「好き」というバイアスに抗いたいというお話
お前これオタク哲学なのか恋バナなのかはっきりしろよって思われるようなタイトルですが,とりあえず全部包含してるのでそういうことです。
突然ですがみなさん,好きな何かってありますか
まぁなんかありますよね
「好きな友達」「好きな上司」「好きな異性」「好きなアーティスト」「好きな芸能人」「好きな女優」「好きな歌」「好きな酒」「好きなラーメン屋」「好きなひれおくんの部位」…
まぁみなさんいろいろな「好きな何か」を持っていることかと思います。
最近思うんですよ,
一回好きになったものを,「好き」っていうバイアス抜きにして見たい
って。
理由2つあるんですよ。
1)好きになる瞬間が一番楽しい
よく言うじゃないですか。「記憶消してもう一回見たい」って。
自分も好きでみんなが知ってそうな話題…ということで2019年のM-1でも振り返ってみると…
ミルクボーイさんとぺこぱさんのM-1の1st roundの漫才は,記憶消してもう一回見たいです。
一回好きになってしまっていて,めちゃくちゃおもろいから大好きなんだけど,そのうえで,
あの初めて見たときの感動と衝撃を…
もう1回味わいたい…
ミルクボーイさんの漫才は,コーンフレーク1点張りで次々にとんでもないおもろいワード出されたことがすごくて,爆笑しながら感動した。
ぺこぱさんの漫才は,すっごく斬新で衝撃を覚えた。「知識は…水だ。独占してはいけない。」で死ぬほど笑ったし,その衝撃を受けに受けた上での終盤「急に正面が変わったのか???」のくだりはもう笑いすぎて画面見れなくなった。
一旦好きになってしまうと,一旦知ってしまうと,
あの初めての感覚は二度と味わえないのかと思うと少し悲しい…
(…考えてること処●厨と一緒やなぁ…)
2)好きなものを嗜好し,知らないものに興味を持てない自分が嫌い。
世の中,知らないだけで知ったら自分が好きになる可能性があるものなんて腐るほどあるんです。
ラーメン屋なんて毎日別なラーメン食べても命が足りないくらいあるし
M-1に出ている15年以内の若手芸人なんて5,000組もいる。
ニコニコ動画で「千本桜 歌ってみた」で検索したら動画8,000個出てきた。
本来であれば「全部味見して,一番好きだと感じたものを好きになる」のが正しい向き合い方であると思います。でも…
(まぁ…曲決めて合唱動画作るときは,1つ残らず巡回してるときもありますが…笑)
時間は有限。そもそも自分の興味がもつかどうかのところに高いハードルがあるので,そんなことしてられないんです。
だから人は,「好き」だと思ったとき,他のもっと好きになる可能性を孕んでいる「全く知らない大多数」をのけ者にして,めっちゃ好きになる。
そして好きになると,好きなものばかりをたくさん嗜む。
噛んで噛んで味がしなくなったチューイングガムを,これでもかというくらい噛み続ける。
僕はその傾向がどうも人より強そうなんですよね。
近所の好きなラーメン屋は毎週行ってしまう(周りに行ったことないラーメン屋もあるというのに!)
amazon primeでM-1の過去動画見まくってますが,僕この1週間でコーンフレーク20回は見ました
ニコニコ動画の再生履歴みたら「【原キーで】アングレイデイズ【歌ってみた】@りぼんぬ」 視聴回数 80回 …投稿1か月前やからお前1日平均3回やぞそれ。しかもYoutubeでも聴いてるから平均5回くらいかもしれん
あと…アニメ見るときに,最新話1週間で10周とかする。かぐや様2期とかそうだった(でも他のアニメの1話1個も見てない…)
毎週同じラーメン屋にいこうが同じ動画何十回再生しようが,そこで僕は毎回幸せを享受しているので,それは正しい。
でも,「もっといろんなもの試してみたら?」と思うことも多い。
僕…ゲームもそうだな。switchのプレイ時間splatoon2:3100時間 マリオカート:30時間 他:1時間以下(4つほど購入している模様)
本当にいつも同じ幸せばっかり享受したくなるつまらない人間だなって悲しくなるなぁ…
この病気どうやって直したらいいんだろうね。
もっと新しいものを自分から発掘していくべきなんですけどね。そこで「面白いものを,好きなものを,自分の手で発掘する」喜びを感じられる人間になりたいなぁ。
「好き」って感情は人間が幸せになるための本能であり道具ですよね。意図的に取ったり捨てたりできたらいいのに。
(うわぁ…めんどくせぇタイトル。)
でも思いませんか
我々は「好き」っていう感情をもつことによって,
いつも幸せになれる。
余計な事考えずに済む。
要は「ラク」なんですよね。極論幸せになるための逃げなんですよね。
じゃあそれは本能だけど,本能ではなくそれを自在に操れたら…と思いませんか。
ラクしたいときは「好き」な感情をもてばいい。
でも精神的に余裕があるときくらい,「好き」なんてバイアス取っ払って,全部平等に世界を見てみたい。
そのほうが,きっといろんな発見があるし,いろんなものを知れる。自分にとってもいろんな収穫があるはず。
(ちょっと話それるんですが)
バイアスって言葉を使ってますけど要は「好き」って「偏見」じゃないですか。
偏見とか差別とかって,基本的に負のイメージですけど,僕からすると「好き」とか「嫌い」とかいうのと偏見との線引きわかんないんですよ。
それで最近「僕は心の奥で偏見の塊のような人間だ…」って落ち込んだりしたんですけど…
偏見って…確かに持たぬべきときに持たぬべきものではあるけれど
偏見をもって見た方が幸せなときもあるんじゃないの???
自分が偏見を持っているということを認めないと,自分の思考を説明できないから,じゃあもう偏見は持っててもいいじゃん!!!!めんどくせぇな!!!!
とか思ったりしてます。
(話し戻します)
誰でも情報を発信できるこの現代社会における「好き」というバイアスとの付き合い方について
非常に偏見に満ちたことを言いますが
テレビ社会(昔)→SNS社会(今)
という感じでざっと何が変わったかというと
【テレビ社会】
・発信者は一部。大多数は視聴者。
・「みんなが好きなもの」「テレビに出てるもの」が正義。
・みんなが同じものを見て,それをみんなが公共の場で話題にする。
【SNS社会】
・誰でも発信者たる時代。もはやすべての人が発信者であり視聴者。
・人それぞれ好きなもんは違う。何を好きになってもいいし,たくさんの選択肢がそもそもある。
・人それぞれ違うものを見て,趣味が共通するグループの中でその話題をする。
「あーーー」と思った方も多いんじゃないでしょうか。まぁこういう言説を見たことが皆さん一度か二度は絶対あると思うんで,今更新鮮さもないと思いますが,情報化社会はこういう変化をもたらしています。
はっきり言って,いまが【テレビ社会】だったら,「好き」っていうバイアスを都合よく捨てたいよ~なんて複雑な悩み持つ必要ないんですよ。
テレビに出ている芸能人なんて全部見たうえで誰が好きか選べるじゃないですか。
「いつも出ている人」は決まっているから,選択肢限られてるから楽じゃないですか。
もともとは,「ラク」だったんです。
僕は昔は本当にテレビっ子だったので(まぁ体も頭も小さかったからかもしれませんが)本当にその時売れているものが好きでした。
エンタの神様で見たリズム芸人を学校で真似して友達と大笑いする日々でした。
その時の僕は何も知らなかった…
きっとその時から「マイナーなもの」が好きだった人は,マイナーな推しと触れる手段が少なくて大変だったんだろうなって思います
肩身が狭かったんだろうなって思います
政治だってそうだと思います。10年前くらいまでは政治動向なんてメディアに扇動されまくるものだったじゃないですか。それが今やピクリともしない(少なくとも僕にはそう見えています)。もう今後かつての小泉純一郎氏みたいに「支持率が80%↑」とかそういうバグみたいな数字は出ないんじゃないかなって思ってますよ。どんなに素晴らしいリーダーが現れても。
今は違います。
どんなに有名な人も,どんなに無名な人も,YouTubeしかり,Twitterしかり,Instagramしかり,
全く同じ土俵
で戦っています。これがSNS社会の,テレビ社会との大きな違いです。
こうなると人は,自分の好きなものは自分で決められるわけです。
選択肢は無限にあって,
誰しもが好きなものを自分で選んでいくわけです。
なんかね…僕現代社会向いてないのかなって思うときあります。
そんなに主体性もって行動したくないわ…
でも,初めて見るもの,初めて知るもののわくわく感っていいよね。
あれは…大事にしていかなきゃな。
ぼくはちゃめちゃに一途なんですよ。たぶん。
めちゃくちゃ大好きな人を嫁にして,毎日毎日抱くっていうのが
実現したら一番素敵な未来よな。
僕思うんですよ
風俗とか行ったら
「今会ったばっかの女とヤる気になるかぁ!!!!!!!!!!」
って心の中でキレて萎えそうだなって。
知らないんですけど
風俗行ったら楽しめそうなくらいには器用な精神性を持ちたかった。
40なっても結婚できなかったときの保険として。
(話ずれてるようでずれてないような気がするんだよなぁこれ。)
…もうええわ。
どうもはぴもみでした。
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