックリするような観客の大歓声に答える暇もなく、続けて2曲目。
最後の曲につなげるように、ミドリの旅立ちに大きな翼をプレゼントできるように、大切に大切にワタシは演奏した。
音楽の波に揺られて、ライブ会場の中にいる全員がどこかへ流れつく。
そこでワタシとミドリの手が触れた。
ミドリはにっこりと微笑んで、ワタシのおでこに自分のおでこをくっつけた。
「コメコ、ありがとう。みんなとサヨナラするのは辛いけど、この思い出が、俺の背中を押してくれる」
3曲目が始まる。
気迫が渦巻くステージには、ギターを弾くミドリがいた。
手に届くところにミドリがいる。
ワタシは客席から応援していて、心地よく体をリズムに合わせて踊る。
意識が戻ると涙は乾いていた。
夢から覚めたように、ワタシは今立っているステージを見渡した。
みんな揃っている。そしてマキオがワタシの手を掴み、勢いよく左右に振った。
3曲目を唄い終えてワタシは盛大な拍手の洗礼を受け、体の力が抜けるのを感じた。
背中にあった重い荷物は、無事遠いお空に飛んで行ったようだ。
ミドリ、サヨナラ。
どうか安らかに。
ライブを終えて5日後。
ワタシは『カラオケ★キャニオン』の前に立っていた。
「コメコさん、いらっさいませー」
店長の声と、後ろの厨房から覗くお腹の大きな優しい顔。
コップを受け取ると、当たり前のように089号室に向かう。
メッチョとおんぷと殿村君はもう来ない。
彼らは立派な受験生なのだ。
未来への扉を開くためのアイテムをいくつも獲得するため、『塾』という名の武器倉庫に向かい『塾講師』という名のマスターからその使い方の指南を受けている。
とにかくなんとしてでも、知識と経験を蓄えてテストステージをクリアしないとね。
がらんとした089号室。お馴染みだった寒気もしない。
本当にもう、ミドリはここにはいなくなってしまった。
そしてワタシの手に、アギオは無い。
しばらくは、おんぷの受験勉強のためにギターをおあずけにすることにしたのだ。
おんぷは気を使わなくていいと言ったけれど、それは自分の親としてのケジメとして。
だって、気持ちも一緒に頑張らなくちゃね。
家族だもの。
辞めてしまったわけではないのだから。とりあえず、ギターは休憩。
だからレッスンも、休憩。
さっぱりした名残惜しい気分でコーラを飲んで、あの曲を唄う。
ミラーボールがクルクル回って、ひとりのワタシを応援してくれた。
カラオケボックスも、しばらくサヨナラ。
「また、いつでもお待ちしてるわよ」
マキオとチーコさんにも説明して、レッスンの休会に納得してもらった。
「あ、でもたまには弾いてな。じゃないと指がなまるから」
まだ何か言いたげなマキオに気づいて、チーコさんは小さく手を振ると一人で店の中に入って行った。
「その、また、コメコちゃんはギターやるんだよね?」
珍しくモジモジとしているマキオが、少年のように見えた。
空には星が点々と瞬き、帰り道を急ぐ車の走る音が聞こえる。
遠くで赤く点灯していた赤信号が変化して、青信号になったのが雑貨店のドアに映った。
「もちろんです。とっても楽しかったから。本当はおんぷにも無理しないでって言われたんですけど。やっぱり受験の娘を差し置いてワタシだけ楽しいのは、ワタシ自身がダメなんです。案外、そういうの気にするタチなんですよね」
ハハハと笑って、下を向いた。
そう。いつもそう。気にするなって言われても気にしてしまうのがワタシ。
それでも久しぶりに青春を味わって、パワーもみなぎって、更年期障害もどこかへ吹き飛んで。
あの1年半を忘れられないから、絶対にまた復活します。
って言おうとした。
「きっと待ってる。もし旦那と別れたくなったら、も、ついでに待ってる」
1秒だけのハグは突然だった。
「嘘だよーん」
そして振り返ることはなく、マキオは店に消えて行った。
『イタリアンバー・ボーノ』の横を通る。
今夜もステキなピアノライブが開かれていて、漏れてくる音楽がワタシの胸と商店街を躍らせる。
気づいた奥様が中から手を振ってくれた。相変わらずステキ。
つられてワタシも大きく手を振る。
それを覚ますように少しだけ冷たい風がワタシの頬を触る。
街灯が消えたり点いたりした。
「ミドリ?」
思わずワタシは後ろを振り返って、立ち止る。
「なあに?」と返事したみたいにカラスが鳴く。
いるわけないのに。それでも、なんとなく。
ワタシだけのワタシ。
しばらくはお預けだけれど、きっと大丈夫。
ミドリが教えてくれた大切な今。
やらないは、ダメ。やってみてダメは、いい。
何歳になっても迷って悩むけれど、それでいいのだとミドリが教えてくれた。
だからワタシは、また進むの。
1年後。
おんぷとボーイフレンドたちは無事に別々の大学の学生になり専門学生になり、今のところ我が家は平穏に家族として過ごしている。
ちなみにおんぷと殿村君の関係は奇跡的に続いている。
パパはというと、今回の不倫が理由かどうかはわからないが、部署異動でまた本社の内勤に戻った。
ワタシは週3回のパン屋のパートと約1カ月ごとのヘアマニキュアを変わらず続け、そしていよいよ「アレ」を復活する。
今日は久しぶりのギターレッスン。
30分ずつだけれど、毎日アギオには触っていたから指はなまっていないはずだ。
嬉しさと少し人見知りに戻る瞬間。
緊張で汗ばんだ手で雑貨屋のドアを開ける。
足元に茶太郎がまとわりつく。「よく来たねーっ」て言いながら。
茶太郎から視線を上げると、そこには眩しそうに微笑むマキオがいた。
「あの、またよろしくお願いいたします!」
お辞儀をしたワタシの頭に、走って来たチーコさんのお腹がぶつかった。
よろめくワタシは抱きしめられて振り回された。
「待ってた!」
「それは俺のセリフでしょうが」と言いながら、マキオはチーコさんを剥がすようにレッスン部屋へ急ぎ足でワタシを促した。
「あの、実は。今度はアコギだけじゃなくて。。。」
急に西日が強くなり、部屋全体をピンク色に染める。
また始まるのだ。
成長するワタシにワクワクする時間を祝福するように、鳩時計がタイミングよく時間を告げた。
それと同時に、マキオは秘密の戸棚を厳かに開け放った。
輝くボディーの何本ものエレキギター。
宝石のように輝く彼らが、ワタシを誘っている。ミドリが手招きしながら呼んでいる。
こっち来て、触って奏でろ自分を作る自分だけの自分の音色。
「うぇるかむ」
おしまい
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