共同体に育ち,偏見を思う

こんにちは。noteではめちゃくちゃお久しぶりです。はぴもみと申します。Splatoon2やApexみたいなゲームしながら歌ってみた聴いて合唱つくって酒のみまくってうわあああああああああって長文ツイート連投している人です。いぇいいぇい。

さっきまで地元の青森に帰省してまして,地元の友達の結婚式に行って,父親と地元の酒を注ぎあいながら恋愛観ぶつけあって大喧嘩してきました。ちょっと今日はそれで思ったこと考えたことを文章にまとめさせていただこうと思います。

共同体社会に育ったという意識

昨日友人の結婚式に参加したわけで,部活仲間と久しぶりに再会し,お世話になった先生にも何人も挨拶できました。
その中で特に思ったのが,田舎であればあるほど顕著な,「自分は共同体社会によって育てられたんだな」という意識です。
結婚式の新郎は小学からの親友であり,思えば僕が青森に転校してきた初日に仲良くしてくれて,家に呼んでくれて一緒にカービィのエアライドを遊ばせてくれて,何しても仲良くてライバルで部活に誘ってくれたという,本当に距離感の近い心の友でした。
そんな奴の結婚式だからそりゃあもう自分の小中高の思い出が駆け巡ってくるんですよね。その中で思ったこととして。
・共同体社会に育ったなぁ
・信じられないほど,僕とは本来無関係な,「友達の親」たち・先生たち・地元に住んでいる人たちが,自分を育ててくれて,青森を出る18までの自分を形成してくれたなぁ
ということを思いました。

小学校の部活なんて,それが本当に顕著でした。
・部活中は一人は保護者が居る必要があって,自分の親も1カ月に1回はフルタイムで部活に付き合ってくれた。
・部活が夜遅くに終わるので,暗くなる冬なんかは,危ないから,と保護者たちが車で迎えに来る。そのときはみんなで乗りあう。僕の親も当然のように何人か連れて帰るし,僕の親が来なければ僕はほかの親の車に乗せてもらっていた。
・そもそも部活のコーチもみんな誰かの親であった。
・県大会に出るのに遠征が必要なことがあった。そのときのバスは,僕の父親が運転していた(父親は大型免許持ち)。

今改めて思うと,「よくそんなことできるなぁ」と思うんですよね。
でも自分が親の立場でもたぶん自分の父親母親のようにしたと思うんですよね。
こういうのをここでは「共同体社会」と捉えます。みんなが「わが子だけではなく,わが子の友達にも優しくする」。そうすることで,助け合ってお互いに子育てをサポートし合う。そういうしくみです。忘れていたのですが,結婚式で人の温かみに触れ,こんなことを思い出しました。
思えば人の子が家に遊びに来るって,結構嫌なことだと思うんです。でも,僕が友達のおうちに遊びに行ったらみんな嫌がらずに対応してくれたし,だからこそ友達も僕の家に呼んで,僕の親も嫌がらずに対応していた。

共同体の「のけもの」

このnoteで論じたいのは,この共同体社会の「のけもの」と「偏見」についてです。上述したのは共同体社会の「素晴らしく温かい一面」ですが,ここからは「醜く冷酷な一面」に目を向けてみようと思います。

まず,私は先ほども述べたように,途中で転校生として青森にやってきました。でも,新郎くんが僕を真っ先に受け入れてくれて,共同体社会の一員として溶け込んでいきました。

でもですね?こうならなかった世界線があるんですよ。

もしも僕がそのときひどく醜い顔をしていたらどうでしょう。

もしも僕はたまたま身長が高かったのでバスケ部に勧誘されたのですが,もし身長が低かったら,その限りじゃなかったかもしれません。

もしも僕が空気の読めないやつで,なかなかクラスになじめなくて仲良くなれなかったら,どうでしょう。もしくは,クラスの人気者に盾突いて,いじめの対象になったら,どうでしょう。

もしも両親がPTA活動などに消極的で,親同士のコミュニティで陰口を言われてしまっていたらどうでしょう。

もしも僕の家がお金をたくさんもっていて,そういううわさが親同士のコミュニティで広がっていたとしたらどうでしょう。

・・・あまりよくない未来が待っているような気がしませんか。
こういうとき,共同体社会は,ほかの大勢の幸福のために牙をむき,あっという間に見えない壁のようなものをつくり「のけもの」にすることがあります。
それは共同体の集団の幸福のための,犠牲。


僕も,僕の両親も,この「のけもの」になる条件にたまたま抵触しなかったので,共同体社会の恩恵を強く受けました。僕の友達はみんな僕の親に好印象を抱いてくれていますし,僕もまた,あまり嫌われることはなかったように思います。
だからこそ僕の両親は,
共同体社会に浸り付き従うことをよいことと信じて疑いませんでした。


「のけもの」を連れてくるはぴもみ少年

こんなことがありました。
小学生のはぴもみ少年は,学級会長を好んでやるようなクラスの中心人物だったので,みんなと仲良くしようとしました。
でも,輪になじめない子とか,ちょっと空気が読めないとかで嫌われている子とかも,居たりするんですよね。
でもそういう子って,確かにそういう苦手なこと,なじめないことがあれど,そこに目をつむれば,面白かったりするんです。
小学生の時,Kという男の子がいました。
みんなにちょっとずつ嫌われている空気があって,それは空気の読めない言動が原因でした。
ある日河川敷を走っていると,Kが河川敷に一人で座っていました。
今思うと僕も空気読めてないなって思うんですが
「何してるの?」って声を掛けました。
そしたらKは,「僕って皆に嫌われてるよね」と言ってきました。
昔のこと過ぎてあんま覚えてないんですが,そっからなんやかんやで仲良くなって,2人で遊んだりするようになりました。

・・・そんなある日,詳細は忘れましたが,僕の何気ない一言が逆鱗に触れたとかで,Kと僕はみんなの前で取っ組み合いの大ゲンカになっちゃいました。
そこからが問題です。別に友達と喧嘩するくらいいいじゃないですか。でも,Kは共同体にとってみれば「のけもの」だったので,
僕の親は「Kはみんなに嫌われているんだから,Kと仲良くするのはやめたほうがいい」というようなことを言いました。

これが共同体の「のけもの」論理,負の側面が顔を覗かせた瞬間です。
小学生の僕は共同体のことなんて考えたこともないしそんな概念もないので好きか嫌いかしかないんです。差別のこととか考えたこともないんです。
でも,この親の発言を今でもはっきりと覚えているということは,自分がここに違和感というか,強烈な気持ち悪さを覚えたってことなんだろうと思います。

誰も,皆の前ではっきりと「のけものをのけものにしろ」とは言わないんですが,共同体の集団の幸福のために,その差別的であることに由来する気持ち悪さを無視して,人は平気で「のけもの」を作り差別し,自分の,そして共同体の幸福を守ろうとする。
しょうがないことのような気もしますが,僕は今でもあまり受け入れたくない現実がそこにはありました。


どういう人と恋愛をするか

(突然恋愛の話になりますが,先ほどまでの話と関連しています)

父親と酒を飲んでいて,恋愛の話になりました。
無理もありません。僕の両親は友達の結婚式で知り合い結ばれたのですから。
父「だれかいい女はいたか?」
は「やめてよ…(笑)」
って感じでしたが。

そんな中で,僕はいま彼女がいないですから,
どういう人に恋をするか?恋愛するか?みたいな将来を想像する話をしました。それもそうです。父親にとってみれば,手塩にかけて育てて,大学院まで面倒をみたかわいい息子が,どんな嫁さんを連れてきて,かわいい孫の顔を見せてくれるんだろう…って思っているわけですから。

その中で,父親と私で決定的な意見の対立がありました。
はぴもみ「好きになった相手であり,幸せにしたい,一緒に幸せになりたいと思う相手ならば,どんな相手でも恋愛対象である。」
父親「恋愛対象は当然好きになった相手だが,いわゆる「のけもの」~道を外れた者,普通でない者~は恋愛対象にはそもそもすべきではない」

そうですねぇ。父親からすれば,僕が好きになった相手が例えば→

・タトゥーを入れている
・被差別部落の出身である
・肉親に虐待を受けた
・重い病気をもっている
・整形手術をしている
・子供を産めない
・料理をつくろうともしない
・浮気を平気でしたり,セフレなどがいる
・バツイチである
・顔がブサイクである

などはそもそも恋愛対象にすべきではない。そういう相手に恋をしているならば今すぐにやめなさい,
と言って曲げなかった。

僕にはこれが理解できなかった。
もちろん,はぴもみ自身例えば浮気をするような女性とは付き合ってもそれがわかったら,ほとんどは別れるだろう。
でも,別れない場合もあると思う。その人がどういう事情でどういう気持ちで,そういうことをしたのか,ということへの傾聴なしに,「浮気をような女性は絶対にダメ」と決めつけることは,おかしいと思う。

人はそれぞれに生まれ育った環境があり,全然違う世界を生きている。例えば僕は積雪1mの世界で育ったけれども,同じような雪景色を想像できる人は日本にもそう多くないはずだ(精々10人に1人くらい?)。
僕は両親の愛情をたっぷり受けて育ったがそうではないかもしれない。
もしかしたら,元カレにとんでもないトラウマを植え付けられているかもしれない。
ひょっとしたら,ただ僕のことを利用したいだけの女性で,本当に僕に害しかない存在なのかもしれない…。

そういうあらゆる可能性の想像や,相手のいろいろと本気で向き合うことなしに,なぜ「恋愛対象から外す」なんていうことをしなければいけないのだろう。

例えば,「タトゥーを入れている人は良くない人である」というのは偏見である。
統計を取れば犯罪者が多いとかはあるかもしれないが,それはあくまで統計であり,その人がどうかはそれには由来しない。あくまで一個人が,たまたま「タトゥーをしている人だ」という個性をもっているだけである。

ただ私は,例えば「タトゥーを入れている人とは付き合わないようにしよう」という恋愛観をそれぞれの個人が持つこと自体には何ら異論はない。自分の幸せのために予防線を引くことは自然である。恋愛とは本来,自分が幸せになるための手段ですから,幸せにありつける最短距離のために,そういう戦略を練ることは良いと思いますよ。

ただそれを他人に,それも親に強制されるのには強い拒否感があり,強く抵抗してしまった。
そういう「道から外れた人を否定し,恋愛対象としないことを,他人にも求める」ということは引いては,
「道から外れた人の,集団的な拒絶」である。
「共同体から「のけもの」を排除する」ことにほかならない。

私はこれは絶対にしたくない。
これを許容するということは,例えばタトゥーのような取り返しのつかない個性をもった人の,社会的共生を許さないことにほかならない。
それこそ銭湯でタトゥーを入れている人が入場をお断りされるなどは,安全性や営業のためにやむを得ないことではあるのかもしれないが,本来的にはあってはならない。
だから,一銭湯がそういう張り紙をすることは問題ではないと思うんです。
でもたとえば「銭湯にタトゥー入りの人が入ったらだめです」って法律を作ったらだめだと思うんです。
そんなことをしたら「のけもの」はどこにも行けなくなるじゃないか。

たぶん僕の父親が僕にこういうことを強く言ってきたのって,その共同体社会から自分たちが外れものにならないように,という生存本能だと思うんですよね。
自分たちは共同体社会に共生し続けたい。
だからこそ息子にも,「のけもの」になってほしくはない。
だからこそ,息子が変な個性をもった女性と結ばれるのは困る。できればできるだけ美人がいいし,まともであればあるほどいいらしいです(笑)。
でも,そんなもんぶっ壊したっていいんですよ。きっと。
僕はこれからも自分の気持ちに正直に恋愛したいから,もしまた対立したら今度は頑張って説得しようと思います。

さいごに

偏見というのは個人で持つ分には構わないし,むしろ自分が幸せになるための効率的な手段になるんですが,
これを集団的に適用することは本当によくないんだなと,強く思った次第でした。

僕がこんなに親から価値観が離れたのは,きっと,大学が,都会が,そうさせたんだろうなぁ。都会怖い?田舎怖い?どっちも違うよ。

人間怖い。

どうもはぴもみでした。ここまで読んでくださった方,大好きです。

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