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小説『灰色ポイズン』その25ー爪と髪が伸びると

入院3日目の午後は、早朝のパニック発作の余韻を残しつつも、比較的穏やかに進んでいた。院長先生の診察も終わり、静かな時間が流れていた。

ふと、自分の爪と髪が伸びるのを感じる。爪の先が少しずつ白くなり、髪の毛が頭皮から新しい命を吹き込むように伸びている。この感覚が、私をパニックに追い込む。爪や髪が伸びるのは、生きている証拠。しかし、生きることを許されていない、または許していない私にとって、それはまるで自分の存在を否定されるような感覚だった。
私は爪が伸びてはいけないのだ...。

どうしてこれほど恐ろしいのだろう。カナタは、自分の存在が許されていないと感じる一方で、生きてしまっている自分を許せない。勝手に爪が伸びてしまうのが嫌で、何とかその感覚を感じたくないのだ。まるで、自分の中で何かがうずくまっているかのように、爪の先がじんわりと伸びていく感触が怖いのだ。

「どうやって院長先生にこの気持ちを伝えたらいいのか」と考え始める。爪や髪が伸びることでパニックになるなんて、普通の人には理解しがたいことだろう。でも、美菜子先生なら分かってくれるかもしれない。

美菜子先生は、院長先生の娘であり、この病院の象徴的な存在でもある。彼女に相談すれば、私のこの奇妙な症状を院長先生にうまく伝えてくれるだろう。

お茶の食器を片付けに来た補助看さんに美菜子先生と面接をしたいとお願いした。なんか申し訳ないないなあ。
急にこんなことお願いするのは気が引けるけど今は美菜子先生に頼るしかない。夕食後に美菜子先生は時間を作ってくれるとのことだった。

病室の窓から外を見ると、夕陽が空をオレンジ色に染めていた。高い窓から夕焼けのオレンジ色を眺めていると胸の奥が急に切なくなってシュンとした。

私は深呼吸をして、美菜子先生が来てくれるのを待つことにした。

やがて、ドアの向こうから軽いノックの音が聞こえた。「森野さん、ちょっといいですか?」と、聞き慣れた声が響く。

「美菜子先生、来てくれたんですね。実は、ちょっと相談したいことがあるんです」

美菜子先生は微笑んで、「もちろんよ、どんなことでも話して」と言ってくれた。その言葉に、私は少しだけ救われた気がした。美菜子先生にですら自分のこの気持ちが上手く伝えられるのだろうか少しだけ胸の鼓動が速くなってきた。

「実は…爪と髪が伸びるのを感じると、すごく怖くなるんです。まるで自分が生きていることが許されていないのに逆らって生きているような気がして...」
言葉がうまく出てこない。自分の心の奥底にある恐怖と不安が、言葉の隙間からこぼれ出しそうになるのを感じながら、私は続けた。

美菜子先生は私の言葉に耳を傾け、優しくうなずいた。「それはとても辛いことだね。爪や髪が伸びるのは生きている証拠だものね。でもね、そう思っていても生きることを恐れないで。誰もあなたを罰せない。だって爪が伸びているってことは、もうすでに生きることを許されているってことだもの。今は、そう思ってしまうのだろうけれどいづれ少しずつ変わっていけるわ。あなたの存在は大切なのよ。これだけは覚えていてね」

その言葉に、私は少し安心した。そして、美菜子先生の助けを借りて、院長先生に自分の気持ちを伝えることにした。
早速時間を取ってもらった。
美菜子先生の助けにより、院長先生にも私の気持ちを伝えることができた。院長先生は何度もうなづいて私の言葉を理解してくれたようだった。

その夜、私は少しだけ楽な気持ちで眠りについた。爪と髪が伸びることが、恐ろしいことではなく、私がここにいる証拠だとほんの少しだけだが感じられるようになったから。
ベッドの中で目を閉じると、どこか遠くから微かな風の音が聞こえ、それがまるで私の中の不安をなだめるように感じられた。

薄明かりの中で、私は深く息を吸い、また一歩前に進んでいる自分を感じた。生きることの意味を、ほんの少しだが見つけられたような気がした。と同時に見えないこれからのことの不安がよぎったがいつの間にか眠りに落ちていったのだった。

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