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小説「灰色ポイズン」その23ー思い出せない記憶と思い出したくない記憶

うん?何か腕が動かない...。トイレ行きたい。目を開けると右手を板に固定されていた。いつの間にか点滴をしたらしい。左手で固定された板を不思議そうに触っていると誰か聞き覚えのある声が止めた。
「触らないよ〜!気になるだろうけど」
声の主は美菜子先生だった。私が声のする方へ視線を向けると白い歯を見せて美菜子先生が笑った。
「目が覚めた?気分はどうかなぁ?」
そう言いながら美菜子先生は固定されている私の右手首で脈を測った。「うん、大丈夫」といいながら自分に言い聞かせるようにうなずいた。

私は、ぼうっとする頭でいったい何があったのかを考えた。ああ,そうだ夜中に目が覚めてパニック発作を起こしたんだった。肩に注射を打たれて...打たれて?その後は覚えていない。
「頭がぼうっとするけど気分は大丈夫だと思います」と私はかすれた声でそう答えた。

美菜子先生が静かに話し始めた。「夜中は大変だったみたいね」
「ええ そうみたいです」と私。
そう、私は何だかとても苦しかったことは覚えているが入院するきっかけになったあの日のパニック発作と同様に細かいところを覚えていなかった。

美菜子先生は「あらまあ、何だか他人事のようね」とボソっと言った。
私は何だか気まずくなって「すいません」と思わず謝ってしまった。
「謝らなくてもいいのよ。メンタルが参ってる時は離人症みたくなるのは珍しくないし、悪いことでもないから」

「離人症?ですか...」私は驚いて聞き返した。離人症については、「ひかりの電話」のボランティア研修で学んだことがあるし、鍼灸専門学校でも精神医学という科目を取ったし、個人的にも気になることがあって調べたことがある。

美菜子先生は私に離人症について知っているかを訊ねた。

「解離性障害のひとつである離人症は確か人が自分の心のキャパを超える状況にぶつかった時に、その認め難い現実と離れることで身を守る防衛で起こるとされている、っていうことくらいですけど...」
と私はそう答えた。

「森野さん完璧よ。それだけ知っていれば充分」
と美菜子先生が言った。
それから夜中に起きたパニック発作のことを一通りさらりと質問してきた。
私は、自分のパニック発作というかフラッシュバックについて何が原因だったのか良くわからない。そのことを美菜子先生にわかって欲しくて懸命に説明した。

美菜子先生は熱心に私の話をうなずきながら聞いてくれた。そして、午後に院長先生の診察があるから聞きたいことがあれば聞くと良いと思うと言った。

その後で最近時々湧き上がる疑問を美菜子先生にぶつけてみた。それは、美菜子先生が高校時代の同級生とはいえどうして私にここまで親切にしてくれのか?ということ。

すると、美菜子先生から思いがけない答えをもらった。
美菜子先生は
「森野さんに高校の時に助けてもらったからよ」
と当たり前のことだと言わんばかりに淡々と言った。
どうやら美菜子先生の記憶と私の記憶にはギャップがあるようだ。私は美菜子先生を助けた記憶が...ない!

何故なのかわからないけれど高校時代の記憶が,美菜子先生とのエピソードが抜け落ちているらしかった。
私はそのことを頭の中にある「記憶入れ箱」の中から取り出そうとするけれど失敗に終わった。
人は、いや少なくとも私は、辛い記憶を無意識に忘れることにしたおかげで、その周辺にあったハズの忘れなくても良い記憶まで失っているらしかった。残念である。記憶したくないことを自動で封印するために、楽しかったことも一緒に記憶されていないらしかったから。

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