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小説「灰色ポイズン」その21ー入院2日目の午後

午前中は、朝の採血から始まり、朝食、思いがけない吉野ナースとの院内の庭の散歩、そして院長先生の診察と、慌ただしく時が過ぎていった。

その日の昼食はカレーだった。私は急に入院したばかりで間に合わなかったが、カレーをご飯にかけるだけでなく、事前にうどんを選んでカレーうどんにすることもできるという話を聞いた。
さらに、カレーうどんの場合はカレーに出汁を入れた特製のうどん用カレーをかけるとのこと。そんな至れり尽くせりのサービスに、私は病院食のホスピタリティに驚かされた。

カレーライスは入院患者たちに人気のメニューで、週に一度は必ず出るとのことだった。
1番の人気は「うちのカレー」という、甘口で野菜がゴロゴロと入った家庭的なカレー。次に人気なのは、某有名カレー店のレシピを参考に研究されて作った鹿児島県産の脂身が少ない桜島鶏のミンチを使った由流里ドライカレー。この話は後に話好きの補助看さんから聞いた。

どちらもカレールーの仕込みから手作りで、グルテンフリーという何だか健康的な響きのあるカレーだった。私は、仕事もせずにこれだけの量の食事を食べていたら、あっという間に太ってしまうだろうな、と思いつつも、しっかりとカレーライスを完食してしまう自分に呆れたり、頼もしく思ったりと複雑な気分を感じた。そして、そっと下腹部の肉をさすってみたりもした。

昼食が終わり、食後薬を飲み、ぼんやりとしていると、思いがけず美菜子先生がやってきた。院長先生から今朝の診察について報告を受けたことや、今後のことを話し合ったということだった。そして、今の時点で治療や入院生活について困っていることや、必要な物がないかを聞いてくれた。

私は、院長先生から治療に関することは充分に聞いたので大丈夫だと言った。そして、それ以外にお願いと質問があると前置きして話を始めた。

「あの、こんな質問をしていいのかわからないけど、気になることが2つあります。この部屋の名前のことです。私が知っている精神科の個室は『保護室』と呼ばれていた気がするのですが、ここは保護室ですか?それと、美菜子先生が時々ここのことを『ツェレ』と呼ぶのはどういった意味なのか教えてください。あと、もう一つはシャワーを浴びたいのですが、それが大丈夫かどうかいうことを聞きたくて」

美菜子先生は、私の2つの質問にうなずきながら答えてくれた。
私が言った通り、この部屋は一般的には保護室と呼ばれている場所だった。そしてもう一つの呼び名についても教えてくれた。それは、英語圏では古い言い方で「セル(cell)」と言って、四角い部屋が生物の細胞のようだからそのように呼ばれていたとのこと。
ドイツ語では「ツェレ(Zelle)」と言い、院長先生は日本の医学教育がドイツ語から英語に変わるか変わらないかの頃に医学部で教育を受けていたため、その名残りでカルテをドイツ語混じりで書くし、時々医学用語にもドイツ語と英語の両方を使うということだった。

シャワーについてはもちろん可能で、補助看さんかナースに言えば午後の空いた時間にシャワールームが使えるようにしておくとのことだった。私は、二つの疑問が解決してホッとした気分になった。シャワーを浴びて身体を洗えるとわかると、まだシャワーに入っていないのに気分的にスッキリとした気がした。

「なるほど、院長先生はドイツ語を使うんだ。同じ医学なのに面白い」と思いながら、私は自分の悩みをどこかに置き忘れたように、美菜子先生の答えを心の中で反芻していた。あの熊のような丸っこい体格のいい院長先生がドイツ語を話すところを想像してニンマリとしてしまった。精神科病院の保護室で考えるには、平和すぎる話だと急に可笑しくなった。

そんな平和な気分も、高校生の時の同級生である美菜子先生がこの病院にいてくれて、色々と気遣ってくれているからだ。ここ数日の恐ろしい体験は、自分にとってとても不運なことだったが、この由流里病院という変わった病院が存在していたことは、不幸中の幸いだと心の中で感謝した。

そして美菜子先生が言ったように、3時のお茶の時間の後、私は保護室の並ぶ病棟の端にあるシャワールームで、気持ちよく全身を洗うことができた。

ただ少しだけ気になったのは、補助看の若い女の子がずっと見守ってくれていたこと。それだけは、同性であるにも関わらず、なぜか時々ちょっぴり恥ずかしさを覚えた。

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