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『ギターの先生⑪』


第11練習 ギターと男と女と娘

曲を演奏し終えた。

一瞬だけ間があって、さざ波のような拍手が起こった。
マキオも横で拍手をしてくれている。
この日以上に自己肯定感が高まった日は今まであっただろうか。
ワタシ良かったね、ワタシ。
今こそ自分を生まれた時にされたように抱きしめてあげたいと思えた瞬間だった。
照明が1回明るくなり、ワタシは椅子から立ち上がった。丁寧にお辞儀をする。
再度拍手の音量が大きくなった。
素晴らしいコンサートホールで、盛大なスタンディングオベーションを受ける世界的ギタリストになった気分に酔いしれた。
「コメコさーん、超いいー!」
カラオケ店長が声援をくれた。
メッチョが緊張しながら花束を渡してくれた。
おんぷが誇らしげに店内を見渡している。
ワタシもやればできるじゃない。と、いい気分になっていたその時だった。

ワタシから真正面に見えるドアがゆっくりと開く。
30代前半くらいの女性。多分会社員だろう。
ベージュのジャケットに紺のワンピースで黒いカバンを持っている。
外からの風で、その女性の香水の甘い香りが店内に流れ込んだ。
女性はスマホを片手に誰かを探しているように見える。
いや、見つけた。パパだ。
パパは明らかに慌てた困った様子でその女性を店の外に出そうとしている。
「約束してたのに!」と口元が動いた。
おんぷがその異様な様子に気づく。
「やめて」
と言いそうだったが、間に合わなかった。
スタスタと早歩きで2人に近づき、おんぷは女性を睨みながらパパの胸元に無言で指を突き付けている。
女性はびっくりして逃げようとした。
その女性の腕を掴み、おんぷは今にも何か言いそうになっている。
もう頭で考える時間はなかった。
すぐにマキオの演奏が始まる。
とにかく店内から出てもらわなければならない。
ラッキーなことに、酔ったお客様たちは気づいていない。
ワタシの応援団以外は。

「さ、今日はありがとうございました。外にお願いします」
ワタシは小声でその女性とパパを冷静に外に出した。
「おんぷはみんなの所!」
ワタシにそう言われて、パパと女性に鬼の形相を向けてから、おんぷは肩をいからせながら席に戻って行った。

後ろ手で、ドアをしっかりと閉める。
漏れ聞こえてきたギターの音色と照明が暗くなった気配で、マキオの演奏が再開したことがわかりほっとした。
目の前の並んで立っている2人を見る。
ワタシは泣きそうだった。
この状況は、恋愛不適合者のワタシではさすがに経験したことがない。
3人で視線の合わぬまま時間だけが過ぎた。
5分くらい無言だっただろうか。ふいに女性が口を開いた。
「あの、いつもお世話になっております。旦那さまの部下のまどかと言います」
大丈夫。自己紹介とかいらない。しかも下の名前。
むしろ記憶の中に残るから、言わないでほしかった。
「いや、今日さ。実は追加のミーティングを彼女から頼まれていたんだけど俺がいなくても大丈夫かと思って先に出てきたんだよ。悪かった。理由を丁寧に説明せずに」
女性をかばうのね。

下手な嘘。
今夜行うはずだった2人だけのミーティングは、一体全体どういった場所でどういったミーティング内容なのでしょうか?
ワタシはぼーっとした。昔からの癖だ。
訳が分からなくなったりがっかりしたりすると、思考を停止させる。
沈黙の3人を横目に、商店街の居酒屋からは賑やかな酔客が軽やかなステップを踏みながら楽しそうに出てくる。全身から嬉しさが漏れ出している。
ワタシもそのはずだった。
今日が久しぶりに、史上最高の楽しい日になるはずだったのに。

昨日の夜は、今日の出演のために買っておいたコラーゲンパックをした。
白塗りオバケみたいな自分のパック顔をおんぷに見せに行って、2人で爆笑した。
朝は5時半より少し前に起きてお弁当を2つ作って、パン屋で短縮パートをしてから家に戻りお風呂に入った。
普段しないので塗り方の順番を忘れてしまったお化粧をして、一張羅を着て、アギオ(ギター)のチューニングをして、電車に乗って車窓から見える景色が少しだけキラキラと見えたっけ。
商店街をレッドカーペットのように軽やかに歩いた。
店に入る時は緊張して、でも嬉しくてワクワクして、曲の練習をして、それから奥様とおしゃべりして。

「ワタシの人生って。なんなんでしょうね」
口から出た。
「ワタシの人生って、楽しいのでしょうか。それとも、小さなことでワクワクして馬鹿みたい?」
パパの顔を見る。
パパは目を伏せて、何も答えない。

仕方ないので、「まどか」という女に向かって話した。
「ワタシって、あなたよりオバサンで。ヘアマニキュアしても1カ月経たないうちに白髪がすぐに出てきて。そんな時こそ突然のお出かけをしなくちゃいけなくて。もっと美容院に行ったばかりの白髪が隠せているタイミングで用事があればいいなんて思って。香水も滅多につけなくて。今日のワンピースも久しぶりで少しスース―するの」
夜の風が冷たい。ストッキングは腰の辺りが本当にスース―する。
水玉のワンピースの裾を見ながら、なんだか愚痴を言うワタシがおかしくなって笑ってしまった。
「まどか」は、パパに助けを求めたようだ。でも、パパは目を瞑っている。

「馬鹿にしないで」
2人はハッとしてワタシを見た。
「ワタシだって女です。男女のことくらいわかります。付き合っているか付き合っていないかなんて。雰囲気でわかるの。空気感ていうか。2人の間にピンク色のものが見えるような。きっと、あなたはパパを好きなんでしょうね」

店のドアが開いた。
マキオが顔を出した。
「コメコちゃん、みなさんがお待ち。もう一度挨拶ね」
グインと強引に腕を引っ張られて一瞬ワタシはよろけた。
王子様のようにマキオはワタシを支えて、耳元でささやいた。
「我慢すな」
鼻の奥がつんとした。わさびを食べた時なんて比べ物にならないくらいに。
我慢していた感情がすべて目から出た。
涙があふれたままで、ワタシはお客様の前のステージに立った。
「本日は、ワダジの下手な演奏をお聴ぎぐだざいまじて、最高にうれじがっただす。。。」
そこまで言って言葉に詰まってしまった。
チーコさんと奥様が横から出てきて両脇を抱いてくれた。
「みなさん、この人まだギター初めて半年なのよ!すごくない?ね!」
「素晴らしかった!偉かったね!」
盛大な拍手と声援が、耳の中でこだました。

その後は記憶が無い。
お客様たちから高級赤ワインのボトルをプレゼントされてがぶ飲みして、
酔っぱらっておかしな踊りを踊りながらバタンと店の真ん中に倒れたらしい。
おんぷと彼氏とメッチョとカラオケ店長が泥のようなワタシを担いで家まで送ってくれたらしい。
覚えていないので、全部、らしい(伝聞)。
マナーが好きでルールが好きで、正直が好きで、丁寧が好きで、きちんとしていることが好きで、真面目が好きで、自己犠牲が好きで、信じることが好きで、家族が好きで、ギターが好きで。そんな面白くないワタシ。

ひどい吐き気で起き上がりトイレに向った。
今日は土曜日。
こんなに辛いならもうお酒なんて飲みたくないと思うだろうに、どうして人はまた飲むのだろう。
目が回る世界でワタシは思い出した。
そうだ、昨日は最高で最低な日だったのだ。
急に思い出してまた泣けてきた。
さっきぼんやりとした視界の中で確認したワタシの隣りのベッドに、パパの姿は無かった。

トイレの窓の外で、スズメが鳴いている。
おはよう。おはよう。と言ってくれているみたいだ。
もしくは、
とびあがれ。とびあがれ。

『ギターの先生⑫』|さくまチープリ (note.com)

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